第三話 家族
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今日の部活動には、ルナが見学しに来ることになった。
「カイが走ってるとこ見てみたいなぁ」
ぼくがルナの髪をいつも通りのツインテールに結んでやっているとき、突然ひとりごとのように言い始めて、
「ねえ……、見に行ってもいい、部活?」
ルナはぼくが手元を狂わせないように、黒目だけをこちらへ動かしてそう言ったのだった。
当然ぼくは、最初それに抵抗した。ルナが陸上をやっていることはもちろん憶えている。陸上キャリアの長いルナに、ぼくの――控えめに言っても良い走りとはいえない姿を見せるのは、なんだか気が引けることだった。そういう心情に軽く触れたコメントを口にするとルナは、
「はじめてまだ三か月ちょっとでしょ? 当たり前じゃないそんなの。最初は誰だってそんなもんだよ」
その通りだ。でもルナにはかっこいい姿だけを見せたい、という気持ちがどうしてもぼくの中にはある。だからそんなルナの説得にも、あまり乗り気ではないリアクションをとると、
「だーかーらー……、わたしは単純に、カイが走ってるところを見たいの。そういう速い遅いとかじゃなくってね。別に遅くっても大丈夫、わたしが教えてあげようと思えば教えてあげられるし」
そう言われてもなあ。やっぱり来てほしくないものにはあまり来てほしくはない。でもそこまで言うのなら、ルナのお願いをしぶしぶ「しかたない」と頷くしかなかった。それにただのご機嫌とりなのかもしれないけど、「単純に、カイが走ってるところを見たい」なんて言われたら嬉しいし。
「あーでもやっぱり、おそかったらそれをネタに一日中いじめるかもだけど」
高校へ向かう途中になって、ルナは笑い含みにそんなことを言いやがった。あぁいいよ、もうどうにでもなれと校門をくぐり、ぼくは先に来ていた七村やカナタくんたちと合流する。いつもならこいつらのが遅いんだけど、ルナの髪を結ぶのに手こずって遅れてしまったのだ。
昨晩眠る前もそうだったけど、ぼくにはどうしても気になることがあって、今朝起きてからも暇さえあればそれについてのことばかり頭の中で考えをめぐらせていた。
昨日良い顔をして我慢を決意したはずなのに、やっぱりルナの隠し事についてのことだ。
隠し事の内容は――そりゃあ知りたいけど、ルナは「いつか話す」と約束してくれたし、いままで隠しがってきた母さんのことについて、少しだけだけど語ってくれた。だからそれは、我慢できる。
だけどルナは、なんでそれをぼくに隠そうとするのだろうか。その心中の方が、ぼくにとってはずっと知りたいことだった。
そこには不安がある。ルナにとって、ぼくは立派な兄でいられているのだろうかとか、頼りになる兄でいられているのだろうかとか――そうじゃないから教えてくれないのかもしれない、という不安。考えすぎなのは分かっているけど、ぼくはついついマイナスを考え込んでしまう。
だからこんなにも、自分をカッコよく見せたいという思いが強いのだろう。
そんな不安を助長するかのように、今朝のルナの目にはうっすらとクマができていた。早朝五時に――ぼくより一時間も早く起きていたらしく、本人は「畳に布団があんまり久しぶりだったから、なかなか寝付けなくって」と力ない微笑みを浮かべた。
それは本当にそうなのかもしれないけど、あらゆる発言が不安に結びついてしまう。普段ならどうでもいいと思うだろう発言さえもマイナスにとってしまい、ぼくはずぶずぶと不安に沈んでいく。
今日のドリンク準備の当番は七村とカナタくんで、ぼくは二人が帰ってきて部活がはじまるまでを、そんな不安に気を取られながらクラブハウス前の屋根の下で日射から逃れていた。
「ねえねえ三木くん、」
金網ごしに美村香奈と話しているルナを指差しながら、話しかけてきたのは先生だった。
「私三木くんがさっきあの子と一緒に学校来てるの見たんだけど……、なになに、彼女でもできたのかい?」
ぼくはふうと息をつき、説明するしかない。ルナがちょっと複雑な家庭事情の上に成り立つ妹であるということと、隣の隣の隣の市――少なくとも県境を越えてはいない、同じ県内の高校で陸上をやっていること。それを話すと、先生は仮面のように変わらず顔面に浮かべた微笑みを、いっそう深めたような気がした。
「……へえー、あれが松木ルナちゃんか。でも今は選手やめちゃったんだよね。まったくー、惜しい人材だよねえ」
ぼくが「そうなんですか?」とちょっと驚くと、先生も「あら、知らなかったの?」と意外そうな声をあげる。ルナはぼくと話しているとき、今でも陸上をやっているようなニュアンスのことを言っていたのだ。
「小樟学園……」と、先生はルナの出身校の名を繰り返す。県内では結構有名なところだ。いわゆる、お嬢様学校と言われるような場所。
「私、あそこの卒業生なのよ。……陸上じゃなくって体操部だったけど。でもうちの通ってた学校で良い選手が出たって噂で聞いてて、それで私はひそかに注目してたの。それが、あんたの妹である松木ルナちゃん。兄も頑張りなよー」
そんなにすごい選手だったのかルナって。ぼくは「それで、やめたってのは……」と思わず訊ねる。ルナは美村香奈と金網越しにまだおしゃべりを続けている。
「だからそのまんまの意味。私も詳しくは知らないんだけど、練習中に倒れたということだけは聞いた。……ねえ、ほんとに兄はなんにも知らないの?」
「兄は……、なにも知りませんねえ」
先生は「兄っ!」とぼくの背中を叩いてくる。
「家族なんだから情報を共有しといてくれよっ、ってまあ……、それも、しかたのないことなのかねえ?」
声が、うまく出せなかった。何を返答すればいいのか、考えられない。
「……やっぱり、変、ですかね? 妹のこと、なんにも知らないのって」
ルナのことが存外ショックだった。倒れた。倒れたってどういうことだよ。依然として会話が弾む二人のほうを見ると、ルナは何でもないように笑みをこぼしながらおしゃべりしている。なんで、そんな重大なことをぼくに教えてくれないんだろう。
ぼくは卑屈な言葉がつい漏れてしまったのを後になって感じて「しまった」と思ったけど、訂正しようと思える余裕はなかった。先生は、少し考えるような素振りを見せた。
「それは、親御さんからも聞かされてないってことだよね? ルナちゃんの気持ちはまあ分かるのよ……、そんなこと、自分からは教えたくないだろうし」
「なんでっ……、別に、教えてくれたらいいのに」
「心配させるのが嫌なのよ。だってそうじゃない? 自分が倒れたーなんて、同情が欲しいときに他人に対して話すような話題でしょ。……そうじゃないにしろそんなこと、少なくとも大切な人にはあんまり話したくないと思うよ」
先生はにこっといつもの笑みでこちらを見た。この人は微笑み過ぎて何を考えているのか分からないから怖い。安心させようとして浮かべている笑みなのかもしれないけど――そんなことよりぼくの頭の中には、さっき先生が言った「家族なんだから」という言葉がぐるぐる回っている。
「先生言いましたよね、家族は情報を共有してるもんだって。それは分かるんです。家族ってなんかこう、気兼ねなくなんでも話せる感じなんです。少なくともぼくの中では……」
ぼくは七村の家族を見たことがある。七村には弟がいて、弟はたよりになる兄ちゃんである七村になんでも相談を持ちかけてくるのだ。七村は――きっと強いから。
「お互い安心しきってて、なんでも相談できるような……、だから、ぼくが頼りないから、ぼくといてなにか不安だから、ルナは話してくれないんじゃないかって」
「でも、」と先生がぼくの言葉をさえぎる。
「あなたたちはずっと離れて過ごしてきたんでしょ? ……そっか、ずっと離れて暮らしてたんだもんね。それだったらなおさら、久しぶりに会う人には『自分は元気だったよ』って報告したいと思うでしょ」
ぼくがまだ不服そうな顔をしていたのか、先生は腕時計をチェックして「まーた七村カナタ組はドリンク用意のろのろやってるなぁ」とつぶやいた。そしてそれを口実にしたかのように口を開く。ちらりと見えた腕時計のデジタル表示を読み取ると、あと一分で練習開始の時間だった。いつもならウォームアップが始まっている。
「そんなに、家族家族って意識しない方がいいんじゃない。……だって家族ってのはね、いつでも一緒にいるしかないから家族だと思うんだわ。嫌でも父親はずっと父親のままだし、自分の好き勝手には縁を切ることもできないし。私が自立しようと独り暮らしを始めても両親はどうしても仕送りしたがったし、故郷に帰ったら○○さんちの娘さんで、そのあとようやく○○ちゃんって私の名前が出てくる。いつも一緒。自分の評価みたいにまとわりついてくる。
でもあなたの場合どうだろう。三木くんはどんな事情かしらないけど、そんな家族と隔絶されるしかなかった。長い間、一つ屋根の下にいなかった」
「それはつまり、ぼくとルナは家族じゃないってことですか」
「……キョーダイとしか聞かされてなくて、関係の上辺を少し知っただけの私はとりあえずそう思う。でも、それは他人の目からの話。大事なのはそこじゃない」
先生はルナに一瞥をやる。何をしゃべっているのか分からないルナの口の動き。それからぼくを試すように目の中で転がして、
「……自分はどう思いたいの? ルナちゃんと、家族でありたいの?」
当たり前だろ!
と声を張ることが、ぼくにはなぜかできなかった。
家族でありたい。そんな当たり前の答えを告げることが、何か自分にウソをついているような気がしてしまう。
うなだれた頭の上から、じっと見つめられているのが分かった。先生は自分のこんな心境を知らないはずだ。でもその不気味な表情にはそれさえも見透かされている気がして、しかしそんなわけはないと思う。そうだ、そんなわけない、そんな考え、常識人がするとおもうか
「三木くんがどう思っているかはともかくとして……、私から見たあんたたちは、一緒にいたがってる、って感じかな」
ぼくがはっとして顔をあげると、先生はいつものような笑みをゆるめていた。女神が見守っているような、そんな雰囲気だった。
「だって三木くんはこんなところまで妹を連れて来るんだもの。それでルナちゃんも喜んで来てくれたんでしょ? それは家族ってことを、ホントは心の中で感じてるからだと思うの。一緒にいるのが当たり前……それが家族ってやつだからねえ。三木くんは離れてた妹ちゃんと久しぶりに会ってみて、どうだった?」
「そりゃあ……、嬉しかったですよ」この気持ちを表すことばが見つからなかったから、単純な言葉を選んで口に出した。ふいに春の日のことを思いだした。いっしょ、という言葉。
「家庭の事情が分かんないからこんなこと言えるのかもしれないけど……、いっそ一緒に住んでみたら、と思う。両親が離婚して、それは男女間の愛情が変わったからなのかもしれないけど、三木くんとルナちゃんの間柄はずっと、キョーダイのまま変わらない。家族っていつも一緒にいるからしかたなしに信頼を置くしかなくって、そのうち一緒にいて安心できる存在になって、そんな存在がたぶん、家族ってやつなの。
あんたたちキョーダイには、そうなる権利が十分にある。そして二人は一緒にいたくて、じゃあ一緒にいればいいんじゃない? それができないから一緒にいられないのかもしれないけど……、一番の答えは、やっぱりそこだと思う」
いっしょ、という言葉がやけに心ににじんだ。いつでもいっしょでいられたらどんなに幸せかと考えると、鳥肌が立つほどここちよかった――悲しくなるほどに、ここちよかった。直後先生が「兄っ!」と背中を叩いてきて、
「兄であることに自信がないんなら、いっちょかっこいいところ見せてやりましょうかっ。自信をつけるには努力よ努力! 練習しまくって速くなって、頼りがいのある男になったら嫌でも頼りにしてくれるわよっ。妹に頼りにされたい心を持ってるってことは、心は立派にお兄ちゃんなんだから、」
「あーとーはーそーのーひょろひょろをっ、どうにかしろっ」と背中をばしばし叩いてきて、とどめの一撃みたいにケツを引っ叩かれた。
「先生の逆セクハラが発動っ!」
と七村の声が遠くから聞こえてきて、でかいアイスボックスをカナタくんとのふたりがかりで運んでくるのが見えた。
「カイは感じた!」
かんじてねえよ。
ルナが苦笑いでこちらを見て、軽く手を振ってくるのにぼくも返す。先生が「おーい、話は聞いたからァ、そんなとこで見てないでぇ、グラウンドの中入ってきてもいいよぉ」と呼びかけ、やめてくださいよと先生にせがむが、ルナはじゃあ失礼しますと侵入してくる。それを眺めて先生は、そっと声をひそやかにした。
「これでルナちゃんが三木くんと一緒に晴空に住むようになってくれたら、三木くんは妹のためにパワーアップして、ルナちゃんもトレーナーかなんかになってくれて、私は優秀選手を送り出した名顧問って言われて名声がっぽがっぽなのになあ」
先生は手をマネーの形にして、口を縫って無理やり吊上げたような、いつもの笑みを浮かべながらぼくを見る。
「ねっ、兄ちゃんよ。……妹ちゃん獲得のために、いっちょキバろうか」