~建造 そして対馬~
10月23日
日本中の造船所、海軍工廠をフル稼働させ、昨日建造を始めた朝風型駆逐艦2隻の他に、樺太型1隻、淡路型2隻を新たに建造を始めた。建造にかかる期間は1隻 約1年。来年の11月頃には建造が完了し、進水する予定だ。
11月24日 月曜日
北方の陸海軍基地もある程度完成し、氷が溶け次第、増援部隊を送り込む事が決定した。また、スパイ(前回の不法侵入者)は白人ということだけしか分からず、何処の人間か等は不明なまま捜査は終了した。
年が明け、1716年1月26日
かねてより内務省が極秘で設けていた「諜報員部」は忍である「軒猿」「石動」等を雇いいれることに成功し、夏にも海外派遣を目指して訓練中らしい。にしても、どうやって雇いいれたのだか…………
3月3日 水曜日 午前5時40分
ガチャ。
「大野だ。………………ほうほう。………………なるほどな。分かった。で、周辺を哨戒している艦は?…………分かった。その2隻だな。今すぐ攻撃させろ!それと、第3艦隊から「杉」「球磨」「阿蘇」「国見」「雲仙」を出す。…………なに?球磨は哨戒艦?だからどうした。朝鮮と清の連合相手に戦列艦なんぞ出せるか!哨戒艦と中型戦闘艦で十分だ!それにわざわざ新型の駆逐艦まで投入してんだ!……そうだそうだ。それと、陸軍から要請が来たら運んでやれ。
まぁ、どうせ大陸の海軍擬き、海の藻屑になるから大丈夫だろうがな………………」
3月2日 午後11時
突如、帝国領対馬に向けて軍船40隻、輸送艦30隻(兵数1200人)軍を進める朝鮮・清連合軍は、日付が変わった3日午前5時頃に対馬に到着。鹿見の漁港付近から、闇夜に紛れ上陸を開始した。
3月3日 午前5時35分
「全軍。上陸!!速やかに全土を占領せよ!!!」
「「「「「オーーーー!!!!!」」」」」
そして、清・朝鮮連合軍最高指揮官 年羮堯は部隊の半分を港の守備に。もう半分を標高240m程の山田山に向かわせ、接近する日本軍守備隊の偵察陣地とした。
午前5時40分
鹿見から避難してきた住民の通報により、清・朝鮮連合軍の対馬進攻を知った陸軍対馬守備隊所属東対馬警備隊(鴨居瀬)は、騎兵1個中隊を山田山方面へと偵察に向かわせた。
午前6時
新たに、南部小茂田に揚剿汀将軍率いる兵1600が、北部上対馬町大浦に誂羯民将軍率いる兵2000が上陸。大浦の海軍海洋警備隊が応戦するも、30人程度で押さえられる人数などたかがしれている。途中からは基地に立て籠り応戦したが、200の敵兵に包囲されてしまった。そこで、最寄りの陸軍に救援を求めたが、陸軍も手一杯のため救援部隊も送れず。というよりも、遠すぎるため送れるはずがなかった。
午前6時10分
陸軍対馬守備隊(厳原)は九州南洋陸軍総監府に連絡。その通報を受けた花田正則陸軍総監は、長崎から計1個師団の増援部隊を派遣するよう命令。
長崎陸軍基地司令 小見山慶太郎は第52歩兵師団を対馬に派遣することを決定。30分程で準備を完了させ、長崎軍港に待機中の鋼鉄製輸送艦「第208型輸送艦」10隻と旧型木造輸送艦15隻に計3500人の第1次対馬派遣隊を乗せ、上対馬に上陸。第2次派遣隊は避難民を載せて戻ってきた輸送艦に乗り、小茂田付近または厳原に上陸。敵部隊を駆逐。駆逐が終わり次第、鹿見・山田山に布陣する敵残存部隊を挟撃することになった。
午前8時
清・朝鮮連合軍は小茂田・阿連と鹿見及び大浦全域を占領。また、大浦の海軍海洋警備隊基地は生き残っているが、弾薬が少なく、ギリギリ基地の外周で追い払っているに過ぎない。
そして、東対馬警備隊の騎兵部隊が山田山に到着。しかし、山頂は既に連合軍に押さえられており、増援の到着まで対馬西小学校にて、待機することになった。
午前10時
北部の島民は上対馬町泉地区の海岸と病院へ、中部は鴨居瀬と厳原の陸軍基地。南部も厳原の陸軍基地へと避難した。
そして、砲兵1個大隊の兵に銃を持たせた「臨時歩兵大隊」と、厳原の第45歩兵大隊が南部に防衛線を構築。中部も鴨居瀬の第2歩兵大隊が対馬西小学校に防衛線を構築した。が、北部の守備が警察官20人のみという防衛線の薄さからぼろが出始めた。
午後0時
連合軍は少しずつ少しずつ泉に向かい始め、上対馬町比田勝と鰐浦まで進攻。防衛線は泉の海岸付近が限度のため、これといった抵抗も無く、連合軍は進軍していく。
午後2時
北部の守備が困難という連絡を受けた海軍派遣艦隊は、途中から高速の旗艦「杉」のみを先行させ、泉に連合軍が到着する直前で泉の海岸に到着。と、いっても、一般人を救出出来るほとの大きさでもない上に、小型ボートなども2隻しかないため、比田勝に陸軍が上陸するまでの守備として、連合軍へ砲撃を行うことになった。
そして、午後2時20分
連合軍およそ1200が泉を挟むように現れた。




