~対馬奪還 ツ号作戦~
3月6日 午前5時
対馬市南部 久和港
「急げ!!早く上陸しろ!!」
ザッザッザッザッ!!
「隊長。第52歩兵師団長 小見山中将より通信です。」
「分かった。」
ガチャ
「第2特務大隊長の中宮中佐です。」
「中宮君。厳原の部隊が進軍し始めたらしい。」
「そんなっ…………あれは0700の予定では!?」
「詳細は分からぬが、予定が早まったことだけは事実だ。追々、厳原から敵部隊の位置を伝える連絡が来るであろうから、それまで待機せよ。」
「はっ。」
「それと、決定事項ではないが、君達には朝鮮の鬱陵島に上陸してもらうかもしれん。」
「鬱陵島………………竹島の近くですね。ですが、占領したところで、そこまで戦局に影響は出ないのでは?」
「海軍が清の上海に艦隊を派遣するというのに、陸軍が何もしないと言うわけにはいかぬだろう。なに、上陸してのんびりしてもらって構わん。海には艦隊がおるし、無人島じゃから、敵もおらぬわ。」
「はぁ………………」
「まぁ、今は対馬の奪還に全力を注いでくれたまえ。ではな。」
ガチャン
「………………(ハァ)…………進軍準備を終わらせろ!!早く終わった所から休め!」
「おおっ!やるぞ!」
「おせーぞ!早くしろ!」
「うおおぉぉぉぉおおお!!!」
そして、7時までには準備が終わるのだった。
と、同時に、厳原からの部隊(南下中)から連絡が届き、久和上陸部隊も予定通り2部隊に分け、半島側の道と九州側の道から北上し、小茂田から厳原付近に布陣する敵部隊を攻撃することが確認された。また、厳原の部隊が先行したのは、部下が早く戦いたいと言ってたからとか言わなかったとか………………
そして、10時間後の午後6時に、小茂田攻略隊(半島側)が敵の上陸地点 小茂田を奪還。厳原の部隊に追われ、逃げていた連合軍も別動隊(九州側)の待ち伏せを受け、全滅に近い状態に。しかし、逃げ出した十数人もすぐに見つかった。そうして、対馬南部は日本の統治下に戻った。(中対馬にも連合軍の部隊が小数いたらしいが、厳原攻略に駆り出されたため、居なかったらしい。一応、住民を避難させて正解だった……)
そして、それから数日後には山田山・鹿見の連合軍も降伏。対馬奪還は成功し、連合軍はそれなりの量の船と兵を消耗しただけの戦いに終わった。
が、清・朝鮮は講和に応じなかった。
「何バカなことを言ってるんだ!!」
「そう言われましても…………これが返答ですから。」
「確かに、清の軍事力から考えるとまだまだ戦えることは出来るだろうがな………………「我々は負けたわけではない。次の上陸に警戒しろ。」?ふざけるな!!」
「………………………………」
「陛下にお伝えしろ。おそらく、御前会議なるだろうから、資料の準備を頼む。それと、外務大臣の名で、帝国領全ての島、及び本土沿岸域の警戒を厳にするよう軍に要請しろ。」
「はい。」
3月20日 金曜日
午前9時
「して、作戦は?」
「軍船130隻を用い、五島列島に上陸。速やかに全土を占領します。また、50隻の軍船で隠岐諸島にも上陸します。そして、船を戻し、混乱している日本軍の背後をつき、対馬に再上陸。次は成功させます。」
「うむ。戦うのであれば、必ず勝利せよ。」
清国第5代皇帝 愛新覚羅 福暦の言葉に、ひざまずく文官武官大臣たち。
「では、余は戻る。よい報告を待っておるぞ。」
報告のみを聞き、すぐに部屋に戻る福暦。
「全く。戦なんぞしたところで利益が出ぬわ。内乱の鎮圧でさえ手間取っておるときに外征………………これでは国に悪影響しか無いわ!」
「陛下。あまり大声でそのようなことを…………」
「分かっておる。…………戦続きじゃったせいか国庫も空になりそうじゃ。奴等は金を出さず搾り取るだけじゃ。これでは富む国も富まん。」
「…………………………」
コンコン
「なんじゃ?」
「失礼します。」
ガチャッ
「な、…………貴様ら!!」
「動かないで下さい、陛下。」
「………………何をするつもりじゃ。」
「暫くの間、陛下には口を閉じていていただきたく。」
「………………(サッ)」
「陛下。その右手を下ろしてくださ「ズシャッ」……」
突如、侵入者の背後に現れた影がその首を切り落とす。
「やはり、身の回りは固めておくべきじゃな。危ない危ない。」
「陛下!寿命が縮んだこと思いましたよ!」
「いや、すまんの。さて、どうしたものかのう…………もうこの国は長くないじゃろうし、かと言って逃げる場所もこれといって無いしの…………」
そう言って部屋の中をのんびり歩く福暦。
「そうじゃ!いっそ田舎で隠居でもしようかの。金は持っていけばよいし、ちょうどいい。おい、お前も行くんじゃぞ。」
「えっ?」
「ワシ1人で準備が出来るわけがないじゃろ。ほら、準備するんじゃよ。」
「えええええええええぇぇぇぇぇええええ!!!!!」
そして、清国第5代皇帝 福暦は隠し金庫の金を持ち、供回りの者1人と国内漫遊田舎暮らしに向かったのだった。そして、清が五島列島及び隠岐諸島侵攻を断念したのもこれが原因と言われているらしい………………
「清国から使者が参りました!」
「何だと?まあいい。通せ。」
3月28日 突如外務省に現れた清国講和大使。御前会議の前だったこともあり、ここで話された内容は、すぐ御前会議でも話された。
午後2時 閣僚会議室
「海軍としては、陸軍と共同歩調を取り、清及び朝鮮に上陸し、降伏を促すのが1番ではないかと。」
「これ以上予算は出せんぞ!?」
「何をっ!?講和に応じん以上仕方ないだろ!!」
「しかしだな「待たれよ。」何だ?」
「先ほど、清国の講和大使を名乗るものが来たのだが…………これがその内容だ。」
「………………清国は帝国の国家予算の1.5倍の賠償金を支払う。」
「それと、2度と帝国領に侵入しないと誓う…………か。」
「清国はこれで構わんが…………朝鮮はどうする?返答も返ってきとらんのだろ?」
「………………もう一度送りつけてみよう。勿論、清が講和に応じたことも付け加えてな。」
「もしダメならば…………」
「致し方あるまい。戦だ。」
「では、これを御前会議に持ち込むと言うことで。」
「ああ。」
その後、
1716年4月13日 月曜日
津和野県益田市で益田条約が結ばれ、日清の講和が成立。
18日 土曜日
長崎市で長崎条約が結ばれ、日朝の講和が成立。
これで、後に「対馬紛争」と呼ばれる争いに終止符が打たれたのだった。




