3.電車内で痴漢されてしまいました
「そうか辞めるのか。これまでありがとうな。」
夏休みの最後の日、バイト先の社長に挨拶に行った。これまで主に早朝の品出しというバイトに入っていたのだが、朝の時間帯はオネエのメイクに充てられるため、時間が無くなったのだ。
もちろん生活苦から解放されたということも大きいのだが母親が再婚しても続けていたのは、この会社が好きだったからだ。いざ辞めるとなると少し寂しい。
「こちらこそ、いろいろと教えて頂いてありがとうございました。」
この会社が苦しいときは早朝に社長と2人で品出しをしながら、会社の構造や経済社会のことや様々な場面でスマートにビジネスを行う極意みたいなものを教えて頂いたのだ。
「なんか智広くんには愚痴ばっかり聞いて貰った気がするな。」
確かに愚痴もあったけど、この会社が大きくなっていく際の生のビジネスに触れられたのは凄い経験だと思う。
「そんなこと無いです。いろいろと為になりました。それに高校を卒業したら、この会社に就職しますので宜しくお願いします。」
加納家を訪ねた際に堂々と対応できたのもこの社長のお陰だ。
この会社は珍しく高卒を軸に採用活動をしている。
どの仕事にもマニュアルがあって専門的な知識が要らないというのがその趣旨だ。
多くの企業が高卒を受け入れることで大学入試の塾から大学生活の費用まで不要となり、2人目、3人目の子供を育てる余裕が出来るのだという。親を支える子供が増えれば子供1人当たりの負担が減り、人手不足も解消できる理論であることを聞かされたときには感動したものだ。
「そうか入ってくれるか。」
母親も父親も有名大学に入れたそうだったが、俺は大卒採用していないこの会社に入りたい。ましてや祖父の言いなりの人生なんてまっぴらだ。
相馬さんや山崎さんといった先輩たちにも挨拶に窺った。今ではこの会社の中堅どころの社員だが、俺がアルバイトを始めたころは同じ仲間であり、アルバイトのイロハからいろいろ教えて貰った。
特に母親の夜勤空けなど、ちょっとした空き時間にアルバイトを入れて貰うなど、便宜を図って貰っていた。このバイトは出来ることが増えれば増えるほど時給が上がっていくので美味しいのだ。
「そか。トモ君、辞めちゃうんだ。お父さんとは上手くいっているんだね。良かった。」
山崎さんに抱き締められてしまう。ここでも男だと思われていなかったらしい。でもいいのだ年の離れたお姉さん的な存在だったからな。
この2人は本当はもっと上の権限を持っているのだが教育係兼上司という関係が続いており、母親が再婚したときに報告してある。
「今、アメリカに居る幸子さんの下で働いている加納さんの叔父さんだよね。」
ああ。祖父が孫娘に甘いという話は社長の愚痴で聞いたんだった。カノングループに関わりがある話は、それひとつだ。面白いことに全然係わり合いの無かった孫2人が同じ会社に勤めていたのだ。
「そういえば渚佑子さんは今何処ですか?」
渚佑子さんというのは俺の7歳ほど年上だったが同期でこの会社では特に親しくしていた女性だ。その彼女も社長直属の部下として動いているはずである。
「社長室に居なかった? オカシイな。隠れていたのかもよ。智広先生は厳しいから。」
同期だったのだが彼女の言葉遣いの教育係として付けられたのだ。お客様を相手にするときだけ、上っ面はキレイな言葉に直ったのだが普段の言葉遣いも直そうと会うたびに話しかけて注意をしていたのだが嫌われてしまったようだ。
☆
2学期が始まる日。俺は2時間も前に目が覚めてしまった。遠足の日の小学生じゃあるまいしバイトがあったときの癖が抜けないのだと思いたいところだ。
最低限のメイク道具が入った持ち物の準備は前日に済ませてあったので、ゆっくりとお弁当を作ったのだがまだ時間が余った。そのまま朝早くに自宅を出る。予定よりも1時間ほど早いが遅くなってメイクできないよりは良いだろう。
電車に乗り、乗り換え駅の男子トイレの鏡の前に陣取る。朝に顔を洗ったときに下地はできているので化粧を施していく。超薄化粧といえどもアイラインや眉毛も必要だから結構時間が掛かる。
後はシール状の付け爪をキレイに貼り付けて、夏休み中に少し長くなった後ろ髪にリボンを付ければ完成だ。
「こんなものね。さあ行くわよレッツトライ!」
俺がオネエ声を出すのと同時に男子トイレに入ってきたオッサンにギョっとされたけど、何も言われなかった。大人は分別があるからいいよな。
でも男子高校生は子供だ。人と違うものを見つけると踏み潰したくなるのが問題だ。
少し怖くなってきたので、いつもと違う車両に乗り、いつもと違う出口を使い、出口近くの喫茶店で時間を潰すことにする。我ながら小心者だ。
予定より1時間早い電車に乗るとそこには順子さんの姿があった。
ラッキー!
人を掻き分けていくと割りとスムーズに人波が割れていく。なんとなくオネエだと解るらしい。
順子さんの傍まで辿りついたところで声を掛けようとして思い留まる。
目の前には順子さんを痴漢している男の姿があったのだ。脂ぎった顔のオッサンがこちらに気付きもせずにニヤニヤと気持ち悪い笑いを浮かべ、片方の手は脇の下でもう片方の手は臀部を触っている。
このヤロー。なんてことをしやがるんだ。こちらは男視線を送らないように必死だというのに。
でもどうやって止めるんだ。下手をすると順子さんが恥を掻いてしまう。
「キャー! いやん。痴漢よ! この男の手がアタシのお尻を触ったぁ。」
もちろん俺の声である。近くに擦り寄り、男の手を捻りあげる。小さい頃に父親に連れられて習った合気道が役に立った。何でも習っておくもんだな。
「ち、ちがう。違うんだー。」
男はギョっとした顔で振り向くとこちらの顔をマジマジと見た。
「ほらこの男よ。皆見て!」
更にその隙を突いて後ろに回りこんで羽交い絞めにすると、周囲の人間が面白がって男の顔を写真に撮ろうとスマートフォンを向けている。俺の顔まで映ってしまうのは仕方が無い。順子さんが恥を掻くよりもずっといいはずだ。
次の駅に着き、少しだけ力を緩めると男は逃げ出していく。もうこの路線には乗れまい。ザマーミロ。いい気味だ。
「待ってぇ。」
一瞬遅れて順子さんの手を引き電車を飛び出して行くと男の逃げた方向とは反対に走って走って階下の身障者用トイレに飛び込み鍵を閉める。
「順子先生。もう誰も見ていないわよ。どれだけ悪態をついても構わないよ。」
俺がそう言うと何を思ったのか順子さんはしばらく俺の顔を見ていたと思ったら、抱きついてきて泣き出したのだった。
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