4.「旅行、楽しみだね!」
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自分の身体が自分のものであったことはない。
自分の頭が自分のものであったことはない。
自分の身体は、頭は、いつだってこの国のものであり、王太子・オスカーという個はこの国の歯車であるからだ。
感情や心よりも優先するべきは国であり、俺に個というものは存在しない。
俺は、物心ついたときからずっと、父や、母や、臣下たちに、そう教えられてきた。
そうなるように教育されてきた。
別に、この境遇を不幸だと思ったことはない。むしろ、国民に身を賭して働く父や母のことを誇らしく思い、自分にも使命があることに張り合いを持っていたぐらいだ。
ただ同時に、自分が彼らのような存在になれるかどうか不安になる事はあったし、出口のない孤独を感じることはあった。
誰にも本音を言うことは出来ず、周りの期待は裏切れない。
誰のことをどこまで信じていいかわからず、気を抜いた姿など誰にも見せることが出来ない。
国のために自分の意思を曲げることは早々に慣れたが、代わりに得たのは自分という存在の不確かさだった。『本当の自分を知ってくれる誰か』にはもしかしたら一生巡り会えないのかもしれない。そんな恐怖が、常に背中にぴったりとくっついていた。
そういった不安が透けて見えていたのだろう、ある日、母がこう教えてくれた。
『大丈夫よ。いずれ貴方も結婚するでしょう? 結婚相手にはなにも繕う必要はないわ。ありのままの貴方でいていいのよ』
結婚相手。
それさえも自分の自由にならないのに、なにを言っているのだろうか。
どこか冷めた頭で俺はその言葉を聞いていた。
だから、俺は諦めていた。母の言葉はただの慰めで、自分は一生この孤独と付き合っていかないといけないのだと思っていた。それさえも、自分が生きて行くための義務のようにさえ感じていた。
彼女に出会うまで――
『美味しいでしょう?』
セシリア・シルビィ公爵令嬢。
初対面で、あろうことか口にテリーヌを突っ込んできた少女だ。
人前であんなに大きな声を出したのも、狼狽えたのも、初めてだった。
動揺という言葉の意味を初めて知ったような気さえした。
自分の中の自分を、無理矢理引きずり出されたような感覚。
彼女とだったら、俺も少しぐらいは自分というものを保てるのかもしれない。
そう思ってしまった。
しかしまぁ、そんなことを考えつつも、多分、一目惚れだったのだと思う。
予測できない行動と裏表のない言葉。
なにより、こちらに向ける屈託のない笑みを、心底可愛いと思ってしまった。
だから俺は、人生で初めて父に自らの希望を述べた。
「父上。俺は、彼女が良いです。結婚するのならば、セシリアがいい」
その頃、結婚相手の候補は二人いた。
一人は、言うまでもなくセシリア。もう一人はソニア・ウィルス公爵令嬢だ。
当時のセシリアには『我が儘娘』という悪評があり、父は俺の結婚相手をソニアにしようと考えていたようだったが、俺のたっての願いということでセシリアが婚約者となった。
それからずっと、俺の我が儘は続いている。
一時期は父からも反対され、今だってセシリア本人から求められてもいない婚約を、自分の我が儘だけでずっと維持し続けている。
俺だけがずっと、側にいてほしいと手を握っている。
(だからもう、さすがにな……)
我が儘は、卒業しなくてはならない。
自分はもう不安に襲われる幼子でもないし、背中にぴったりとくっついている恐怖の紛らわせ方だって覚えた。
好きならなおさら手を離してやらないと、彼女はきっと幸せにはなれない。
「オスカー! 見て見て! すごく大きな船!」
眼前には、頬を赤らめながらはしゃぐセシリアの姿。
つばの広い帽子を潮風に浚われないよう片手で押さえつつ、彼女はこちらを振り返る。
その背後にはてっぺんに水色の旗をはためかす、王族専用の大きな帆船がある。船首には王家の紋章が掘られた金の装飾が鎮座し、船の側面には精緻な金の装飾が煌めいていていた。
「旅行、楽しみだね!」
十二年前と変わらない屈託さで、こちらに笑みを向けるセシリア。
彼女がこれからも笑っていられるのなら、自分が側にいなくても良いかもしれない。
わずかに軋んだ胸の痛みを無視して、俺は彼女に笑みを向けた。
「そうだな」
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