16.嵐の前の静けさ
その日はなんとなくやる気が出ないまま午前中を過ごした。
やることは山のようにあるし、考えることも雨後の筍のように湧いてくというのに、頭が思うように切り変わらない。
日頃の成果なのかなんなのか、身体だけはやるべきことを淡々とこなすが、そこに身が入っていない。自分でもわかるぐらい、どこか上の空だった。
そうして、昼休み。
複雑な自己嫌悪に苛まれながら、オスカーは廊下を進む。
(仕方ないとは思ってるんだが、やはり、結構気にしているんだな)
改めて自分の心と向き合う。セシルの正体を知ってからここ数ヶ月間、こんなことで悩んでばかりの様な気がする。
(いざという時に頼ってもらうには、やはり俺が正体を知っていることをセシリアに打ち明けるべきなのだろうが……)
『本人には言わないほうがいいですよ。たぶん、殿下に気づかれたと知ったら、姉さん国外逃亡ぐらいはするでしょうし』
夏休みのギルバートの台詞が頭をよぎる。
国外逃亡。国の外に逃亡すると書いて、国外逃亡。
やめてくれ……と本気で思う。
ギルバートは『自分はついていくだけだから、別にいい』と言っていたが、オスカーはそういうわけにはいかないのだ。
「と言うか、なんで俺にバレたら国外逃亡になるんだ……」
思わずそうこぼしてしまう。
ダンテにはバレてもケロッとしているくせに、なぜ自分だけがダメなのか。
それがわからない。
(嫌われているわけではないとは思うし、怖がらせるようなことは言ってないはずなんだが……)
いつの間にか歩みが止まる。もう皆食堂にいるのか、廊下に人はいなかった。
(『助けて』と一言頼ってもらえれば、俺は――)
「オスカー助けて!」
「は?」
一瞬、幻聴かと思った。もやもやした自分の頭が勝手に作り出した声だと思ったのだ。しかし、反射的に声のしたほうを見れば、必死の形相で走ってくる婚約者の姿がある。
彼女はハニーブロンドのかつらを靡かせながら、オスカーの元まで走ってくると、オスカーの両腕をガシッと掴んだ。そして、今にも泣きそうな顔でこう頼み混んでくる。
「お願い、匿って!!」
「ちょ、お前っ!」
返事を待つことなく、彼女はオスカーの背に隠れた。柱と壁の間にオスカーを立たせて、自分はその間に滑り込んだのだ。
身長差と体格差により、セシリアはオスカーの背にすっぽりと収まってしまう。
直後、忙しない足音が聞こえてきた。数は複数。音は段々と大きくなってくる。
「どこいった、セシル!」
「ちゃんと責任を取れ!」
「全部お前が撒いた種だろうが!」
相当な剣幕の男が三人、オスカーの前を通り過ぎる。一応敬意を払ってか、オスカーの前を通るときは三人とも頭を下げていたが、背後のセシリアに気づくものは誰一人としていなかった。
そして、遠ざかる足音。
三人気配が全くなくなって、ようやくセシリアはオスカーの後から顔を出した。オスカーの身体と上げた腕の間からひょっこり顔を出す様は、やっぱり小動物のようだ。
男装をしていてもなお、ちゃんとかわいい婚約者様である。
彼女は腕の間から顔を出して、太陽のような笑みを見せる。
「ありがとう、オスカー。助かったよ!」
「おい。今度はいったい何をしたんだ?」
「あはは……。なんか、少し前に女の子から告白されたんだけど。その子には、婚約者がいたみたいで……」
「それで、自分の婚約者にちょっかいかけるなと、男側に怒られたわけか」
この手の騒動はオスカーが知るだけでも、今月三回目である。
さすが『学院の王子様』だ。
「いや、実は違うんだよね」
「違う?」
「なんか、彼女を譲られそうになっていて……」
意味がわからず、オスカーは「は?」と呆けたような声を出した。
「えっとね。『彼女がお前に熱を上げているのは知っている。だから責任を取って結婚してやれ!』『彼女がかわいそうだろうが!』って……」
「…………ほぉ」
「そしたらどこで聞いていたのか、前にお断りしたマルグリットさんとイリナさんの婚約者が出てきて『アニエスよりもうちの婚約者の方がかわいそうだ!』『セシルが責任を取るべきなのはこっちだ!』って……」
愛が屈折している。
婚約者を大切に思っているのは確かなのだろうが、『大切に思っている』の方向性がいささかおかしい気がする。
(そもそも、それで納得ができるのか?)
仮に、自分がそういう立場になったら。
セシリアが自分以外の誰かに熱を上げるようなことになったら。
(胃が痛くなってきたな……)
想像だけで精神が病みそうだ。
とてもじゃないがオスカーには同じ決断はできない。
「とにかく! ありがとうオスカー、助かったよ!」
「……あぁ」
「オスカーって大きいから隠れやすいよね」
言われてみれば確かに、オスカーとセシリアでは体格差が結構ある。
身長も頭ひとつ分以上違うし、身体の大きさがそもそも違う。本人は鍛えていると言っていたが、こんな華奢な身体で、あんな大立ち回りを毎回やってのけているのだから、彼女は本当に危なっかしい。
セシリアはオスカーの背から完全に外に出ると、彼に向き合った。
オスカーはそんな彼女を見下ろしながら「そういえば……」と口にする。
「昨日の事、ダンテから聞いたぞ」
「あ、そうなんだ!」
「あんまり、無茶をするな。話を聞いて、肝が冷えたぞ。ああいうときは一度――」
「あ、ストップ! お小言はなし!」
「――ん」
言葉を遮るように両手で口を塞がれる。その行動にオスカーが素直に黙ると、セシリアは彼を見上げながら泣きそうな声を出した。
「昨日帰ってから、しこたまギルに怒られたの! もう反省してる! 反省しているから、怒らないで優しくしてください!!」
(優しく?)
オスカーは首を捻る。そう言われても、どうすればいいのかよくわからない。
彼はしばらく悩んだあと、右手を彼女の頭に乗せた。
「じゃぁ、……お疲れ様」
オスカーに頭を撫でられたセシリアは「へ?」と間抜けな声を出す。
「どうかしたか?」
「いや、本当に優しくしてもらえるとは思わなくて」
「お前が優しくしろと言ったんだろうが」
「そうなんだけど……」
セシリアは戸惑うような声を出す。本当に怒られると思っていたらしい。
心地いいのか、呆けているのか。セシリアはしばらく無言で撫でられていた。
「オスカーの手って大きいね」
「まぁ、お前のに比べればな」
「ギルの手もダンテの手も大きいし、やっぱり違うんだなぁ……」
男と女では……ということだろうか。
彼女はなおも撫でられたまま、口を開く。
「昨日はさ、大変だったんだよー。ちょうどギルがいない時にアインとツヴァイが事を起こそうとするから焦っちゃってー」
「……そうか」
なんとなく切ない気持ちで頷いたときだった。
「それに、オスカーもいなかったから、困ったよー」
「は? 俺?」
「うん! 昨日ね、二人の話を聞いた後、一緒についてきてもらおうと教室に呼びに行ったんだよ。そしたらオスカー、今日学院来てないって言われて。たまたま、ダンテが教室に帰ってきてくれて助かったんだけどねー」
オスカーは信じられない面持ちで目を瞬かせた後、おずおずと声を出した。
「うちの教室に来たのは、もしかして俺を探しに?」
「そうだよ。俺だけじゃ、二人を助けてあげられないどころか、足手まといになっちゃうかもしれないからさ。その点、オスカーなら同じ王族だし対抗できるかなって!」
「お前は、俺のことをかばったんじゃないのか?」
「へ?」
「俺のことを頼らなかったのは、俺をジャニス王子に会わせたくなかったからじゃないのか?」
その言葉にセシリアは大きく目を見開いた。そんなこと、全く思い至らなかった、というような顔である。
「そ、そうだね! 確かにそうかも! 自分のこと殺そうとした相手に会いたいわけないよね? 俺、無神経だった。ごめん!!」
「あ、いや。そういう意味で言ったわけじゃ……」
「いやー、でもさ。オスカーなら、なんとなく大丈夫かなって、思っちゃって……」
申し訳なさそうに頬を掻きながら、セシリアは続ける。
「オスカーってば、ジャニス王子なんかに負けちゃうような人じゃないじゃん! 優しいし、真面目だし、努力家だし、卑怯なことなんて絶対にしないし!」
「……」
「だから一応、関係はわかってたはずなんだけど、そこまで重大に捉えてなくてさ」
セシリアは困ったように笑う。
その言葉に、笑みに、胸が温かくなった。彼女が自分を信用してくれたことや頼ってくれようとしたことが、すごく嬉しい。
「あぁ、でも! 会いたくないのなら、今度から気をつけるね!」
「その点は気をつけなくていい」
「そう?」
「あぁ。俺は、……負けないからな」
少し冗談めかした調子でそう言えば、彼女はぱぁっと表情を明るくさせる。
「そうだね! オスカーは負けないからね!」
まるで幼子のように、彼女は寸分も疑うことなく、オスカーの言葉に同意した。
その全くブレない信用が、嬉しくも、気恥ずかしくもあり、オスカーは思わず苦笑を浮かべてしまう。
そんな気恥ずかしさを隠すように、オスカーは彼女の背を叩いた。
「ほら、こんなところで呑気にしていていいのか? 昼、食いっぱぐれるぞ」
「あ、そうだった! ギルを待たせてるんだった!」
彼女はそういって、なぜかオスカーの手を掴んだ。
「よかったらさ、オスカーも行こうよ!」
「……いいのか?」
「もちろん! 今日はリーンとヒューイも一緒に食べる予定なんだ! ジェイドもくるって言ってたし! ダンテもみつけ次第誘おうよ!」
アインとツヴァイは教室にいるかな、と、彼女は楽しそうに歩き出す。
そんな彼女に手を引かれながら、オスカーはまた苦笑を零すのだった。




