28.「お前は、よく悩め」
涙ってなかなか尽きないものだな……
というのが今日の感想だった。
涙が涸れ果てるなんて表現があるけれど、今のセシリアに限って言えば、溢れてくる涙を集めたら大海にだってなるんじゃないだろうかというぐらいだし、自分の中にこんなに水分があったのかと思うぐらい涙は尽きなかった。
嗚咽を吐きすぎた喉は熱くて、涙をこぼしすぎた目元は痛い。
なぜか頭はガンガンと痛むし、鼻もツンとした痛みからヒリヒリとしたものに変わっていた。
寮に帰る前に屋上であれだけ泣いたというのに、寮に帰ってからも涙が止まらなくて、結局「私もう少し外で涼んでから帰る。ギルは先に帰っててて」と彼を先に帰したぐらいである。
セシリアは涼の近くに置いてあるベンチに座りながら、ハンカチで目元を覆った。ずっ、と鼻を啜れば、『でもギルは、私みたいに泣けないんだよな』となぜかそれで悲しくなってきて、また涙をポロポロと溢れさせるを繰り返した。
もう完全に涙腺が壊れてしまっている。悲観的になった頭はもう一生涙が止まらないんじゃないかと思ってしまうほどだった。
(あーもー、目が痛い。いい加減泣き止まないといけないってわかってるんだけど……)
月を見上げながらそんなふうに思った時だった。芝生を踏みしめるようなかすかな足音がセシリアの耳に届いた。それは寮の入り口がある方向からで、セシリアは顔をそちらの方向へ向けた。
「あぁ、こんなところにいたのか――って、なんて顔をしてるんだ!?」
そこにいたのは、セシリアの顔を見て驚き慄くオスカーだった。
セシリアは目を瞬かせた後、「オスカー……」と呆けたように呟く。そんな彼女の様子を見てただ事ではないと思ったのか、オスカーはセシリアの前に膝をつくと、オロオロと彼女の状態を確かめた。
「どうかしたのか!? 何かあったのか? もしかして誰かに何かされたのか?」
「えっと……」
「誰かに何かされたら、俺にも言ってほしいとあれほど――」
「ち、違うよ! 違う!」
完全に決めつけにかかってきたオスカーにセシリアは顔の前で両手をブンブンと振る。
「私が何かされたんじゃなくて! 今回は私がしちゃったというか……」
「お前が?」
「うん。なんというか、人を傷つけてしまって……」
全部言うのはためらわれて、それだけ口にする。
するとオスカーはしばらく固まった後、「ギルバートか?」と口にした。
瞬間、セシリアはオスカーにかぶりついた。
「な、なんでわかるの?」
「お前がそんな泣くなんて、ギルバートのことぐらいだろう?」
さも当然とばかりにそう言われ、なんだか立つ背がなくなってくる。 これは、オスカーが鋭いのだろうか。それともセシリアがわかりやすいのだろうか。
「どうした? また喧嘩でもしたか?」
「またって……」
その瞬間思い出したのは、前にギルバートと喧嘩した時だ。林間学校の時にオスカーと同室になったことをなぜか怒られて、セシリアは彼の怒りを『自分がちゃんとしてないからだ』と解釈した。
しかし、今なら彼の怒った理由もなんとなくだがわかる。
(なんか私、本当に傷つけてたんだなぁ)
またじわりと涙腺が緩んで、オスカーが「大丈夫か?」と覗き込んできた。言葉を発することなく頷きだけでその問いに答えると、「そうか……」とわかったのかどうなのかよくわからない声を出して、セシリアの隣に腰掛けてくる。
「で、喧嘩なのか?」
「喧嘩。まぁ、そんな感じかな」
「そうか。……早く仲直りしろよ」
「うん」
そう答えたが、セシリアは知っている。きっと明日には元通りになっているのだ。ギルバートはいつも通りに彼女に話しかけてくるだろうし、セシリアだって最初は戸惑いながらだろうが、それに応じるだろう。
彼はそういう自分の弱ったところや傷ついたところを誰にも見せはしない性格だし、セシリアが困るだろうときっと無理をするに違いない。
わかるのだ。わかっているのだ。
そして、それに甘えることしかできない自分がいるのも、わかっている。
伊達に十二年も姉弟をやっていないのだ。
「オスカーはさ、今日どうしたの?」
「俺か? お前が夕食時にいないのが気になったからな。食事を持って行ってやろうと探してたんだ」
そう言って彼がセシリアの膝の上に置いたのは、小さな紙袋だった。開けてみると、中には三角形のサンドイッチが二つ入っている。中身は葉物野菜と塩漬け肉の簡易なものと、夕食に出たものを挟んだのだろうか、分厚い鶏肉と炒った卵が挟んであるボリュームのあるものだ。
「わぁ! 美味しそう!」
「腹が減ってるかと思ってな。足りなかったら少し多めに作ってもらったから後で食堂に行くか?」
「あ、うん!」
さっきまで元気がなかったのに、パリパリに焼かれた鶏肉の美味しそうな匂いを嗅いで、ちょっと気分が上がってくる。
お腹だって空いていなかったのに。というか、食事のことなんか頭になかったのに、お腹まで鳴り出してきて、本当に自分でも現金な人間だと思ってしまう。
涙だって気がついたら止まってしまっている。
セシリアはサンドイッチが入っている紙袋に手を入れる。最初に取り出したのは、鶏肉の入った方だった。いつもだったら軽いものから食べるのだが、なんだか今日はちょっとお腹が空いていたらしい。
「オスカーはいる?」
「俺はいい。夕食をちゃんと食べたからな」
「そう?」
セシリアは小首を傾げた後、サンドイッチにかぶりついた。パンに挟んであったにもかかわらず、鶏肉はべちゃべちゃしておらず香ばしくて、皮まで美味しい。まとっているソースが、甘塩っぱくてパンにとてもよく合うのだ。
「美味しい! オスカー、これ美味しいよ?」
「そうか」
「うん! すっごく美味しい! ほら!」
「……ほら、って」
セシリアが無邪気に差し出してきたサンドイッチをオスカーは半眼で見つめ、やがてひとつため息をついた後、彼女の手首を持った。
「へ?」
そして、彼女が食べてない方の反対側からかぶりつく。
「ん。本当だな。いい味だ」
親指で唇の端を拭いながらそう言われ、かぁっと頬が熱くなった。
自分が照れてしまったと気付いたのはオスカーが手を離した直後で、どうして照れてしまったのかは、それからしばらく経ってもわからなかった。でもなんとなく、彼が食べたそのサンドイッチに口をつけるのが躊躇われてしまう。別に嫌悪感があるとかそういうことではないのだが……
(いやでも、残すわけにはいかないし……)
残すのは勿体無いし、食べたくないわけではない。
一口食べて感じたが、身体は間違いなくカロリーを求めていた。それもそうだろう。今日は昼食も取らずに学院内を走り回り、ついでに障りに侵された女子生徒までなんとかしたのだから。
なんとなく先ほどまでよりも小さな口で二口目を運ぶと、オスカーがセシリアの方をじっと見ていることに気がついた。「なに?」と問うとどこかほっとしたように彼は微笑んだ。
「まぁ、少しは元気が出たみたいだな」
「なんか、心配かけちゃったみたいで、ごめんね?」
「気にするな。こっちが勝手に心配しているだけだからな」
セシリアはそのままもしゃもしゃと、無言でサンドイッチを一つ平らげた後、隣で座っているオスカーを見上げた。
(なにか、話した方がいいかな)
別に無言が苦ではないが、なんとなくそう言う気分になってしまい、セシリアは逡巡した後、「あ!」と顔を跳ね上げた。
「そういえば、オスカーは薔薇、どうした……の……?」
言ってる途中で気がついた。これは絶対にダメな質問だと。
もしこれで、薔薇を差し出された暁にはまたさっきと同じように悩んだ末に二者択一の答えを出さなくてはならないし、もしそれでオスカーを傷つけるようなことがあれば、おそらくセシリアはしばらく立ち直れない。二人同時になんて無理だ。精神的に参るにきまっている。
しかも万が一、「ああ言う行事はめんどくさいからな。他の人にやった」なんて回答だった場合、どうすればいいのだろうか。絶対にモヤモヤしてしまうだろうし、「なんで!?」と意味のわからない問いだってしてしまいそうである。
オスカーは少し驚いた様子で、目を瞬かせた後「いるのか?」と聞いてくる。
セシリアは悲鳴のような声を出した。
「いいえ、ちょっと出さないでください!!」
「だと思った」
ふっと笑われて恥ずかしくなる。
冷や汗をかくセシリアに、オスカーは肩を揺らした。
「他の人間にやるわけないだろう。だからと言って、今お前に渡しても、いろんなことで悩むだろうしな。立場の上では受け取らないといけないとかなんとか……」
「まぁ、そうだね」
セシリアの立場で言えば、受け取らないわけにはいかない。それは、気持ちとはまた別の義務のようなもので。でもそれが正解じゃない、正解にしてはいけないということも、セシリアは重々わかっていた。
「俺もそういう意味で受け取られても虚しいだけだからな」
だから渡す気はないと暗に言われて、ほっとすると共に、少しだけ物足りなくもなる。
そんな自分のわがまますぎる感情にそっと蓋をして、セシリアは夜空を見上げた。
「気持ちって難しいよね。なんかさ、人の気持ちも自分の気持ちも思うようにいかなくて、ちょっとへこんじゃうよ」
「まぁ、そうだな」
オスカーは立ち上がる。そして、彼女の頭を乱暴にかき混ぜた。
「お前は、よく悩め」
「えぇ!?」
「人の気持ちを十二年間も振り回した罰だ」
そういう彼の顔は穏やかで、もうそれだけで励まされているんだなというのが十二分に伝わった。
「オスカー、もう帰るの?」
「あぁ。俺がいたら泣けないだろう?」
そう言ってオスカーはセシリアの肩に自分の上着を掛けた。
「泣きたい時に泣いておく方が後でスッキリするからな。思う存分ないておけ。……身体だけは冷やすなよ?」
「うん」
その気遣いに胸が詰まって、セシリアの唇は弧を描く。
「オスカー、ありがとう」




