02「躍進期1」
・1900年代
概要:
日本本土の総人口は6500万人を突破(※台湾など植民地は除外。以下同様)。
しかし約半世紀続いた人口ボーナス期は終了。
それでも、新興国特有の上昇曲線により大きな人口拡大はさらに続く。
江戸時代末期の開国から半世紀の間に総人口は約二倍に増加し、しばらくは年齢別人口構成もピラミッド型のままだった。
また日本領となった日本本土以外への移民の数も100万人に達し、それぞれの地域で大きな人口増加を行っていた。
国内では、政府が努力して避けてなお十年単位で起きるようになった戦争を軸として、各種機械産業が大きく発展、様々な技術、動力機械が登場する。
また日本は、世界に先駆けて窒素固定化を実用化して、人工肥料と火薬の大量生産が可能となった。
同時に化学大国としても浮上する。
またロシアとの戦争で、日本国内の産業が大きく飛躍。
戦争が一種の巨大公共投資となる。
日露戦争後は、不況対策として社会インフラの拡大を目指した内需拡大政策により、結果として一人当たり所得が大きく向上。
世界で初めての積極財政政策が効果を発揮し、都市の景観の一部も今まで莫大な投資を行うことで発展していた欧米先進国に並ぶようになる。
また日露戦争後、世界中が日本が先駆けて実用化した先端技術の習得と導入を始め、日本は特許料と技術移転料で大量の外貨を獲得する。
日本は技術大国としても浮上し、欧米を中心としていた世界全体の技術発展も、日本の影響が少しずつ現れるようになった。
一方日本の農村では機械力の導入が始まり、工業化の進展に伴い崩壊を始めていた小作人制度を農業の機械化が補完した。
国も農業振興制度を整備して、国内人口の増大に対処する。
既に食料の輸出は行われなくなっていた。
また一方では、著しく増加した工場労働者に対して各種労働法や社会保障制度の整備を開始。
特にどちらも、日露戦争後に活発になる。
所得の向上と安価な食料供給量の増大により、日本人の摂取カロリーはさらに増加して体格も本格的に伸び始める。
日本人の間で、肉食も一般的となり始める。
日露戦争での戦闘糧食がこれを後押し。
政府は、小学校では給食制度の一般化に合わせて、子供に牛乳を常に飲ませるようにもなる。
貧民への教育普及と食料供給が目的とされたが、日本人全体の体格向上も大きな目的となっていた。
そして日露戦争では、国土防衛戦争として日本中が盛り上がり、約200万人の戦時動員を達成。
世界の技術水準を越え始めた事を含めて、日本の発展の一つの象徴とされる。
また日露戦争後になると、普通選挙法が施行され婦人参政権までもが認められる。
婦人参政権は世界初の快挙であり大きく注目されたのだが、日露戦争での国民動員に対する政府からの報償であった。
政府が国民に気を遣わなくてはならないほど、日本国民の民度が向上しつつあった何よりの証であった。
また総力戦の中で、社会を維持するための貧しい農村や都市部貧民への政府の保護が本格化。
社会保障制度についても法整備が本格化した。
同時に、日本全体の発展と共に、政府が中産階級、中流階級の育成を熱心に行うようになっていた。
・この時期の重要事件
「義和団の乱(北清事変)」(1900年)
清国で大規模な内乱及び外国勢力の排斥が発生した。
義和団と名乗った事実上の暴徒が北京の各国領事館などを攻撃し、それに乗じた清国政府も宣戦布告したため、各国が派兵に踏み切った。
当初過度の出兵を渋った日本も、結局列強間の国際協調を優先して軍を派兵する事になる。
この時アメリカは、日本の派遣を牽制しつつ必要以上に自軍を派遣して、中華市場へ食い込むことを狙った。
日本は領事館救援はともかく、相手国の首都を一方的に攻撃する事には消極的で、必要最小限の兵力(※1個歩兵連隊を基幹とした旅団編成の部隊)しか派遣しなかった。
戦闘自体は、諸国連合軍の一方的という以上の勝利で呆気なく終了した。
軍事レベルでは、戦闘にすら値しないほどだった。
所詮は民衆暴動の延長に過ぎなかったのだから、当然と言えば当然の結果であり、列強にとっては決定的な弱みを見せた清国は垂涎の獲物でしかなかった。
そして諸外国に首都北京を占領された清国は、首都で大規模な掠奪や破壊を行われた上に、当時の清国では返済が極めて難しいほどの賠償金(4億両)を背負わされる。
また各国は、賠償の一環として天津に租界を獲得した。
列強に連なるという外交常識に従った日本も、租界を得ることになった。
なお、清国及びその後継国家は、1930年代までこの時借金返済に酷く苦労する事になる。
その様は、あまりに見かねた列強が賠償額を引き下げるほどとなった。
戦闘後の日本は、ヨーロッパ諸国から軍事力が認められ、東アジアでの利用価値の高さを見込んだイギリスとの関係が進展する。
つまりこの戦乱は、それまでは妙に技術発展が早いだけの変な連中という見方が多かった日本に、客観的視点が向けられる機会となった。
しかし、ロシアの満州の軍事制圧と遼東半島の強引な租借、さらにシベリア鉄道開通(部分開通)によりロシアのアジアへの進出が決定的となると、境界線の近い日本とロシアの関係はより悪化した。
アメリカもチャイナ市場進出の目論見が絶たれるため、ロシアとの関係を悪化させた。
もっともロシアの皇帝ニコライ二世は基本的に知日家で、特に日本文化や文物の愛好家だった。
だが、ロシアの王冠を戴くには凡庸な皇帝だったため政治には無頓着で、周辺の声に流されるままの政治を行って、日本との関係を無軌道に悪化させていった。
日本側は争いを避けようと懸命の外交を実施したが、国民からは弱腰として付け入られることが多く、日本側の不満が溜まる流れが続き。
日本は、大幅な軍拡と外交の転換を行わざるを得なくなる。
そして、ロシアの南進阻止という利害一致を見たイギリスと日本の間には、1902年に「日英同盟」が成立。
栄光の孤立を掲げていたイギリスの突然の変節と、日本の交渉能力が世界の注目を集めた。
そして日本とロシアは、極東での対立姿勢を強めた。
「日露戦争」(1904年〜05年)
西暦1904年当時の日本の軍備は、主に技術面で既に世界の最先端を越えるようになっていた。
開戦前には、日清戦争、米西戦争の教訓を反映させた革新的な能力を有する新型戦艦(※弩級戦艦。この世界では「香取級戦艦」にちなんで、後にシュライン(神殿)級(香級戦艦)と呼ばれる。)が既に呉の工廠で完成し、艦隊旗艦の座に就いていた(※しかし完成は開戦まで秘密兵器扱いだった)。
また国内では、農業発展のために開発された窒素固定化技術が実現しているため、この技術応用によって大量の火薬が生産可能となっていた。
既に高い鉄鋼生産力も持つため、当然ながら大量の砲弾の製造が可能となっていた。
これが戦争に際しては、ロシア軍との間で凄惨な砲撃戦を誘因する事になる。
既に日本は、無尽蔵な砲撃戦が可能となっていたのだ。
その他この戦争では、主に日本軍により装甲車(戦車)、潜水艦、飛行船、飛行機、など、様々な新兵器も登場した(※毒ガス(化学兵器)の大量生産技術も開発された)。
戦争は、日本の宣戦布告によって始まった。
この時シベリア鉄道でやって来た日本の全権大使が堂々たる宣戦布告を行ったため、当初ペテルブルグの宮廷では何かの冗談ではないかと思われたとすら言われた。
それは、日本側が宣戦布告の24時間後から攻撃を開始すると宣言したからでもあった。
戦闘は、開戦当初から日本軍優位で戦闘は進んだ。
世界的にも優れた国内統治体制による総動員態勢と巨大な工業力が、増援と補給をシベリア鉄道一本に頼ったロシア軍を圧倒していった。
丸一日の猶予が有ろうが無かろうが、現地ロシア軍の敗北は避けられなかった。
空からの偵察や観測によって、難攻不落の要塞と宣伝されたロシア軍の旅順要塞は比較的早期に攻略された。
港外に出撃した旅順艦隊も、空からの偵察で行動を掴まれ捕捉撃滅されるなど、日本軍は偵察に各種航空兵器を多用した。
空という三次元空間の軍事利用に、世界に衝撃が走った。
硬式飛行船、飛行機の開発と実用化は、日本が極秘にしていたので世界各国が知るのはかなり経ってからの事になったが、戦果が伝わると共に大きな衝撃となって広がっていった。
そして主戦線では、日本側の矢継ぎ早の積極的攻勢を前に、ロシア軍のヨーロッパ方面からの大増援前に戦争が決着してしまう。
満州平原の遼陽、ハルピンの二大会戦は、当時としては壮絶な砲撃戦となった。
ロシア軍は従来型の世界的に見ても優れた砲兵を大量に配置し、日本軍は砲の数は少ないが投射弾量でロシア軍を圧倒した。
そして尽きることのない日本軍の砲撃を前にロシア軍が崩れ、日本軍に勝利をもたらした。
東洋の技術が、西洋を圧倒した瞬間だった。
欧米世界の新聞は、コンスタンチンノープル陥落以来の歴史的衝撃だと伝えた。
海では、慌てて派遣が決まったロシア・バルチック艦隊(本国艦隊)の到着よりも早く、ロシア側の要衝であるハルピン、ウラジオストクが陥落した。
このためアジアへの遠征途上だったバルチック艦隊は到着予定の目的地を失い、道半ばのマダガスカル島で帰国を余儀なくされた。
また1905年1月に起きた「血の日曜日事件」とその後の革命未遂といえる騒ぎでロシア国内の政治的不安定度が格段に増した事で、ロシアは戦争継続どころではなくなりつつあった。
そして知日家だが重臣の意見に流され戦争に賛同したロシア皇帝のニコライ二世は、ウラジオストクの陥落を以て名誉ある講和の実現を命令。
ロシアの敗北に慌てたフランスの仲介もあって、1905年3月に講和が成立した。
バルチック艦隊の引き返しを命令したのも、ニコライ二世であった。
そして世界が日本に注目した。
この間イギリスは、情報とロシアへの嫌がらせで日本を積極的に支援し、日本が優位に立つと日本の戦争債も積極的に購入した。
とはいえ、日本を応援した列強は結局イギリス一国だった。
ロシア周辺国は、ロシア憎しの感情から日本を応援したが、国力や距離など様々な問題もあって応援したという以上ではなかった。
戦争前にロシアの進出を強く非難していたアメリカは、日本の圧倒的勝利には表向きは素知らぬ顔を決め込んでいた。
(※超越者の視点より:日本人はロシアを極端に恐れていないので「大津事件」はありません。ニコライ二世は、青年時代のままそれなりの知日家(日本美術品愛好家)として過ごしています。)
「パリ講和会議」(1905年)
フランスのパリで行われた日本とロシアの講和会議では、日本は朝鮮の独立を再度認めさせる。
また賠償金10億円(=ルーブル)を様々な文物や権利の形で得ただけで、交渉当初のハッタリ以外では実際に領土要求は行わなかった。
ロシアの持つ満州の利権や遼東半島の権益も多くを求めず、遼東半島もロシアから清国に返還させた。
日本が得たのは、南満州各地の鉱山採掘権と近隣鉄道の優先使用権だけだった。
日本がハルピンを占領したため鉄道利権ではかなりもめたが、ハルピンから大連一帯にかけての鉄道を国際出資鉄道とする事で合意された。
主権はロシアに委ねるが、日本や他の国々が出資して経営する国際運営の形が取られた。
ただし日本は、返還したウラジオストク、満州南部地域などへの軍備制限は忘れていなかった。
朝鮮に対しては、日本からの多額の借款の代償として、重要港湾、鉄道、電信の優先使用権、関税権、北部の炭田と各種鉱山の権利を獲得した。
しかし日本はそれ以上には興味を示さず、他国に取られないよう衛星国化以上の措置はとらなかった。
朝鮮王家も支配階層の両班も、極端に反日的な者以外には手を付けなかった。
無論だが、朝鮮全体の日本による統治や属国化や、日本による現地の近代化には手を付けなかった。
ロシアや中華がちょっかいを出そうとした時だけ、牽制するに止まった。
既に力を持っている日本にとっては、緩衝地帯は緩衝地帯としての役割を保っていれば、それで問題なかったからだ。
その上で朝鮮半島住民がどう判断するかは、日本にとって関わる気のない事でしかなかった。
また朝鮮半島から日本への移民は、以前と変わりなく厳しく規制して不法移民にも厳しく対処した。
日本側から朝鮮半島への移民も、農業目的や永住目的には大きな規制が設けられたままとなった。
民族問題などの国際問題を嫌ったからだ。
このため朝鮮半島住民は、地続きの満州地域へ多く移民していくようになる。
その後満州では、引き続き北部を中心にロシアが居座る形が継続されたが(※各種鉄道の防衛義務はロシアにある)、その後日露協商が交わされて互いの境界線と権益を改めて設定した。
戦後もロシアは、満州経営に多くの努力を傾注し、日露の関係は主に経済面で良好な状態が維持されるようになる。
世界は、日本の欲のなさを怪しんだりもしたが、必要以上に出過ぎない事に対しては、それなりに好意的に見られた。
日本が強欲でない事は、他の国にはそれなりに都合が良かったからだ。
・1910年代
概要:
本土の総人口が7000万人を突破。
各地の日本植民地や影響下地域での日本人人口も300万人に達する。
国内の資本蓄積の増大に伴い人々の生活が豊かになり始め、多数の中流層が形成される。
一方では、都市部を中心に人口増加に若干停滞が見られるようになる。
このままでは、1980年代には日本全体で人口減少に入る事が初めて予測がされる。
1912年に大正天皇が即位。
聡明で非常に美しい容姿であった。
また即位と同時に日本と瑞穂の国家統合が行われる。
日本中はお祭り騒ぎとなるが、瑞穂という存在が国際的に曖昧なためか諸外国の関心は低かった。
瑞穂は日本以外の国から国家として認識すらされていない日本の一地域のような位置にあったためだ。
故に諸外国では、日本国内に残っていた二つの古代王朝の合体ぐらいにしか見られなかった。
そして久しぶりに瑞穂という名が日本以外で聞かれたのだが、既に諸外国は日本の一部の出来事に大きな関心は示さなかった。
だいいち、瑞穂人と日本人の間で婚姻が一般的に行われているため、日本と瑞穂に違いや垣根があると言っていたのは、当の日本人自身だけでしかなかった。
そして以後、瑞穂という名は歴史上、国際外交上にほとんど上らなくなる。
軍事・外交では、日露戦争後すぐにも日本で新型戦艦(※超弩級戦艦)の建造が始まる。
戦争中に、極秘で建造計画が始まっていたからだ。
無論日本が先頭を走った事になり、就役もイギリスにも僅かに先んじる事になった。
新鋭戦艦《大和(二代目)》、《山城》の就役が発表されると、アメリカの対日警戒が強まった。
しかし日本の軍拡そのものは、規模において列強の中では常に最低ラインで、建造された新鋭戦艦も列強に比べればわずかな数でしかなかった。
日本人は安全保障が安定している限り軍備に対する関心は低く、常に経済発展と技術開発に力を入れていた。
研究開発は、既に世界一の規模と金額になっていた。
大学や研究機関も、既に世界トップレベルにあった。
企業の研究開発に対する投資額も膨大だった。
人材の育成も殊の外熱心だった。
これらの投資と努力こそが、日露戦争での新兵器をもたらしたと諸外国も理解していた。
また日本は、国際外交上での各国との友好関係構築にも尽力していた。
日英同盟は、何度も改訂して随時関係が強化された。
一方では、民族自決や人種差別の撤廃を訴えるため、欧米列強との関係は微妙なまま推移するようにもなっていた。
経済産業面では、鉄鋼生産量がドイツを若干越えてアメリカに次いで二位に上昇した。
巨大な製鉄所が日露戦争前後に次々に建設され、日本各地に新たに造成された埋め立て地には、新機軸の工業地帯が形成されつつあった。
高度産業品の生産でも世界のトップクラスとなり、大きな貿易利潤で国内は大いに繁栄していた。
国内インフラの整備も熱心に行われた結果、世界最先端に並ぶようになっていた。
大坂や江戸では、日本列島が地震地帯特有の耐震技術を反映した重厚な高層ビルの建築が一般的に行われるようになり、モータリゼーションと大量消費の波も押し寄せていた。
また1913年には世界に先駆けてラジオ放送を開始した。
そうした中で(第一次)世界大戦(日本は「(第一次)欧州大戦」と呼称)を迎える。
第一次世界大戦では、日英同盟に従って連合国側に与した。
大戦中盤頃より巨大な軍隊が建設されて順次前線へと向かい、日本全体も総力戦体制へと移行する。
また国内では未曾有の戦争特需が発生して、大量の製品がヨーロッパ諸国とヨーロッパ諸国の植民地になだれ込む。
日本の工業生産は、優れた製品を送り出すことからアメリカを抜いて世界最高を記録した。
数字的には世界の四分の一の生産量に達して、連合軍の兵器廠と言われるようになる。
また戦争によって様々な面でヨーロッパ諸国が没落したため、日本の力は相対的にも大きくなる。
ただし国力を大きくしたのはアメリカも同じで、世界は短くも激しいビッグデュオの時代へと突入する。
・この時期の重要事件
「辛亥革命」(1911年〜)
中華地域での革命までは、民主革命家の多くを日本で保護した。
革命後は徹底して孫文を支持し、袁世凱を帝国主義者だと強く非難する。
諸外国に対しては中華への不干渉主義を訴え、列強各国と意見が食い違った。
新たに興った中華民国では、当面は列強からの強い援助を受けた袁世凱が権勢を振るうが、日本側は一貫して孫文とその一派を支持して保護した。
袁世凱失脚後は、孫文を支持し続けた日本が中華民国に対して大きな発言権を持つようになる。
しかし孫文死後、日本の行動で中華地域はかえって混乱する。
また日露戦争後に日本が満州全体の権益を実質的にはロシアに委ねたままのため、革命後はそのままロシアは南下するようになっていた。
日本も自らの権益の侵害と朝鮮半島へのロシアの浸透が無ければ、中華地域に対しては自らの不干渉主義もあって最低限の行動にしか出なかった。
一方、北清事変以後もロシアの中華地域への浸透は続き、日露戦争以後も確実に万里の長城以北の勢力固めに動いていた。
しかもロシアは、列強に対して一定の市場開放を続けたため、他の国々もむしろ安心して商売できるとして当面はロシアの姿勢を黙認していた。
日露戦争後の満州での状況で、ロシアも何かを学んでいた。
そして辛亥革命と同時に、ロシア勢力の浸透が進んでいた旧清国北部一帯は、中央部と違った道を歩み始めていた。
以後中華地域は、漢民族地域とロシアの支援を受けた少数民族地域に事実上分裂していく事になる。
本来ならロシアの行動は諸外国から非難され、日露戦争のような事が起きるのだが、日露戦争以後の日本は近隣での戦争や勢力争いには消極的だった。
ロシアの矛が、基本的には日本及び日本の勢力圏には向かなかったからだ。
日本としては、ロシアとの一定の関係が維持されロシアが太平洋に進まない限り、必要最小限の行動しか取らなかった。
日本の消極的な行動にイギリスなど諸外国が文句も付けたが、日本政府は中華問題は日本の自存自立を脅かすものではないので、ロシアに対する強硬外交には値しないと言った。
しかし日本の真意としては、中華の統一が大陸国家によって妨害されることは、長期的に見て利益があると判断しての事であった。
そして近隣の日本の行動のため、欧米列強の行動も自然と低調となり、ロシアの中華地域での勢力拡大は続いていく事になる。
それは日本が、ロシアの中華支配を容認したというよりは、ロシアを利用した中華分裂を画策しているようですらあった。
「第一次世界大戦」(1914年8月〜1918年5月)
世界大戦の最大の原因は、列強による帝国主義政策が限界に達したからだと言われている。
大量破壊が発生したのは、産業が発展した結果だと言われている。
しかし列強の一角であり、世界最先端に躍り出つつあった日本は地理的な要因もあって部外者だった。
第一次世界大戦は、日本の発展が技術面や兵器面で若干の影響を与えただけで、ヨーロッパ各国の事情で勃発した。
大きく発展したとはいえ、日本は当時の世界の辺境でしかなかったからだ。
戦争に際して日本は、日英同盟に応じてイギリスに参戦を打診する。
日本は中華大陸への興味がほとんどないので、中華不干渉条約を各国と結んでからドイツに対して宣戦布告を行った。
チャイナのドイツ利権を攻撃以後の日本は、英仏の要請を受ける形で軍艦を地中海・大西洋に派遣する。
しかし陸軍部隊は、準備が整っていないとして当面の派兵を謝絶した。
日本はその代わり、連合軍の兵器廠としての役割を果たすとして事実上の戦時生産体制に移行。
連合軍各国に膨大な物資の供給を開始する。
また連合軍諸国の戦争債務を、可能な限りの低利で引き受けた。
一方戦争そのものは、西部戦線では初期のドイツの奇襲攻撃失敗以後は膠着状態となる。
東部戦線は、ロシアが日露戦争での陸軍の損害を回復しきれていなかった事と、ロシアがアジアに力を入れすぎていたため、ロシアが常に押され気味だった。
しかもアジア各地の進出のために、過剰に金と首を突っ込んでいた事も重なって、早期にロシア国内の戦争経済が傾いていた。
ロシアは、アジアにリソースを注ぎ込みすぎていたのだった。
そしてロシアでは、困窮した国民の手によって1916年に大規模な革命未遂事件が発生する。
これで革命に怯えたロシア政府は、同年秋にドイツなど同盟国側との単独講和を実施して戦争から離脱してしまう。
しかも以後のロシアは、事実上ドイツへの物資供給基地となって連合軍を裏切った。
独露間の停戦条件は、占領地からの撤退、相互不賠償と貿易の再開だったからだ。
西部戦線はそのまま膠着状態が続くが、ロシアの離脱と裏切りに悲鳴を上げた英仏の要請に応えるべく、1917年に入ると日本軍が本格的な陸軍派遣を開始する。
日本は、極度に機械化された戦闘部隊を日本本土で編成すると、イギリスを凌ぐほどに巨大化した海運力を用いて、次々とヨーロッパ大陸へと大軍を投入していった。
ただし現地での兵站負担の多くについては、事前の協定により英仏持ちとされた。
しかしあまりの兵站負担に、英仏の方が日本の派兵を制限するほどとなる。
大量の自動車両、軍団が消費する物資の量が、欧州基準を遙かに超えていたからだ。
また日本は、大軍団と合わせて膨大な日本製兵器をヨーロッパに送り込み、ドイツの得たアドバンテージを相殺しつつあった。
続いてアメリカが、慌てるように遂に参戦に踏み切った。
ドイツはアメリカ軍到着前の1917年春に大攻勢をしかけるが、日本の大規模な増援が間に合って攻勢は失敗してしまう。
夏には攻勢発起点にまで後退した。
ドイツ軍は浸透突破戦で大きく前進したが、日本軍の機械化部隊の機動防御によって前進を阻まれてしまった。
しかしドイツは、ロシアから食料や工業原料を得るようになったため、ドイツ国内の戦争経済が好転していた。
輸出によりロシア経済もある程度持ち直した。
一方のイギリスも、当初はドイツの通商破壊に苦しんだが、日本が本格的な対策を取り始めると事態は逆転。
1917年頃には、ドイツ海軍というよりUボートは完全に封殺されるようになっていた。
また空でも、日本空軍が続々と新型戦闘機と重爆撃機を投入した。
ロンドン空襲に対する報復として、ベルリンに対する固定翼機による大規模な戦略爆撃すら行って見せた。
1917年秋に入ると、戦時生産された2万トンクラスの本格的な航空母艦や5万トンを越える巨大戦艦が戦場に到着し始める。
そうした新鋭艦隊は、ドイツ沿岸まで近づいて海からの空襲すら実現して見せた。
陸でも、日露戦争でデビューした戦車を中心にした機械化部隊による機動戦術が大きく向上していた。
1917年春のドイツの「カイザー・シュラハト」作戦を挫折させたのは、日本軍の機械化戦力による革新的な機動防御戦術だった。
これが日本軍の大規模な攻勢にまで繋がらなかったのは、連合軍全体での補給面、兵站面での不安が強かったからに過ぎなかった。
そして攻勢が完全に失敗して、その後何度も戦術的な戦線突破を図られたドイツ側は、戦線での固守体制を強化すると外交による挽回を画策する。
戦況よりも戦争経済そのものが、大きな危機に瀕していたからだった。
いまだスペイン風邪が猛威を振るう1918年3月に発表された「ブレスト=リトフスク宣言」では、ロシア帝国、オーストリア帝国との折衝後、ポーランド、フィンランド、バルト海地域の独立が発表される。
これにより、ポーランドの独立を戦争目的の一つに掲げていた連合軍の戦争継続理由の一つが消えた事になる。
実際イギリスなどでは国民に大きな動揺が見られた。
またロシア帝国は、各地の独立によって民族主義者の分裂に成功して、国内で大きくくすぶっていた革命の危機が若干遠のいた。
さらには民族主義者と共産主義者を分裂させ、国内の社会主義者、共産主義者の徹底した弾圧が行われた。
そうして大軍を派遣して大きな発言権を持つようになった日本は、講和会議を開くべきではないかと提言するようになった。
日本は、互いに国家が滅びるまで戦うような戦争の益の少なさを説いた。
しかし英仏、特に戦場となったフランスは、賠償金を得なければ戦後国家が立ちゆかなくなるため、ドイツ降伏まで戦うことを主張。
各国にも歩調を合わせることを求めた。
しかし既にロシアは早々に裏切っているため、1916年の時点で各国の継戦機運はそがれていた。
そこにきてのブレスト宣言による独立騒動だった。
結局その後は互いに大規模な攻勢に転じることもなく、1918年5月に停戦が成立した。
何の劇的な変化もない静かな終幕であった。
「パリ講和会議」(1918年〜1919年)
第一次世界大戦の総決算として関係各国がパリに参集し、講和会議が開催された。
会議で一番の問題となったのは、戦争責任だった。
停戦となった戦争において、どこかの国に戦争責任を押しつけて、その国から賠償金を得なければいけないからだ。
しかも今回の戦争は、今までの常識では考えられない戦費が使われ、多くの兵士が死んでいた。
ヨーロッパ各国が受けた傷は、これまででは考えられない程だった。
全ては日露戦争で日本が実現した近代的総力戦が、未曾有の規模で行われたからだった。
この会議で一番に非難されたのは、ベルギーの中立を無視して攻め込んだドイツだった。
そのドイツは、最初に総動員を開始したロシアを非難した。
またロシアは途中で単独停戦したため、連合軍各国から非難された。
そのロシアは、ならば社会主義や共産主義の革命が起きて世界中に伝搬した方が良かったのかと、開き直りとも言える反論を行った。
これらの対立に対して、アメリカが調停に乗り出そうとしたのだが、戦争でほとんど何もしなかった(する前に終わった)アメリカの意見をどの国も重視しなかった。
戦争で儲けただけの国だと、蔑んで見ていたからだ。
そしてこうなると、残るヨーロッパ以外の列強である日本に俄然注目が集まった。
日本は戦争で相応の血も流しているため、無視するわけにもいかなかったからだ。
ここで日本は、まずは連合軍各国に対して自らの持つ債権の返済猶予を提案する。
しかも事前の根回しにより、アメリカ連名での提案として行った。
さらに両国は、フランスやベルギーなど困窮する国に対しては、一部債権の放棄を約束した。
また経済力に余裕のある国である日本とアメリカは、ヨーロッパへの復興に資金援助や資本注入を行うことを提案した。
しかも援助や借款には、連合軍、同盟軍を問わないものとした。
一方では、全てのヨーロッパ諸国が求めた賠償金に対しては、中立を侵してベルギーに侵略したドイツがベルギー単独に対する一定の賠償を行うことを承諾させ、さらには主戦場となったフランスとベルギー復興を援助する事を約束させた。
それ以外では、誰が総動員を始めたとか、人道に反する兵器を使ったとかなどを事後法で裁こうとしたりなど正当性に欠けるという判断を下した。
ただし、使用禁止兵器を定めることには全面的に同意した。
一方ドイツ以外の同盟国だが、オスマン朝トルコ帝国は事実上戦争中に瓦解した。
中東戦線にも参加した日本が、英仏などと共に間に入った形で、各地の民族国家ごとに自治独立を行いこれを列強が委任管理する方針が示された。
オーストリア・ハンガリー帝国は、ロシア帝国が以前と同様に残ることが確定的になると、多くの地域がアメリカの言う民族自決を自ら否定して、オーストリア・ハンガリー帝国を中心とした新たな連合国家建設を訴える。
オーストリア・ハンガリー自身も、戦前までの衰退と戦争での疲弊から帝国の解体と新たな連合国家構想を受け入れた。
この結果オーストリア・ハンガリー帝国は消滅したが、ほぼそのままの領土で、新たに中部ヨーロッパ連邦(MEU=ミッテル・オイローパ・ユニオン)という連邦国家が誕生する。
なお、日本が強く提言した人種差別撤廃に関する提言は、日本の果たした役割と存在感から採用せざるを得なかった。
ただしイギリスはインドを例外とさせるなど、今までの問題は引きずりつづけていた。
そして全ての国が最低限の納得をした段階で、次の会議が開催される事になる。