30.再会
兄様は悪いことをしているのかもしれない。
ローランの胸には、そんな予感が常にあった。
それはジャニスが本格的に失踪する前から。正確には、彼の母親であるクロエが死んでから、ずっと胸に蟠っていた。
だって誰よりも傍で、ローランは彼のことを見てきたのだ。一番上の兄が彼に軽蔑の言葉を投げかけている時も、二番目の兄が彼に無視を決め込んでいる時も、ローランは決してジャニスのそばを離れず、ずっと変わらず慕っていた。そばにいた。そんなローランだからこそ誰よりもジャニスの変化には敏感だったし、変化にだっていち早く気がついた。
本格的に失踪してからは、予感はある種の確信に変わり、ローランの胸を締め付けた。
大好きだった。本当に大好きだった。
尊敬していた。敬愛していた。尊崇していた。
彼のようになりたいと心から願っていたし、また彼のようにはなれないだろうと諦めに似た憧れの気持ちも抱いていた。
だからこそ、彼の悪事を知って、こう思うのだ。
(兄様を止めないと!)
絶対に止めなくてはならない。
ジャニスは死のうとしている。しかも、たった一人で死ぬのではなく、大勢の人を道連れに、彼は死のうとしている。その理由も方法も全くわからないけれど、しかし自分の予感が正しいことだけは、ローランは自信を持って言えた。
ローランは走る。
向かう先は、街のはずれにある打ち捨てられた教会だ。そこは以前、ジャニスから『母親との思い出の場所』として聞いていたところだった。
それが、どういう思い出かわからない。
ただ、ジャニスの母親であるクロエはこの国の出身らしく、数年に一度はジャニスを連れてこの国に戻ってきていたらしい。その教会の墓地にはクロエの両親が埋葬されているらしく、いつも一緒に墓参りをしたのだと、彼はなぜか楽しげにその時の思い出を語っていた。
どうしてそんなに楽しそうなのかわからなかったけれど、その時のことを思い出すジャニスの顔がとても楽しそうで、幼子ながらに『その教会は兄様にとって大切な場所なんだな』とローランは思っていた。
(海を背にした、崖の近くに立つ教会!)
ローランはジャニスから聞いた話を思い出しながら足を進める。
図書館で調べた限り、この町でそんな教会は一つしかなかった。だからきっと間違いないだろう。
(ここに、兄様はいる!)
目の前には、闇夜に建つ、うち捨てられた教会。
その不気味さは足が震える位だったけれど、ローランは勇気を振り絞り、教会の建物に向けて声を張り上げた。
「兄様、いるんでしょう? いるなら出てきてください! 私です! ローランです!」
その声は、虚しく暗闇に吸い込まれる。
「お迎えにあがりました! 私と一緒にノルトラッハに帰りましょう!」
応えてくれるものは、誰もいない。
ローランは渾身の力を込めて再び叫ぶ。
「兄様――!」
「……ローラン?」
その声が聞こえたのは正面からだった。顔を上げれば、教会の扉が開いて一人の男性がローランのことを見ている。彼はその男性をよく知っていた。
白銀の髪に、アメジストのような紫色の瞳。鼻筋が通っていて、手足は長い。いつも優しげな笑みを浮かべている、その人は――
ローランはたまらず駆け出した。そして、目元に涙を浮かべながら彼の胸に抱きつく。
「兄様!」
「どうしてお前がこんなところにいるんだ?」
「兄様を、兄様を探してっ……!」
その後は言葉にならなかった。
嬉しいような、苦しいような、例えようもない気持ちが胸を占拠して、涙が溢れそうになった。しかしそれはぐっと我慢する。自分の目的は彼の胸で泣くことではない。
だから、精一杯の想いを込めて、ローランはこれだけを口にする。
「兄様、もう帰りましょう! 兄様のことは私がちゃんと匿いますから。王宮には戻らなくてもいいですから!」
「……ローラン」
「前に行った北の大地があったでしょう? あそこのオーロラが見えるところに土地を買ったんです。そこに兄様を匿えるように――」
「私は行かないよ」
まるで冷や水を浴びせかけられたようだった。
その冷たい声にローランは信じられない面持ちでジャニスのことを見上げる。
「兄様?」
「帰りなさい、ローラン。ここはお前のいるべき場所じゃない」
「でも兄様――!」
「迷惑だと言ってるんだ」
厳しい声を出すジャニスの後ろには、いつの間にか一人の綺麗な女性と、彼のナナシがいた。名前は確か、ティノ、だったか。
二人はジャニスを止めることなく、じっとローランとのやりとりを見守っている。ジャニスはローランから距離をとると、先ほどよりももっと冷たい声を出した。
「知っているか、ローラン。お前は私のことをずっと慕ってくれていたが、私はお前のことがずっと嫌いだったよ」
「え?」
「ずっとずっと嫌いだった。だって、私の後ろをついて歩くしかできない能無しのどこを好きになれというんだ。父上の手前、仲良く見えるよう振る舞っていたが、本当はずっと、お前の手を振り払いたくて仕方がなかったんだよ」
「兄様……」
発した声は震えていた。気がつけば両足も震えていて、どうしてそんなことを言うのだろうという虚しい気持ちばかりが胸の中で大きくなる。
「私が怖いか? それでいい。もう帰れ。そしてもう二度と、私の前に姿を見せるな。虫唾が走る」
ジャニスはそう吐き捨てると、ティノに手を伸ばした。するとティノは彼の手に鞘に入ったままの剣を渡してくる。レイピアのような細長い剣だ。
ジャニスは装飾のついた鞘を無造作に投げ捨てると、剣を一度だけ振り、そして切っ先をゆっくりとローランに向けた。その所作には、一点の曇りもない
「私は本気だ。ローラン、早くこの国から――」
「兄様、私を舐めないでください!」
ローランは躊躇うことなく剣を掴んだ。瞬間、ジャニスがはっと息を飲む。
手のひらに剣の刃が当たっているからだろう、手のひらがじわりと湿った。血が手首から腕にかけて何本もの線を引く。
「知っていますよ。本心じゃないでしょう? 私をこの国から逃すためにそう言ってくださっているのでしょう? ……私は、大丈夫です」
掴んだ剣の切っ先を額に当てる。グッと力を込めると、手のひらから流れているものと同じものが、額から滑り落ちてくる。
「私は、ちゃんと覚悟ができていますから」
「やめ――」
ジャニスが思わずそう声を荒げた時だった。
「ローラン!」
唐突にそんな声が背中から聞こえた。振り返ると肩に何やら模様のようなものが煌々と浮かび上がっている。そして、目も開けていられないほどの光で視界が満たされた。
「やっと見つけた! ジャニス!」
次に目を開いた時、ローランはセシルに庇われるように、その場で腰を抜かしていた。
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