27.誰よりも幸せに
その後、グレースから促されるようにセシリアは研究棟から外に出る。
いい感じに時間が潰せたからか、時間はもう夕方近くになっていた。
「そろそろ寮に帰っても平気かなぁ……」
セシリアは落ちかけた太陽を見ながらそうこぼした。
昼間は寮の前に女生徒が張っていて、もう授業がないにもかかわらず寮に帰る事は叶わなかったのだ。しかも、なぜか一部の男子生徒まで女生徒に協力しているのだから、突破も困難だ。女生徒相手ならばいざ知らず、男子生徒も……となると、さすがのセシリアにも手に余る。
それでもと、セシリアは寮の方につま先を向けた。とりあえず寮の部屋に帰れば安全なのは間違いないのだ。さすがの女子生徒も男子寮までは追ってこないだろう。男子生徒の一部だって、きっと婚約者に頼まれたから協力しているとかだろうし、人の部屋に侵入するという危険も犯さないだろう。
そんなふうに思い、寮の方を覗き見たのだが……
「うわぁ……」
案の定というか、やっぱりというか。寮の前には人がいた。
キョロキョロと辺りを見渡しながらセシリアを探しているだけなら可愛いもので、頭にセシル様LOVEみたいな鉢巻を巻いて入り口にべったりと張り付いているものまでいるのだから、入るのは困難と見て間違いないだろう。
「もう少し学院の側で逃げ回るか……」
少なくとも、夜になるまで……
そう思いながら踵を返したその時だった。後に人の気配がして、セシリアはとっさに振り返る。すると、一人の女生徒とパッチリ目があった。そして――
「皆様方! セシル様、こちらにおられましたわよ!」
まるでサイレンのように、女生徒はそう声を上げた。瞬間、「きゃあぁああぁぁ」という声とともに、足音が聞こえてくる。セシリアは青い顔で駆け出した。
「もう、なんでここの女の子はっ! あんなに積極的かなっ!」
そんな文句を言いつつも、セシリアはわかっていた。これは自らが蒔いた種である。
再び始まった追いかけっこに、セシリアは建物の中に入る。広いところで逃げ回ると、この人数差は不利だからだ。
廊下を走りながら、セシリアは周りを見渡す。もう走るのにも疲れてきたので、この辺で一旦、どこかに籠城なり何なりしたほうが楽だろう。
(だけど、教室を一つずつ探されたら見つかっちゃう上に、鍵がかかる教室でも出入り口で待たれたら終わりなんだよなー)
籠城するのならばその辺も考慮しなくてはならない。
そんなことを考えながら走っていると、ふと横から手が伸びてきた。避ける間もなく手首を掴まれ、階段の踊り場に連れ込まれる。思わず悲鳴を発しそうになるが、それも口元を覆ってきた手によって阻まれてしまった。
「んー!」
「静かに」
聞き覚えのある声でそう嗜められ、セシリアは口をつぐんだ。
彼女はゆるゆると顔を上げる。すると、そこにいたのは――
(ギル!?)
ギルバートがいた。彼はセシリアと目が合うと、微笑みながら口元から手を離してくれた。そして人差し指を立てて「静かに」とジェスチャーをする。
直後――
「セシル様ー!」
とセシリアが向かっていた方向から女生徒が数人走ってきた。
その光景にセシリアはゾッとする。あのままだと正面エンカウントしてしまうところだった。
女生徒が走り去った後、ギルバートはセシリアの手首をつかんだまま「こっち」と階段を登っていく。セシリアは誘われるままついて行った。
そして……
「わぁ!」
たどり着いた場所は、学院の屋上だった。
ヴルーヘル学院の屋上は、出入り口が鍵がかかる仕様にはなってはいないものの、面積が広く入り口が複数あるので、誰かがやってきても袋小路になることはない。籠城はできないが一定の時間身を隠すのに、とても都合のいい場所だった。
セシリアは改めてギルバートを振り返った。
「ギル、どうしてここに?」
「この時間まで寮に帰ってきてないからさ、みんなで探しに行こうって話になったんだよ。で、セシリアが隠れそうな場所はどこかなって探してたら、たまたま、ね?」
「すごい! よくわかったね!」
「まぁ、セシリアのことなら大体ね?」
ギルバートは肩をすくめる。
学院の敷地はとても広い。学院の建物の中に限ったとしても、なかなか一人の人間を見つけられる広さではない。女生徒たちのように複数人で一人を探すならば見つかるかもしれないが、一人で一人を探し出すのなんて至難の業である。
「なんかみんなに迷惑かけちゃったね。私もこの時間には寮に帰ってる予定だったんだけどさぁー」
「ま、あれじゃ帰れないよね」
寮から出るときに外の警備体制を見たのだろう、彼はそう言いながら苦笑を漏らす。
「オスカーがさっき女生徒たちに寮に帰るように話してたから、多分そろそろいなくなるんだと思うけど……」
「ということは、もうしばらくの辛抱かー」
「だね」
オスカーが自分の意思によって権威を振りかざすことはほとんどないが、彼が『そろそろ帰ったらどうだ?』と言って、従わない生徒はなかなかいない。それこそダンテや、いつものメンバーならば『えー!』と口をとがらして意見をすることもあるだろうが、その他の生徒はそうもいかないだろう。
セシリアは柵にもたれかかりながら、隣のギルバートに視線を移す。
「そういえば、ギルは薔薇大丈夫だった? 私みたいに追いかけ回されてない?」
「まぁ、なんか色々言ってくる人はいたけどね」
「そっかぁ」
さすがにモテるなぁ……と、どこか他人事のように思う。
そんなセシリアの感想にギルバートは苦笑を浮かべた。
「そこは、そっかぁ、って感想になるんだよね。セシリアは」
「え?」
「なんでもない。やっぱりなぁってことだよ」
何が『やっぱり』なのだろうか。
セシリアが首を傾けたその時、先ほど入ってきた扉が、がちゃん、と音を立てた。音のした方を見ると、先ほど二人が入ってきた扉が開いている。その扉の向こうから、一人の女生徒が顔を覗かせた。
「わ、やば……!」
セシリアは咄嗟に逃げようとしたのだが、現れた彼女の雰囲気に、足を止めて息を呑んだ。
現れた女生徒のたたずまいはすごく暗かった。目は血走っており、足元もおぼつかない。その上身体のいたるところから立ち上がる黒いもや――
「障り――っ!」
「なんで、今!?」
彼女は錆びたブリキ細工のように、ギリ、ギリ、と緩慢な動きで顔を上げると、焦点のあってない目でセシルを見つめた。そして「セシル様?」と呟く。
そのあまりのホラー味じみた演出にセシリアの唇から「ひっ!」と小さな悲鳴が漏れた。
「これってもしかして、俺のせい!?」
「まぁ、きっかけはそうかもね」
バレンタインデーにセシルから薔薇がもらえなかった……というのが、障りに心を病まれた原因ではないだろうが、恋愛ごとでとてつもなく悩んでいて、憧れていたセシルにも……ぐらいならありえるかもしれないし。セシルに熱を浮かしているから彼女自身の本当の恋愛がだめになったとか、そういう可能性ならばいくらでもある。
とにかく、彼女のターゲットはセシルで、追ってきたことは間違いがないようだった。これでは逃げるわけにもいかない。
しかし、たった一人だけなので、大したことはないだろう。
二人はなんとなくそうたかを括っていた。
彼女の手にあるものを見るまでは――
「なんでナイフ――!」
彼女の手には小さなナイフが握られていた。よく見ればそれは食事をする時のもので、おそらく食堂から盗んできたものだろうと推測できた。
女生徒はこちらに標準を合わせると、身をかがめ……一気に突進してきた。
まるで弾丸のようなその動きに対処するのが一瞬だけ遅れ、宝具に手を触れることができなかった。その代わり、彼女の持っていたナイフを蹴り上げる。
大きく弧を描く銀色の得物。彼女が惚けている隙にギルバートが押さえにかかるが……
(あれって――)
ポケットから彼女が取り出したものに、セシリアは息を呑んだ。
彼女が思っていたのは銀色に光るもう一本の――
「ギル!」
セシリアはギルバートを突き飛ばした。瞬間、眼前に迫る銀色のナイフ。
すべてがスローモーションに見える世界で、彼女はぎゅっと目を閉じた。刺されるまでの短い間なのに、思考が驚くほど回る。
(痛いのかな)(怖いな)(やばいかな)(死んじゃわないよね!?)
(でも私でよかった)
ほっとした自分に、なぜかこれでもかと自分自身が驚いた。
続いて、先ほど聞いたとある台詞が蘇ってくる。
『「その人の幸せを願うこと」と、「その人と幸せになろうとすること」は、似ているようで、全く違った感情ですよ?』
グレースのこの言葉がどうして今よみがえってきたのかわからなかった。ただ、どうしようもなくその言葉がストンと胸に落ちて、なぜだか妙に、あぁそうか、と納得してしまった。
銀色のナイフが目の前まで迫る。
一メートル。三十センチ。十センチ、五センチ、三センチ、一セン――
「ばか――!」
気がついた時には、腰に腕がまわっていた。そして、誰かに引き寄せられ、目前まで迫ってきていた女生徒は、何か透明な壁のようなものに弾かれてしまう。
自分の腰に回っている腕がギルバートのもので、弾いたのが彼の宝具だったというのは、遅れてから気がついて、気がつくと同時に「なにしてるの!」とすごい剣幕で怒られた。
セシリアが身を小さくして「ごめん……」とか細い声を出すと、彼はまだ何か文句を言い足りないというようにガシガシと頭をかいた後、「ごめん怒鳴って。庇ってくれてありがと」と苦しそうな顔で告げてくる。
彼はセシリアの腰から腕を離すと、宝具によって弾かれた女生徒に近づく。そして、額のアザに触れて障りを払った。
「これで、しばらく大丈夫だと思うけど……」
そう言ってギルバートはセシリアの隣に腰を下ろした。その時初めてセシリアは自分が腰を抜かしていることに気づき、「なんか私、さっきの怖かったみたい」と笑ってみせる。
「本当、無茶するよね」
「いやぁ、身体が勝手に動いちゃって……」
「でもさっきのは感心しないからね」
鼻の頭をつねられてセシリアは「痛い、痛い」と声をあげる。
それにギルバートがふきだして、二人は同時に仰向けに寝転がった。
夕方を過ぎた空はもう暗くて、今にも夜がやってきそうなほどだった。あの頭上で光っているのは、おそらく金星。一番星だろう。
「あーもー、疲れた!」
「さっきのはちょっとびっくりしたよね」
二人は仰向けに寝転がったまま互いに顔を見合わせた。そして……
「ふふふ」
「ははっ」
と肩を揺らし始める。
緊張が解けて、笑いがこみあげる。何もおかしくないのに、なぜか唇が弧を描いた。
それから二人はしばらく笑いあい、雑談を交わした。昔のことから最近のこと。いろんな思い出を、とりとめもなく、順番も無視して話し尽くして。そろそろ何も思い浮かばなくなったという頃になって、ギルバートが身体を起こした。
「セシリア、これ」
「へ?」
「受け取ってもらえる?」
ギルバートの手には赤い薔薇があった。
ちゃんと彼の名前が刺繍してあるリボンのついた赤い薔薇。
この日にこの薔薇を渡す意味を、セシリアは痛いほど知っていて。ギルバートも知っていないはずがなくて。
それでも、ここで渡してくるということの意味が、セシリアの心を削った。
だってこの場合、答えは二つに一つしかないのだ。
『受け取る』か『受け取らない』か。
今までのような曖昧な答えなんて用意されていない。
「ギル!」
セシリアは身体を起こし、彼の前に正座になる。
夕方から夜に変わった背景に、感情が昂った。頬を撫でる風が変な汗を噴き出させる。自分達の息遣いしか聞こえない空間に、手のひらにじっとり汗が滲んで、唇が震えた。
「あのね、私!」
不思議なことに考えなくても言葉は出てきた。
「私、ギルのこと好きだよ! 大好きだよ! きっとね、多分ね、他のどんな人よりも大切で! 誰よりも幸せになってほしいと思ってるよ!」
リーンよりも、オスカーよりも、両親よりも、自分自身よりも、彼は大切な存在だ。
誰よりもお互いのことをわかっていると思っているし、幸せになってほしいと心の底から思う。
「だけどね!」
声が震えた。膝の上の拳が、握りしめすぎて血の気を失う。
もう自分の中では答えが出ているのに、それを彼に告げることの残酷さに、眩暈がした。
だって、気づいてしまったのだ。さっき彼を助けたその瞬間に。全てのパズルが、かっちりとはまるように、自分の気持ちに気がついてしまった。
「……だけどね!」
ギルバートには幸せになってほしい。
「ごめんね。これはそういう好きじゃないんだ!」
だけど、その幸せにセシリアは自分がいなくてもいいと気がついてしまったのだ。
答えを予測していたのか、ギルバートはさして驚くこともなく、いつも通りの優しい声で「うん」とだけうなずく。
その優しさに鼻の奥がツンとして、顔が熱くなる。目元にじわじわと熱いものが集まってきて、視界が不明瞭になった。
セシリアは自分の服の袖で目元を擦る。
自分が泣いていい立場ではないのに、どうしようもなく涙が溢れて、ぼたぼたと大粒の涙が膝の上に落ちた。
「私ね、ギルにいっぱい助けてもらったのにね、ごめんね。気持ちをちゃんと返せんなくて、ごめんね」
「うん」
染み入るような声だった。
視界の端で彼が差し出していた薔薇をしまうのが見えて、また嗚咽が漏れた。
「大丈夫だよ。ありがとう、俺のために泣いてくれて」
その声に顔を上げると、いつも通りの彼だった。本当にいつも通り。
告白したことなんてなかったことになっているのではないかというぐらい、彼はいつも通りだった。
ギルバートは涙でぐしゃぐしゃになったセシリアを見て「変な顔」とふきだす。
そうして、ゆっくりと立ち上がって、セシリアに手をさしだした。
「それじゃ、そろそろ帰ろうか。……義姉さん」
その言葉にセシリアはまた顔を覆った。
朝からヘビーなものを読ませてしまい、すみません。
面白かった時のみで構いませんので、評価やブクマ等していただけると、今後の更新の励みになります。
小説4巻、コミカライズ4巻。
どちらも絶賛発売中ですので、どうぞよろしくお願いします!




