16.「私は、リュカ・カサロス。姫様の婚約者です。……一応」
「姫様!?」
セシリアは、扉をノックすることも忘れ、部屋に飛び込む。
最初に目に飛び込んできたのは腰をぬかしたアミリア姫の姿だった。
彼女はベランダに通じる窓の前で小刻みに身体を震わせていた。
セシリアはアミリア姫に近づくと、彼女の身体を支える。
「大丈夫ですか!? なにが――」
「そ、外に、外に、人影が――」
アミリア姫は震える指先で窓の外を指さした。
セシリアはその言葉に、窓の外を見る。すると、アミリア姫の言うとおり一つの人影がじっとアミリア姫の部屋を見つめていた。外套をまとったその人影はアミリア姫の視線に気がつくと、身を翻した。そうして、逃げていく。
セシリアはアミリア姫の身体から手を離すと、ベランダに駆け寄った。そうして、ベランダの手すりに足をかけると「少し失礼します!」と一言告げ、そのまま跳躍した。
「セシリア様!?」
「待ちなさい!」
セシリアは自分が『セシリアの姿』である事を忘れて人影を追う。しかし、ヒールが邪魔してか思うような速度が出なかった。その間にも人影はどんどん遠のいていってしまう。
(このままじゃ見失っちゃう――)
「あぁもう!」
「馬鹿かお前はっ!」
焦れたセシリアがヒールを脱ごうと考えている時だった。
後ろから急に腕を引かれ、セシリアは体勢を崩してしまう。それを支えたのは――
「オスカー?」
「危ないことはするな!」
そう言ってオスカーは、セシリアをその場に座らせると駆け出した。そうしてみるみるうちに男と距離を詰めると、
「いい加減、観念しろっ!」
男を組み伏したのである。
足を引っかけてから制圧するまでの動きはあまりにも軽やかで、セシリアは数秒固まってその光景を見つめていた。しかし、すぐさま我に返り、オスカーの下まで駆け寄る。
「オスカー!? なんでここに……」
「昨日みたいなことを聞いて、放っておけるわけがないだろう?」
そう言う彼のもとに、兵士が遅れて集まってくる。
兵士にオスカーは事情を話し、足の下の男を縛り上げるよう指示を出した。
「もしかして、私のあとをついてきたの? ついてくるのは明日からって話だったのに?」
「お前はこういうことがあると、すすんで無茶をするからな」
姫のこともだが、きっとセシリアのことも心配してきてくれたのだろう。その事実にセシリアの胸はあたたかくなる。
そうしていると、背後から「セシリア様!」という声が聞こえてきた。
振り返ると、アミリア姫がこちらに向かって走ってきていた。きっといきなり飛び出したセシリアのことを心配してここまでやってきてくれたのだろう。
アミリア姫は、セシリアのそばまで来ると、息を整える。そうして、彼女の隣に立つ男性を観て、目を丸くした。
「オスカー、殿下……?」
「アミリア姫」
見つめ合う二人に、なんとなくセシリアはいたたまれない気持ちになる。
もしかしてこれから、セシリアと婚約破棄した後の話でもするのだろうか。
そう思ったら――
「あの――」
「アミリア姫!」
身体が自然に動いていた。
セシリアはオスカーの言葉を遮って、彼とアミリア姫の間に割り込むように身を滑らせた。そうして、目の前のアミリアに向かって、口を開く。
言うことは、何も考えてなかった。
「あ、あの、申し訳ありません、アミリア姫。オスカー――殿下のことは諦めてくださいませんか?」
その言葉に、姫はこれでもかと目を丸くした。
そんな彼女に一瞬だけ視線を合わせたあと、セシリアはわずかに視線を落とした。
「あの、私、言っていませんでしたが、彼の婚約者なんです! 婚約者なんていっても、その、婚約破棄されそうではあるんですが。でも、私は彼のことが好きで!」
瞬間、背中の方でオスカーが息を呑む気配がした。しかしそんなものに構っていられる余裕はなく、セシリアは胸の中にある想いを、そのまま整理することなく吐き出す。
「私はいつも、その、考えなしというか、出たとこ勝負というか、勢いで何もかもをかたづけてしまうようなところがあるんですが。彼はそんな私をいつもそばで温かく見守ってくれるんです」
思い出すのは、これまで学院で過ごした日々だ。
「無茶したときには時には叱ってくれて、辛いときには励ましてくれて、哀しいときは黙って泣かせてくれて。嬉しいことがあったときは私の数倍喜んでくれるんです。私はそんな彼の隣が居心地よくて、居心地がよすぎて、これまで自分の気持ちに全然気がつけなかったんですけど。今回のことがあって、アミリア姫には――、いいえ、他の誰にも、彼の隣を渡したくないなって思ったんです。私が私らしくいられるのは、オスカーの隣だけだと思うから。だから、その、こんなことを言うのはダメだと思うのですが――」
深呼吸。
「アミリア姫、オスカーのことは諦めてください!」
「セシリア様……」
「もし無理ということでしたら、私も正々堂々戦う用意が――!」
「あの、どうして私がオスカー殿下のことを好きという話になるんですか?」
時が止まった気がした。
セシリアは地面を見つめたまましばらく固まった後恐る恐る顔をあげる。そこには困惑を貼り付けたアミリア姫がいた。
「えっと、姫様はオスカーのことが好きなんですよね?」
「違いますわ」
「あ、もしかして、その、恥ずかし――」
「恥ずかしがってもいませんし、嘘をついてもいません。と言うか、私は最初からセシリア様が殿下の婚約者だと知っておりましたわよ?」
はっきりとそう断じられて、セシリアは「へ?」と気の抜けたような声を出した。
「えぇっと、姫様はプロスペレ王国の王子様がお好きなのですよね?」
「えぇそうですわ。私の好きな人はプロスペレ王国の王子様、すなわち、ニール様がお書きになった小説の主人公・シエル様のモデルとなったセシル・アドミナ様のことですわ!」
再び、時が止まった。
「私とあの本が出会ったのは三ヶ月前! 私はニール様が書いた小説の世界ににどっぷりと浸かり、真実の愛のなんたるかを知りました! そうして私は、シエル様にモデルがいることを知ったのです」
アミリア姫は自身を抱きしめるようにしながら、これ以上ないぐらい、うっとりとした顔になる。
「蜂蜜を垂らしたようなブロンドに、宝石を閉じ込めたような瞳! プロスペレ王国の知り合いの絵師に盗み見で姿絵を描かせましたが、まさに私の求めていた王子様でしたわ」
「おい、セシリア……」
「……ごめん」
隣からこれ以上ないぐらいの責めるような視線を感じ、セシリアは視線を下げた。
だってまさか、『王子様』がそっちの『王子様』だなんて思わなかったのだ。
そんな二人を置いてアミリア姫は胸の前で手を組む。
「けれど、セシル様は遠い国に住まうお方。オランやクロウにもモデルがいるようなので、そこに私が入っていける隙はありませんわ。それならばセシル様は無理でも、いつか私は私の王子様を見つけ出したい! だから、今こうして望まない結婚をするわけにはいかないのです!」
「それは――」
セシリアがなにか言いかけたそのとき、背後から「うぅ……」と男性のうめき声のようなものが聞こえてきた。慌てて背後を見ると、そこには縛り上げられたてほやほやの男がいる。
よく見ると、男の肩が小刻みに震えていた。どうやら泣いているようだ。
フードの中で男は俯きながらずずっと洟をすすった。
「姫様。そう、ですか。姫様は、私とは、結婚できま、せんか」
「結婚?」
「まさか、貴方は――」
フードをかぶったまま男が顔を上げる。
「私は、リュカ・カサロス。姫様の婚約者です。……一応」