14.「やっと捕まえた」
セシリアの声に、ギルバートは振り返り、ナイフを避けた。しかし、気がつくのが直前だったがため、ナイフの切っ先がギルバートの上着を鋭く裂く。同時に内ポケットまで破れ、そこに入っていた名簿が転がり落た。
「――っ!」
「ギル!」
よろけたギルバートは背中から床にたたきつけられる。
その隙に、男は自身の足下に落ちた名簿に気がつき、手を伸ばした。
それを制したのはセシリアだった。
彼女は足下に手を伸ばす男に勢いを付けて体当たりする。
身体を曲げていたからか、男は思ったよりも簡単に身体のバランスを崩し、その場に尻餅をついてしまった。同時に男の手からナイフもすり抜け、キャビネットの下に滑り込んでいく。
その隙にセシリアは名簿を奪い返した。
「この女――!」
男はすぐさま立ち上がり、そばにあった金属の燭台を手に取った。そうして、セシリアに向かって台座側を振り上げる。
(殴られる――!)
セシリアがとっさに目を瞑った。そのときだった――
「セシリア!」
ギルバートの声がしたかと思うと、背後から伸びてきたあたたかい何かに身体を抱え込まれた。そうして、そのまま引き寄せられ、ぎゅっと抱え込まれる。
同時に ガン、と強い衝撃が身体に伝わった。
しかしそれは衝撃だけで、セシリアには何の痛みもやってこない。
「あんまり、こういうこと、得意じゃないんだけど」
そのどこか苦しそうな声に目を開ければ、セシリアはギルバートに後ろから抱え込まれていた。彼のもう片方の手には先ほど男が振り上げていた燭台があり、驚き固まる男に、彼は手に持っていた燭台をそのまま男に素早く押し込んだ。すると、油断していたのか、男が手にしていた蝋燭側が喉に命中する。溶けた蝋燭がそのままになっていたおかげか、針の部分は刺さらなかったが、鈍い音と共に男はのけぞり、重々しく床に倒れ込んだ。
それと同時に、ギルバートはその場に膝をつく。瞬間、ぼたたたた……と彼の頭からちが落ちて、セシリアは悲鳴のような声を上げた。
「ギル、血!?」
「大丈夫。ちょっと受け止め損ねただけだから」
「大丈夫って血の量じゃないでしょ!」
「だい、じょうぶ」
そう言うと同時に、ギルバートの身体がふらりと揺れた。そうして、セシリアの方に倒れ込んでくる。完全に意識を失ってしまったのか、彼の身体は重く、セシリアは彼の背中に手を回すようにして、彼の身体を支えた。
「ギル!」
セシリアは必死に彼の名を呼んだ。
「ギル! ギル! 目を開けて、ねぇ! ギル!」
どれだけ大声で呼びかけても、ギルバートの目は一向に開かない。
なのに、彼の頭からはどくどくと沢山の血が流れ出ていた。
今までに見たことのない血の量に、セシリアは息を呑んだ。心臓が嫌な音を立てて、呼吸が浅くなっていく。感じたことのない大きな不安感がセシリアの周りにだけ漂って、視界が不明瞭になり、身体が言うことを聞かなくなっていく。
「いやだ。ギル……」
「さっさとその紙を渡さねぇからいけねぇんだ」
その声のした方を見れば、男がよろよろと起き上がってきていた。
セシリアはギルバートをその場に寝かせると、彼を庇うように男の前に立つ。
男は喉を押さえつつ、何度か咳き込んでいた。
そうして、おもむろにセシリアに手を差し出してくる。
「その男みたいに死にたくなかったら、さっさとその名簿を渡せ」
「死?」
「今死んでなくても、もうすぐ死ぬだろ? その様子じゃ」
その言葉に、セシリアはギルバートを振り返った。
確かにギルバートはピクリとも動かない。胸の動きで息はしているのはわかるが、その呼吸もいつもより浅いような気がする。
「うそ……」
(ギルが死ぬ?)
先ほど感じた不安が『死』という明確な形になって、目の前に立ちはだかってくる。
その大きさと凶暴さにセシリアの心臓はぎゅっと収縮した。
そんな彼女に、男はにじり寄ってくる。
「いいから、それを渡せ! そうすれば、お前だけは見逃してやるよ」
セシリアは全ての恐怖を飲み込んで、ギルバートから視線を外し、目の前の男を睨み付けた。そうして、先ほど奪い取った名簿を胸に抱く。
「絶対に渡さない!」
「おい!」
「私に一歩でも近づいてみなさい! 気絶どころじゃすまないんだから!」
そう言ってセシリアは身構えた。正直、セシリアからしてみれば名簿なんてどうでも良かった。それよりはギルバートの命の方が大事だし、これを渡して男ががギルバートを助けてくれるのならば喜んで渡したいぐらいだ。けれど、名簿を渡して彼が見逃してくれるという保証はないし、それどころか一度そんな約束をしても、裏切られる可能性は十分ある。
セシリアは振り返らずに目の端だけでギルバートを見る。ぐったりとしたその様子に、いけないとわかっているのに涙がこみ上げてきた。
(もしかしたら、もうこのまま一生会えなくなるかもしれない……)
そんなこと絶対にないと思いたいのに、頭の中は嫌な想像だけで埋め尽くされていく。
「もういい。こうなれば力尽くで――」
一向に引こうとしないセシリアに、目の前の男が焦れたように口を開いたときだった。
「そこで、なにをしている!」
鋭い男性の声がその場に響き渡った。
声のした方を振り返れば、兵士が数人部屋に駆け込んで来るところだった。
そして、兵士の後を追うように見覚えのある人物が部屋の中に入ってくる。
「オスカー!」
セシリアがそう声を上げると、オスカーはすぐさまこちらを向いた。そうして、セシリアの姿を見て、驚愕に目を見開いた。
「セシ、リア、か?」
そうしてオスカーの視線は、そのまま倒れているギルバートの方へ向いた。
オスカーは痛ましいギルバートの姿に、眉をひそめ息を止める。
しかしそれも一瞬のことで、彼はすぐさま兵士を走らせ医者を呼びに行かせた。
飛び出していった兵士に、セシリアはわずかに安堵の息をつく。
一方のギルバートを傷つけた男は、突然の兵士たちの乱入に、隙を突いて逃げだそうとする。けれど、「捕まえろ!」というオスカーの号令で、兵士が一斉に動き、あっという間に男は拘束されてしまった。
セシリアは男が捕まったのを見届けてから、ギルバートの側に膝をついた。
そうして、目に涙を浮かべながら、ギルバートに呼びかける。
「ギル! ギル! 目を開けて、ギル!」
しかし、彼の目は一向に開くことはない。
セシリアは投げ出されているギルバートの手を握りしめる。その手はまるで人形のように冷たくて、セシリアは下唇を噛んだ。
「ねぇ、ギル、死なないよね。目、開けてくれるよね?」
どこか懇願するように、セシリアはそう言って、両手で握っている彼の手を額に付けた。瞬間、ギルバートとのこれまでのことが頭を駆け巡って、声と共に手が震える。
「やだよ。死んじゃ、絶対、やだよ。やだぁ……」
先ほどまで我慢していた感情が大粒の涙となってセシリアの目からこぼれ落ちた。
彼との別れは想像していたけれど、これから先、一生彼と笑い合えなくなる日が来るだなんて、想像だにしていなかった。セシリアはどんどん冷えていくギルバートの指先に自分の体温を移すようにぎゅっと握りしめた。
怖かった。これ以上ないほどに、セシリアは怖かった。
彼が自分の側からいなくなってしまうことが、手が届かない遠くへ行ってしまうことが、恐ろしくて仕方がなかった。
(だって、だって――)
「ずっと一緒にいてよ。どんな形でも良いから、ギルがいないと、私、わたし――」
そんな自分の様子をオスカーが見ていることにも気づかずに、セシリアはギルバートの身体にすがりつく。そうして、こどものようにしゃくり上げた。
「もういやだぁ。なんでも言うこと聞くから、目を開けてよぉ」
「……じゃぁ、結婚してくれる?」
突然聞こえてきたギルバートの声にセシリアは「え?」と間抜けな声を出した。
信じられない面持ちでギルバートを見れば、彼はうっすらと目を開けていた。そのままの状態で、彼は苦笑を浮かべる。
「目、あけたから。結婚してくれる?」
「ぎる……?」
「ずっと甘やかしてあげるし、大切にしてあげるからさ。もし良かったら、俺を選んでくれない?」
セシリアはその問いかけに答えないまま、唇を半開きにした状態でギルを見つめていた。そんな彼女の様子に、ギルバートはおどけた調子で「……なんてね」と笑う。
その、いつもどおりの彼の言動に、驚きで止まっていたセシリアの涙腺はもう一度決壊した。
「ギル!」
身体を起こしたギルバートに、セシリアは抱きついた。埋めた彼の肩口にいつもどおりの体温を感じて、セシリアは力一杯ギルバートの身体を抱きしめる。
そんな彼女の行動に、ギルバートは苦笑しつつ、そのまま優しく頭を撫でくれた。
「セシリア、ちょっと苦しいよ」
「……する」
「ん?」
「けっこんする」
「………………は?」
今まで聞いたことがないぐらい間抜けな声がギルバートから漏れた。
「なに言って――」
「だって、もういやだ。……私は、私の側からギルがいなくなるのがいやだ!」
幾度となく伝えられた気持ちへの返事を遠回しにしてきたのは、怖かったからだ。
答えを出してしまうことで、彼と自分の関係が変わってしまうことが怖かった。自分の気持ちを知ってしまったら、もしかしたら彼が側からいなくなってしまうかもしれない。その可能性に光を当てるのが怖かったのだ。
でも、そんなに離れがたいのなら、もう答えは決まっている。
それが、今回のことでわかった。
だって、あとにも先にも、こんなに一緒にいたいと思える人は彼を置いて他にいない。
「私、ギルのこと、好きだよ。大好き、だよ」
「本当に? それって、男としてじゃなくて、家族としてじゃない?」
「それは……、わかんない」
正直すぎるセシリアの言葉に、ギルバートはたまらずといった感じでふきだした。
笑い出したギルバートに、セシリアは自分の中の想いを必死に伝える。
今まで彼が自分にそうしてきてくれたように。
「でも、ギルにこうやって抱きしめられたら、どきどきするよ? 手を繋がれたら、幸せな気持ちになるし、甘やかされると、心臓が口から出そうになる。……ギルは、それだけじゃダメ? それだけじゃ、一緒にいてくれる理由にならない?」
「ダメなわけない」
背中に回ったギルバートの腕がより強くセシリアを抱きしめてくる。
もうそれだけで、胸が詰まって多幸感に涙が出てしまうそうだった。
「取り消すなら、今のうちだよ?」
「とりけさない」
「本当に? 今だから言うけど、俺、結構重い男だよ? ここで逃げておかないと、もう一生俺から逃げられないかも?」
「ギルは、私のこと逃がしたいの?」
「まさか。あとで『逃げたい』って言っても、逃がさないためにここで確認しているんだよ?」
その言葉にセシリアは目を瞬かせた。そうして少しだけ身体を離し、ギルバートの顔をまじまじと見つめる。
「大丈夫だよ」
「なんで?」
「私、ギルから逃げたことないでしょう?」
「……そうだね」
ギルバートはセシリアをもう一度強く抱きしめた。
彼はまるでセシリアの存在を確かめるように、彼女の肩口に顔を埋める。
そうして、喜びをかみしめるように声を漏らした。
「やっと捕まえた」
ギルバートがそう言うと同時に、兵士に呼ばれた医者が部屋に飛び込んでくる。
部屋を見回せば、オスカーはいつの間にかいなくなっていた。
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