認識
それが生物学的に可能なのか否かは不明である。しかし、彼女の身体がこの環境に対応して何らかの変化を遂げたのは確実であった。古代の王が暗殺を防ぐ為に毎日少しずつ毒薬を飲み続け、毒への耐性を付けたという話がある。偶発的にそれと似た現象が発生した可能性が考えられる。即ち、装置の僅かな隙間から汚染された空気が少しずつ侵入し、長い時間を経て彼女の身体がそれに対する耐性を得たのではないか、という様なものだ。
それに際して、彼女の呼吸は通常の人間とは比較にならないものに変化したのであろう。二酸化炭素ではなく、高濃度の毒素を排出するのだ。植物たちの作り出した酸素を取り込み、毒を吐き出す。それが、この環境で生き抜く為に彼女が手に入れた呼吸なのだ。
このまま目を覚ますのを待つべきか、何らかの刺激を与えて覚醒させるか。ここでも我々は後者を選択し───まさにその時、少女がゆっくりと瞼を開いた。
少女は混乱している様子だった。彼女が装置に入っていたということは、即ち終わりに向かう世界を見ていたということである。この眠りから覚める頃には、きっと世界は平和に戻っているから───恐らく家族に、或いは医師にそう言われて冷凍睡眠に就いたのだろう。だが、目覚めたらそこは工場の廃墟で、目の前に居るのは家族でも家庭用アンドロイドでもなく旧式のロボットの集団だったのだから無理もない。
「ここは…ねぇ、私の家族は?今はいつ?この世界は…」
人間の命令に従う為、我々は言語を理解することができる。だが、アンドロイドとは違って我々は発語することができない。必要が無いからだ。我々に備わっているのは警報音やアラームを鳴らす機能のみである。従って、彼女の問い掛けに回答することができない。
やがて、周囲を見て状況を何となく把握したのだろう。みるみる少女の表情が曇っていく。一般的な人間が普段から目にするのは家庭用アンドロイドだった筈なので、我々の様な外見をしたロボットに怯えている可能性もあるだろう。この様な場合、人間に対して何をすべきか。データベース内を検索する。
ヒットしたのは古い映画だった。話すことのできないロボットが人間の少女に花を差し出す場面がある。それに倣い、傍らに咲いていた白い花を摘み取り、少女に差し出した。相手───特に女性に花を贈るのは、友好の意を表す行為であるという。我々は人間の味方であり彼女を保護する為に存在するということを、言葉無くして示すには最も適しているだと思われた。
少女は僅かに目を見開いてこちらを見た。センサーカメラに映る少女の目に武骨なロボットが映っている。少しの間の後、彼女がゆっくりと手を差し伸べてアームの先から花を受け取ろうとした時だった。少女の指先が触れた途端に白い花はみるみる変色して萎れ、力無くアームに横たわった。つい今しがた摘んだばかりの花が一瞬にして枯れ落ちたのだ。緩みかけていた少女の表情が、先程よりも更に曇る。
それも、彼女の身体が変化した結果であると考えられた。呼吸によって毒素を排出するだけでなく、身体そのものが毒物の様になってしまったのだろう。よく見ると彼女の足元、彼女が進んできた部分の草もそこだけが道の様に枯れていた。存在しないため確認することができないが、恐らく植物だけではなく他の生物でも同じであろう。
空気を毒に変え、触れた自然物を死に至らしめる。それはまさに、地球と人間との関係を簡潔に表したものでもあった。
目的物を失った少女の手が力無く下ろされる。浮かんでいるのは悲しみと絶望を示す表情である。この様な場合に人間は何を必要とするのか。再びデータベースを検索する。彼女に向かってアームを伸ばし、慎重に力を制御しながらアームで少女の頭部に軽く触れた。そのままゆっくりと動かす。泣いている子供に対して家庭用アンドロイドがよく行う動作だ。少女が驚いた様にこちらを見た。少女の目に再び武骨なロボットが映る。量産型の旧式ロボットである我々のうち特定の一個体───『僕』だ。
「あなたは、大丈夫なの?」
少女は『僕』に話し掛けている。恐らく、先程の花のことを言っているのであろう。『僕』の無機の身体は彼女に触れても変化する気配は無い。返事の代わりにもう一度アームで彼女の頭部に触れ、センサーカメラのランプを点滅させた。少女の表情が僅かに変化する。悲しみと絶望は変わらないままで、微妙な目の細め方と少し口角を上げる形に歪めた唇。
『僕』はその不思議な表情が何を意味するのか検索を試みたが、該当するものは見付からなかった。