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『君にはもう用はない』
『歌えない歌姫なんていらないんだよ!』
待って…!
まだ歌えるから行かないで…!
僕はあなたが…。
あなただけが…。
お願いだから…!
『歌えないなら…君にはもう価値はない。さよなら―――』
――――――。
「待っ…あれ…?」
目が覚めるとそこは広々としたリビングだった。仕立ての良い調度品が並び、持ち主のセンスを感じさせる。
自分の座っているソファーには本が置かれていた。どうやら読んでいる途中で眠ってしまったらしい。
頬には涙の跡が浮かんでいて、また泣いてしまったのだと理解した。
「また見ちゃった…もう一年も経つのに…」
ルカはこの家の住人だが、主ではない。一年前にここの主に連れて来られた居候だ。
一年前まで、ルカは街で知らぬ人がいないほどの有名な歌姫だった。
その美しい歌声は奇跡と呼ばれ、両の性を持つせいか見た目も中性的だった。それも相俟って人気を博し、ルカの出る舞台は必ず成功するというジンクスまであった。
だが、その幸せは長く続かなかった。
突然喉に出来た腫瘍によって、歌手としての命を絶たれたのだ。最初は風邪だと思い、痛みがなかったので放って置いたのが仇となった。
それを知った後見人も、いつの間にか新しい歌姫へと意識を向けていた。ルカは捨てられたも同然だった。
『お願いです!僕はまだ歌えます!だから…』
『医師から聞いたが、腫瘍を取れば元の歌声は出ないそうじゃないか。その声が出ないのなら意味がない』
『そんな…今まで一緒に頑張ってきたのに…』
『それは君の才能と歌声に惚れていたからだ。もう無くなるんだろう?ちょうど気になる歌手が出てきてね、君の代わりに育てようと思っているんだ』
『嘘…』
『分かったらもう連絡はしないでくれたまえ。役立たずに出す金は無いんでね』
名も売れぬ頃から支えてくれた後見人。彼から言われた言葉は辛辣だった。
彼がいなければ歌姫としてのルカはいなかった。彼の為に歌っていた。彼だけが支えだったというのに。
彼はあっさりとルカの元を去ったのだ。
『君にはもう価値は無い』
最後に突きつけられた言葉が頭の中で繰り返される。
「う…っ、ぅえ…」
誰かを信じるのが怖い。
また信じて捨てられたらと思うと、怖くて仕方がなかった。
『あの方は僕に夢中なんだ。さっさと消えて』
『すまないね。君よりこの子がいいんだ』
新たな歌姫から言われた言葉と彼から言われた言葉を思い出し、あの時の感情が蘇った。
僕は、もう、いらない…。
「ああああ…!」
ソファーにうずくまるように嗚咽を漏らすと、ルカの声を聞きつけたメイド達が集まってきてしまった。
「ルカ様!どうなさいました!?」
「すぐ旦那様をお呼びいたします…!」
慌てるように屋敷の中をバタバタと駆ける彼女達。呆気に取られたルカだが、緑の瞳から流れる涙は止まる事はなかった。
一人残されたメイド長が優しくルカの肩を抱く。
「ルカ様、大丈夫ですよ。ここにはもうあなたを責める人間はいません。安心なさってください」
「…ご、ごめんなさい…」
彼女に慰められながら泣いていると、リビングの扉がゆっくりと開いた。
「ルカ、大丈夫かい?」
現れたのはこの屋敷の主、シルビオ・ヴァルター公爵だった。
茶色の髪を後ろに撫でつけ、仕立ての良い服を身にまとっている。その姿はそこにいるだけで気品を感じさせた。
彼はルカの現役時代からのファンの一人で、意気消沈しているルカを拾ってくれた大切な人だ。
彼はルカが歌えなくても構わない。そばに居てくれればそれでいいとさえ言ってくれた。
歌姫としてのルカではなく、ルカという一人の人間として認めてくれたのだ。
「あ…シルビオ様…」
「様はいらないと言っただろう?」
彼はルカの隣に座ると、優しく髪を撫でてくれた。
「また思い出したのかい?涙が出ている」
「…はい、すみません」
「まったくルカは困った子だね」
目尻に浮かぶ涙を指で掬い、彼は困ったような顔をした。この人にそんな顔をさせてしまったのが申し訳なくて、もう一度謝ってしまう。
「すみません…」
「謝らなくていい。悪いのは君から奴の記憶を消す事のできない私なのだから」
「いいえ…僕が悪いんです。いつまでも過去にしがみついて…」
そこまで言うと再び涙が溢れてくる。止まる事の無い涙は頬を伝い、胸元まで濡らしていった。
「大丈夫、ゆっくりでいいんだ。ゆっくり忘れていきなさい」
彼はルカを抱きしめ、優しく微笑んでくれた。その優しさに胸が苦しくなり、いつまでも過去を引きずる自分が嫌になる。
「すみません…僕は…僕は…うぇ…」
「謝るなと言っただろう?今日は思いっきり泣きなさい。そしてまた、私だけに君の歌を聞かせておくれ」
そう言ってルカの目元にキスをした彼の体温は温かかった。それに安心したルカは腕の中でひたすら泣き続けた。
泣き疲れて眠ってしまっても、彼はずっとそばにいてくれたらしい。
ルカは朝まで眠り続けた。
だから気付く事はなかった。
「そう…君の歌は私だけのもの…」
彼がそう呟いていた事に。