03「躍進期2」
・1920年代
概要:
日本本土の総人口は、7500万人台前半に達する。
大戦後の帰還兵による大幅な出産増加が見られ、人口増加数が過去最高を記録した。
また政府は、戦争に従軍した国民への一種の報償として、手厚い社会保障政策を実行。
医療技術のさらなる進歩もあって、日本人の平均寿命が大きく伸び始める。
経済面では、世界大戦により経済、産業、金融が著しく躍進し、アメリカを越える債権保有国、純金保有国となった。
そして大戦後には、軍事に向いていたあらゆるリソースが民需に回り、大衆消費財が革新的な進歩を遂げた。
また国も、戦後不況を回避するため、大規模な財政出動と公共投資を行って景気刺激を続けた。
そして各種電化製品の普及の中で、1925年には世界に大きく先駆けてテレヴィジョン放送が開始された。
またテレビ電波送信のために、高さ300メートル以上の電波塔が江戸、大坂に建設された。
他にも革新的な高速鉄道、旅客機用の飛行場、自動車専用の高速道路など、さまざまな次世代型社会資本の建設が次々に実行された。
それらは、未来的景観を作るものとして人々の注目を集めた。
重化学工業の象徴とも言える幾何学的な科学石油コンビナートが出現したのもこの頃になる。
そして好調な経済、成長した産業、豊富な資金から湯水のように研究開発に費用を投入。
革新的な技術を次々と実用化していった。
原子の力の利用が最も象徴的だが、他にも多数の技術が実用化された。
噴射推進型発動機(噴進機=ジェットもしくはロケット)、電子計算機(電算機=コンピュータ)、抗生物質、石油合成樹脂(=ナイロン)など、実用化された技術は枚挙にいとまがない。
こうした技術による特許料、技術移転料、そして製品化された各種製品の輸出による利益など、膨大な利益がもたらされていた。
ただしこの頃から、日本から他国に輸出や移転される技術は減少の一途を辿った。
日本と他国との技術差が開いて簡単な生産移転などが難しくなった事と、日本が国家戦略として自国の技術優位による事実上の国防を考えるようになったからだ。
そして他国への先端技術輸出や移転を国が規制するようになり、特に軍事に転用可能なものに関しては厳しく規制するようになる。
兵器の輸出も、最新兵器はほぼ輸出禁止状態となった。
一部の新規技術については、開発そのものを秘密にしたりもした。
それでも様々な新規製品が日本から輸出されるようになり、他国も日本でしか生産されない製品を購入するため、日本の富は増える一方となった。
諸外国は、大なり小なり日本の大幅な貿易黒字と技術輸出禁止を非難したが、日本が積極的に品物を売る気がなくても、日本以外の国が高率関税を設定しようとも、各国は日本製品買わざるを得なかった。
何しろ技術程度が低いものであっても、多くの高度技術製品が日本でしか生産されていないからだ。
日本の開国前後と立場が逆転しつつあったと言えるだろう。
また技術奪取したり商品を購入して複製生産しようにも、基本的な基礎技術の差がありすぎたり、基礎的な面からの技術実用化から莫大な投資を行わなくてはならず、その間に日本は新規の技術品を開発して、日本との競争関係は元の木阿弥だった。
しかも日本以外での量産化には、たいてい10年近い歳月が必要となっていた。
そして追いついたと思った頃には、日本は次の技術を産みだしていた。
なお1900年代以後は、アジア近隣から日本本土への移民や流民が増えた。
特に朝鮮、中華地域からの不法移民が多くなってこの頃になると問題視され、強い移民規制が取られるようになった。
それまでに入り込んできた移民にも、不法移民に対しては強制退去の徹底を、正式な移民に対しては日本化政策と日本語教育などの普及が強力に図られるようになった。
そして以後の移民に対しては、高価値移民に限って審査を設けて受け入れるようになる。
連動して対馬海峡や台湾海峡を始め日本沿岸には、俄に国境警備隊でもある海上警備組織が大幅に強化されるようになった。
「国際連盟」(1920年)
第一次世界大戦を教訓として、国家間の国際調停機関としての大規模な組織が設立される事になった。
それが「国際連盟」だった。
ただし加盟した国家は、ヨーロッパと南北アメリカ大陸の国がほとんどで、アジアでは日本の他に数カ国が加盟したに過ぎなかった。
他の地域は、当時ほとんど全てが列強の植民地だったためだ。
そういう時代であったにも関わらず、こうした国際機関が設立された事は革新的な事件となった。
そうした中で、アメリカ、イギリス、日本、ドイツ、フランス、イタリア、ロシアが常任理事国に推薦された。
だがアメリカは、国是(主にモンロー主義)に従って国際連盟そのものへの参加すら辞退した。
結果として他の6カ国が常任理事国となり、世界初の国際組織は運営されることになっていく。
その中で日本は、ヨーロッパ問題に対する中立的立場として重宝されるも、ことあるごとに人種差別やヨーロッパ以外での民族自決、自主独立を訴えたため、次第にヨーロッパ列強から疎まれるようになっていく。
「ワシントン海軍軍縮会議」(1922)
世界初めての軍備縮小会議が開催された。
大きな海軍力、より具体的には当時の戦略兵器である多数の戦艦を保有するアメリカ、イギリス、日本、ドイツ、フランス、イタリア、ロシアが会議に参加した。
その他の戦艦保有国もオブザーバー参加し、世界規模の軍縮会議となった。
この会議で日本は、各国が仰け反るほどの大胆な軍縮を提案する。
財政と経済の逼迫から大規模な軍備縮小をしなければならないヨーロッパ各国からすら、削減そのものはともかく制限量や規制が大きすぎると反対意見が出たほどだった。
日本は総排水量と隻数双方で、大幅な軍縮を提案していた。
日本は、戦艦の保有量を基準排水量の総量で30万トン、隻数12隻を最大上限として、各国の現状に合わせて調整しようと提案したのだった。
この提案は、大規模な海軍を保有するイギリス、アメリカ、そして日本にとっては厳しすぎる縮小案だった。
事実、日本海軍内からも大きな反発があった。
しかし正義は軍縮にあり、アメリカも日本の案には基本的に賛成した。
さらにはアメリカは、個艦性能にも大きな制限を設けようとした。
ここでアメリカは、日本の軍備を自分よりも減らそうと画策し、中でも日本が戦争中に建造した超巨大戦艦に恐怖した結果でもあった。
アメリカでも日本に対抗した巨大な新鋭戦艦が多数建造中だったが、どう考えても就役は間に合わず、廃棄より他なさそうだったからだ。
しかしさすがに既存の最新鋭戦艦を破棄させるわけにもいかず、話し合いの末に戦艦40万トン、空母12万トンを100%として各国の軍縮枠が決定する。
米英日共に100%とされ、ヨーロッパ各国が相応の枠を確保した。
ここで日本は、巨大戦艦2隻を含めるも戦艦8隻(約30万トン)にまで自主的な削減を行った。
保有可能にも関わらず破棄された旧式戦艦も、十分高性能にも関わらず解体してしまう。
また日本は海軍軍縮に連動して、大戦中に動員した軍事力の9割以上を動員解除して、保有しすぎた兵器の多くのうち最新兵器のほとんどを転売輸出することなく自主的に破棄してしまう。
平和という錦の御旗が掲げられていたので各国は表面上称賛したが、内面では日本を不気味な目で見ていた。
また、この会議では国際連盟での人種差別、民族自決の問題から溝の深まりつつあった日英同盟の解消が行われ、太平洋に関する新たな多国間条約が締結された。
二国間条約が戦乱への呼び水になりかねないとされたからでもあったが、日英の関係冷却化が原因なのは明らかだった。
「ローマ進軍とコミュニズム」(1922年)
世界大戦後のイタリア王国は、領土問題や深刻な戦後不況で混乱した。
そうした中で社会主義・共産主義の警戒感を利用したムッソリーニは「戦闘的ファッショ」を組織。
同士を率いてローマへと進み、同年ついに政権を掌握した。
この事件は世界に衝撃を与えたが、ロシア帝国、フランス共和国では、社会主義者・共産主義者弾圧のために政治利用された。
ドイツ帝国は東欧を経済圏に抱えたため、取りあえずは多少安定していた。
ファッショ(全体主義)が、ヨーロッパ政治の大きな流れになる事は当面ありそうになかった。
各国での指導者層の弾圧が徹底していたので、社会主義・共産主義による革命が発生する可能性も低そうであった。
そうした中で、革命運動に敗れたヨーロッパの社会主義者・共産主義者の生き残りはアメリカ合衆国へ移民するようになり、資本主義の中から社会主義が生まれるとして活発な活動を行おうとした。
しかしアメリカでも、法律上で運動中止に追い込まれていく。
このため一部は事実上のロシアンマフィアとなり、ロシア人移民の多いシカゴなどで暗躍するようになる。
マフィア達が仲間の事を「同士」というのは、このロシアンマフィアが起こりとされている。
なお移民先に日本が選ばれなかったのは、言葉の問題もさることながら有色人種国家だったからに過ぎない。
「関東大震災と東京誕生」(1923年)
1923年9月1日に発生した大規模な都市型直下地震により、江戸の町は歴史上何度目かの壊滅を経験した。
1859年の安政の大地震以来の関東大震災だった。
以前から行われていた地震災害への警鐘や政府の耐震政策にも関わらず、死者は5万人を越え大きな損害が出た。
特に地震による崩落よりもその後発生した火災による被害が大きく、江戸の街の過半が焼き払われる事となった。
江戸以外の、関東南部の被害も大きかった。
特にこの時は、普及が進んでいた都市ガス火災が注目されることになった。
この地震に際して日本政府は、ただちに大連立による挙国一致内閣を組閣した。
同時に強力な復興政策の発動を決意する。
しかも復興政策は野心的であり、総額百億円(=ドル)にものぼる公共投資によって江戸市の復興と大改造を決定した。
この年日本のGNPは震災と大増税のためマイナス成長となったが、翌年からは巨大な財政投融資によって復興景気が発生した。
しかししばらく日本の資本投下や製品供給などが国内に大きく向かったため、外国への影響力ばかりか輸出までが一時的に低下した。
反対に海外では、日本と同じく大戦の戦争特需で経済的に膨張したアメリカの躍進が目立つようになる。
なおこの2年後、復興に前後した昭和改元の折りに、江戸は改めて日本=瑞穂国の首都として「東京」と改名され、そのまま特別行政区の「東京都」とされた。
俗に言う大東京の誕生だ。
この時、天皇家の千代田城への引っ越しを含めた大規模な移動も実施され、日本中がお祭り騒ぎとなった。
議事堂や大審院などの政府建造物も合わせて刷新された。
首都機能移転に際して、それまでの大坂や京都も商業都市としての改造が大規模に行われ、日本そのものが大改造されるような大規模な改革も合わせて実施される。
この時の変化は「昭和御一新」と言われ、莫大な財政出動による公共投資が、日本の戦後不況を完全に吹き飛ばした。
「原子の火」(1924年)
日本の神戸理化学研究所が中心となって、原子炉の実用化に成功した。
日本政府は世界に新たな技術が生まれた事を報告し、1928年には早くも商業発電を開始した。
しかし一方では、究極的な破壊兵器へも転用可能であり、物理学者から忠告を受けた世界中が兵器への転用懸念を訴える。
これに対して日本政府は、原子力の力の軍事利用に対する国際監視組織作りを自ら提案。
各国も受け入れ、国際連盟内に組織を発足する。
ただし国際連盟同様にあまり実行力のある組織ではなく、当面は唯一の技術保有国である日本の理性に期待するしかないのが現状だった。
また技術輸出に対しては、日本から理論などはある程度公開されたが完全なものではなく、技術面での公開はほとんど行われなかった。
また実現のためには莫大という以上の資金が必要な上に、必要な基礎工業力が非常に高くないと技術の実現及び管理が難しいため、各国とも実現にはまだ消極的だった。
日本とは地下資源の輸入などで同盟解消後も関係が深いイギリスが、技術輸出第一号になると予測された。
一方の日本国内では、技術漏洩やスパイに対して非常に厳しく取り締まり、日本人であっても厳罰に処された。
「第一次国共内戦と張作霖爆殺」(1929年)
中華中央部では、中華民国内で国民党を中心として様々な軍閥が勢力争いを実施していた。
そして国民党と共産党の勢力争いでは、1927年の上海クーデターで国民党の蒋介石が権力を掌握。
その後各地への遠征を実施した蒋介石により、中華中央部はほぼ統一される。
しかし依然万里の長城以北は、ロシアが支援した民族政府(自称)や軍閥が支配を続けていた。
しかもロシアは、先の大戦からの回復のために現地経営を強化しており、ほぼ完全に植民地化されていた。
そうしてロシア人に「番犬」として飼われていたのが、張作霖だった。
しかし張作霖はいらぬ野望を抱いて、華北への進出を強化して、一時は北平(北京)一帯も支配していた。
しかし北上してきた国民党軍との戦いに敗北し、満州に逃げ帰ろうとする。
しかしその途中、北京郊外で列車ごと暗殺(爆殺)される。
事件調査の結果、国民党を支持するアメリカの影が浮かび上がるが、真相は結局闇の中となった。
しかしアメリカへの不信が各国の間で発生した。
実際、天津に駐留するアメリカ軍部隊の動きが誰からともなくリークされ、アメリカへの国際不審は大きくなった。
なおアメリカが疑われたのは、当時のアメリカの強引な中華市場の進出が背景として存在し、アメリカが、ロシアの影響力後退と中華市場の統一化後の市場独占を画策しているという流れが、最も可能性として高かったからだ。
なお、事件当初は日本もある程度疑われたが、大陸にはほとんど兵力を置かず、勢力圏も常に最低限に維持していた事もあり、早々に潔白が証明されていた。
そして結局事件後に起きた変化は、最終的に自らの国民にみの潔白を証明してアメリカを非難する形になった日本の対立であった。
「世界恐慌」(1929年)
1923年以後、日本の大地震以後海外への膨張が続いたアメリカでは、1924年頃から景気拡大が本格化していた。
しかし次第に、無軌道な景気拡大が進展した。
アメリカ国内では、品物は生産過剰となり、労働者賃金は据え置かれたため購買力が低下した。
一方では農村部は豊作のためにかえって困窮し、都市のみが繁栄するという状態になっていた。
そして未熟かつ歪な経済構造の中で、ごく一部の持てる者の余った金は、先物・株式への投資へと濁流のように流れ込む。
実体の存在しない経済のなかで、見せかけの景気拡大が暴走した。
そして1929年10月、既に飽和していたニューヨークの株式市場が大暴落を開始。
その後も混乱が続き、大規模な恐慌へと突入する。
アメリカから発信された恐慌は、世界中に波及した。
各国は懸命な対策を実施するが効果はほとんどなく、さらなる不景気へと突入していく。
一方で内需拡大で経済が堅調な日本は、震災復興の勢いのままに「日本改造」政策を発表。
世界的な規模での輸出低下に対しては、積極財政政策によるさらなる内需拡大を用いた景気後退の阻止に出る。
これは後に各国がまねるようになるが、日本ほど徹底していないし、日本ほど基礎となる資金が不足しているため、どこも不満足な結果しか得られなかった。
それに日本の積極財政政策は、もはや日露戦争辺りから続いていた伝統的政策でもあった。
他国が簡単に真似出来る政策ではなかったのだ。
このため持てる国は、自らの商業圏を高率関税の障壁で囲むブロック経済に移行。
自国勢力圏内に、他に対する高率関税を設定して経済再建を図った。
この中で持てる国のイギリス、フランス、ロシアは、辛うじて恐慌を押しとどめることに成功した。
ドイツは一時期危険となったが、中部ヨーロッパ連合など東欧諸国との連携と、ロシアとの主に地下資源面での協力関係により恐慌を何とか乗り切った。
また日本は、世界のどこでも欠かせない高度技術製品を作る唯一の国家だった事もあり、高率関税もあまり気にはならなかった。