11.「とにかく、そこまで気負いすぎなくていい。……良い旅行にしよう」
「お前は本当に、大人しくしているってことがとことん出来ないやつだな」
「ごめんなさい……」
セシリアがそうオスカーに頭を下げたのは、翌朝のことだった。
場所はセシリアの自室で、中にはセシリアとオスカーの他に、白髪の男性医師と、いつもお世話になっている二人の使用人の女性がいる。
目覚めた直後に行われた検査は既に終わっており、どうやら頭にこぶが出来たぐらいで他に大きな異常は見られないらしい。
セシリアは身体を起こした状態で、ベッドからオスカーを見上げた。
「オスカー、あの少女は?」
「あぁ、お前が昨日助けたアミリア姫だな。彼女もどうやら無事なようだ」
「やっぱりあの子、姫様だったんだ!」
「お前、なにも知らずに助けたのか?」
「いや、なんとなくそうかなぁとは思っていたんだけどね」
セシリアがそう苦笑いを浮かべると、オスカーは「お前は本当に、仕方のないやつだな」と苦笑いを浮かべる。そうして、いつものようにセシリアの頭をなでた。手のひらがこぶに当たらないようにしてくれているので痛くはないのだが、医師や使用人たちの見ている前でこうやって子どものように甘やかされていると、なんだか恥ずかしくなってくる。
セシリアが羞恥心から俯いていると、つむじにオスカーの低い声が落ちてくる。
「でも、もう頼むから無茶はするな」
「へ?」
「姫のことももういい。国王には正式に俺から断っておこう」
「え!?」
「流れで俺もなにも言わなかったが、他国の人間にこんな大切なことを任せるべきではない。お前がこんなことでなにかを背負う必要はないからな」
「ちょ、ちょっと待って!」
想像してなかった急展開に、セシリアが焦ったような声を上げる。
そのままオスカーが部屋を出て行きそうな気がして、セシリアは彼の服の袖を対と引っ張った。
「私が怪我をしたのは姫様のせいじゃないよ!」
「それはわかっている。姫は悪くない。ただ、お前が姫を追いかけたのは、国王から姫のことを頼まれていたからだろう?」
「それは、そうだけど……」
セシリアがそう口ごもると同時に、オスカーは医師と使用人を下がらせた。
姫の話になったので、これ以上聞かせるのもまずいと思ったのかもしれない。
彼らが出て行くのを見届けて、セシリアはもう一度口を開く。
「で、でも、一度受けちゃった話だし、今更なかったことにするのはまずいんじゃない? ほら、外交にも影響しちゃうかもしれないでしょう?」
「そういうのは、お前が考えなくてもいい」
「そういうわけにはいかないでしょ! わ、私にも、関係ない話じゃないわけだし」
自分が住む国のことというだけでなく、国同士の外交は、将来セシリアがオスカーと結婚したあとに背負うべき責任でもある。そもそも、そうした外交の場での実績を残すために、セシリアはこの地にやって来たのだ。
言葉に出来ないセシリアの気持ちを全部汲んだのだろう、オスカーはわずかに迷った末、困ったような表情になった。
「それももう、大丈夫だ」
「大丈夫って……」
オスカーの手が、セシリアの手に重なった。
その温かさに驚く間もなく、セシリアの耳に驚くべき言葉が飛び込んでくる。
「……言おうかどうか迷っていたんだが。国に帰ったら婚約破棄をしようと思っている」
「へ?」
青天の霹靂とはまさにこのことだった。
オスカーの言っていることの意味がわからず、セシリアは目を瞬かせる。しかし彼女の理解が追いつく前に、オスカーはさらに言葉を続けた。
「これ以上、俺の我が儘でお前を振り回すわけにもいかないからな。潮時、というやつだ」
潮時、の意味がわからない。なにがどうしてどうなって、そんなタイミングが訪れたのか理解できない。
船の中でだって、セシリアは『オスカーのことを考える』と宣言したはずだ。もしかしてそれが遅すぎるという話なんだろうか。いや、確かに遅すぎるけれど、でも、だからといって、こんな急に――
セシリアは驚きで固まってしまった喉を無理矢理こじ開ける。
「振り回すって、私、別に振り回されてなんか!」
「振り回しているだろう? 現にこうして本来なら行かなくてもいい外交に付き合わされて、怪我まで負ったんだ。これが振り回していなくてなんになる」
「これは、私が勝手に――」
「少し前から考えていたことなんだ」
セシリアの言葉を遮るように、オスカーはそう言った。
その表情は紡いでいる言葉の衝撃をまったく感じさせないほど穏やかである。
「この婚約は俺の我が儘だ。俺だけが望み、俺だけが抗って、なにも関係のないお前を縛っている。最初は、それでも手を離すつもりはなかったんだがな。格好つけて手を離しても、お前はそばにいてくれそうにないし。それならもう、格好悪くても堂々と立場の上にあぐらをかこうと思ったんだが……。しかしもう、ここら辺でやめておかないといけないだろう。じゃないと、俺もお前も後戻りできなくなる」
「後戻りって……」
「父が周りを固めはじめている。今回の外交だってそうだし、最近お前を王宮に呼び出す回数も増えただろう? あれは、お前が俺の元に通っているように見せるためのものだ。マリステラ国王に俺たちの仲の良さを過剰に伝えたのも、そういった工作の一環だろう」
セシリアの手を握るオスカーの力がいっそう強くなる。
「早く決断しないと、早く諦めてしまわないと、全部なかったことにならない。お前の経歴に、これ以上傷をつけるわけにもいかないからな」
(意味が――)
わからない。
頭はきちんと言葉を理解しているのに、あまりにも突然の出来事だったからか、心がそれを受け入れない。理解してくれない。
「オスカーはさ、もう私のこと好きじゃないの?」
そう言ってしまったのは、その方がまだわかると思ってしまったからだ。好きじゃないから離れる。他に好きな人がいるから婚約破棄をする。それならばまだ、受け入れるのは難しくても、飲み込むぐらいは出来そうだったから。
しかし――
「好きだよ」
迷うことのないそのまっすぐな言葉が、なぜだかいつもとは別の意味で苦しかった。
「だからこそ、背負わせたくないと思ったんだ。王妃になったら今のように無邪気に笑ったり、はしゃいだり、出来なくなる。俺はそういうお前が好きだから、手を離そうと思ったんだよ」
「私は……」
「とにかく、そこまで気負いすぎなくていい。……良い旅行にしよう」
言葉の最後に『最後なんだから』という一言がついていたような気がして、セシリアは視線を下げる。
正直、なにを言うのが正解なのかわからなかった。
一年前まで、もっというなら数ヶ月前まで、セシリアはオスカーと婚約破棄する気でいた。そことから考えればこの状況はなにも問題ないはずだ。むしろ、待ち望んでいたと言っても過言ではない。
(なのに――)
婚約破棄という四文字を受け入れがたい自分がいる。素直に頷けない
胸の中にはなんとも形容しがたいモヤモヤが蟠っていた。
オスカーはそんなセシリアの気持ちを知ってか知らずか、彼女を優しく布団に寝かしつけた。そして、掛け布団をかけてくれる。
「俺は今回のことで少し国王と話すことがある」
「姫様のことは、その、まだ言わないで。断るなら、私も一緒の時にしよう」
「わかった」
オスカーはひとつ頷いてセシリアに背を向けた。
そうして忘れていたと言わんばかりに、もういちどこちらに振り返る。
「今日は一日ちゃんと休んでいろよ。誰になにを言われてもなにもするな。わかったな?」
「……うん」
セシリアが珍しく殊勝な態度でそううなずくと、オスカーは薄く笑って、そのまま部屋を出て行ってしまう。その全てをとうの昔に納得してしまったというような彼の表情に、なぜか寂しさがこみ上げる。
一人になったセシリアは、掛け布団を鼻先まで引き上げた。
「オスカー、私と婚約破棄するつもりなんだ。……そっか」
婚約破棄をしても、きっと二人は仲の良い友人のままだろう。そんなことでオスカーがセシリアを避けるようにはきっとならない。だから、立場が変わってしまっただけで、二人は今までと同じように過ごしていくはずだろう。
なにも問題ない。なにも問題ないはずだ。
(なにも――)
溜息。
意識して吐いたものではないそれに、落ち込んでいる自分を知ったような気がして、セシリアは大きくかぶりを振る。そして、自分に言いきかせるように「まだ別に本当に婚約破棄をするって決まったわけじゃないんだし」と口の中で言葉を噛んだ。
婚約にだってそれ相応の手続きが必要だが、婚約破棄はもっと手続きが多い。一度結んだ契約を破棄する行為なのだから当然だ。周りが納得するかどうかももちろんあるだろうし、オスカーの年齢を考えればすぐさま他に相手を探さないといけないという困難もある。
年齢が近く、高位の貴族令嬢で、妃教育をすでに済ましているか、今から教育しても飲み込めるような素養を持ったような女性。
一時期セシリアと並んでオスカーの婚約者候補になっていたソニア嬢は、先月婚約したと聞くし、手続き云々よりもそちらの方が大変かもしれない。
(他に相手がいなかったら、オスカーがどう言っても、結局この婚約が続いちゃうかもしれないしね……)
頭に浮かんだそんな考えに、セシリアがわずかにほっと胸をなで下ろしたそのときだ。
不意に窓の方から、コンコン、とガラスを叩くような音が聞こえてきた。
セシリアはベッドから起き上がり窓の方を見る。
すると再び、コンコン、と、小さな音が聞こえた。
セシリアはベッドから降り、恐る恐る窓の方へ歩いて行く。
そうして、窓を開け放った。しかし――
「誰もいない?」
「あの……」
突然、女の子の声がしてセシリアは窓の下を見た。するとそこには、見知った人が立っていた。
「貴女は――!」
「こんにちは」
そこにいたのは紛れもなく、昨日の少女だった。
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