もうひとり
リゼが行ってしまった。つねられた頬を手でさすりながら思う。ボロボロと涙がこぼれてくる。下を向いてしまう。
自分自身に涙の理由を問いかけられる。
『彼女に置いて行かれたからか?』
「違う」
『日常から急にこんなところで驚いたか?それともここにいることが悲しいからか?』
「全部違うさ」
『どうして涙を流す?』
「自分が弱い一般人だからだよ」
少しの沈黙の後そう答える。
『違う』
「だってそうだろ弱いただの高校生、一般人じゃないか」
『一般人。お前はその目が目覚めた』
ばっと頭を上げると鏡に映った目が蒼い輝きを放ち始める。
『一般人ではなくなったな。ではなぜ泣く』
立ち上がり鏡に手を置く。さっきまでそこには腕が転がっていたがもう跡形もない。
声を絞り出すように答える。
「こんな自分が不甲斐なくて情けない」
『ああそうだな』
「彼女を...彼女を助けたい」
『なら力を貸してやる』声の主は相変わらずの声音でそう言った。
「え?」
視界が覆われるように映像が見える。あれは...体育館か。リゼが影と戦っている。全身のいたる所に切り傷を負い、血が出ている。映像が消える。
映像がなにかわからない。妄想かもしれないし、幻視に似た虚像かもしれない。でもなんとなく彼女が体育館にいる気がする。
足がすくむ。無理やり力をいれて立ち上がる。心臓がバクバクと早鐘を打つ。胸を叩いて無理やり落ち着かせる。足が進まない。足を手で持ち上げてでも前へ。
『そうだ、その意気だ』
この声の主が誰かなんてもう関係ない。自分の内に響く声でも外から喋りかけられているかなんかどうでもいい。リゼを助けに行く。
1歩、2歩、3歩。進むたびに体が軽くなっていく。さっきまで早鐘を打ち、使い物にならなかった心臓は熱く滾るように流れる血と一緒に勇気を運んできていると感じる。足は持ち上げるまでもなく素早く、そして力強く地面を蹴る。
リゼには今日あったばかりだ。殺されかけもした。行ってもこの目で何ができるのかもわからない、なんで助けるのかも。それでも彼女を助ける。だから体育館まで最速で。
さっきまでただの高校生だった。今も殆ど変わらない...でも。
そこにはさっきまで怯えていた一般人はなく、代わりに走った軌跡を描くように蒼い閃光の筋が残される。一階の廊下を抜け、角で滑りそうになるがどうにか体勢を立て直し走り続ける。渡り廊下に出てコンクリートを駆け抜ける。こんなに走ったのは久しぶりで少し息が切れる。体育館にたどり着き重苦しい鉄扉をスライドさせ開け、走っている途中に考えた急ごしらえの思いつきを決行する。
息を吸い込み、言葉を放つ
「リゼ、もう大丈夫だ!だから助けに来た!」
「うつせ!?危ない避けて!」
作戦通り、音に反応したのだろう。影が一斉にこちらに来る。とりあえずリゼから引き離した。やっぱり彼女はボロボロで、体中から血が出ている。
でもこのあとの作戦を考えていない。急ごしらえだったから引き離したあとを考えていなかった。リゼの腕を飛ばした時よりも巨大になった影が槍の形に変わり迫ってきているが何も思いつかない。急に冷静になり、さっきまでただの高校生だったやつがよくやったよな。なんて思いながら目を閉じる。
『おいおい、目を開けろよ』声が響く。先程よりも砕けた口調になっているが先程力を貸すと言った声に間違いないだろう。
『目を開いてよーく見るんだ』
「もう死んでるんじゃないか?あの速度だぞ?」
口には出さないで答える。というか口が開かない。
『死んだ感じがするのか?槍が胸に刺さったか?』
恐る恐る目を開く。少しだけ影との間が縮まったが想定より遅い。というかすべての動作が遅い。影の後ろに見えるリゼが影よりゆっくりとした動作で銃を取り出している。
『あと約15秒この状態で維持できる。だからまず攻撃を避けてリゼのもとへ駆け抜けろ。お前が死んだら俺が困る』
「わかった」また心で答える。なぜだかわからないが死を共有していることが嘘じゃない気がする。
『一度、攻撃が当たる寸前まで等倍に戻す。そしたらよく見て避けろよ』
「ちょっと待て等倍だと!聞いてない」
そう答えた瞬間に影が鼻先すれすれまで瞬間移動が如きスピードで迫ってくる。
さっきまであんなに威勢が良かった心臓が一気に縮こまった。
『よし、遅くしたぞ。ん?なんだって』
「馬鹿かきちんと説明しろ!」
『すまないすまない。ほら避けないとあと10秒だぞ。お前の動きも緩慢になってるからな』
鼻すれすれまで迫った槍を避けるためにいつもの調子で頭を動かそうとするが全く動かない。
「そうかさっきから喋れないのも動作が遅くなってるからか」
勝手に納得する。しかしお構いなしに槍の切先は迫ってくる。今度は全力で顔を回す。すると少し動きが生まれる。普段顔や手足を常に全力で動かすことはないが全力を出す。
『あと5秒だ』
さらりと口にされる。現実の顔は一切変わらないが心では般若のような顔をしながら全身を動かす。幸い影の槍は影全体が一本の槍に変身しており、顔ど真ん中を狙ってきている。まず顔を横に滑らせる。足を踏ん張り、肩、腕、腰すべてを時計回りにひねると槍はかろうじて顔から外れた。
『終了1秒前。等倍に戻るぞ。心の準備やら体の準備はオーケーか?』
心の準備はできているが、体の準備とはなんだろうか。槍から逃れたかどうかの確認だろうか?それだったらギリギリセーフだなと考えつつ等倍に戻る。
影が体育館の出口から延長線上にある校舎に激突すると同時に影から逃げるために使われた全力の力がそのまま時計回りに全身に掛かる。結果体育館の中に転がりこむように滑り込む。全力というのは案外強力でそのまま棒のように転がりながらリゼの元までたどり着く。転がった状態のままリゼに話しかける。
「やあ、助けに来たよ」
リゼはふふっと笑いながら手を伸ばした。