第一話 再来
青春。
なんと甘くて爽やかなイメージを醸し出す言葉だろう。でもそんな甘くて爽やかな青春を送ることができる人間がこの世のどこに存在するというのだろうか。
――いや、まあいるのかもしれない。たとえばぼくらがぜいぜいはあはあ言いながら汗水びっしょりで運動場を猛ダッシュしているというのに、ぼくらを牧場の牛みたいに取り囲むこの金網の外では、髪を茶色に染めた男子が、髪を同じく茶色に染めた女子を隣にしていちゃいちゃしながらのんびり歩いていたりする。
だからぼくらは
「暑いどぁ―――――――――――――――っ!」
「どっかぁあ―――――――――――――んっ!」
「うおわあああああ――――――――――っ! もっ! もももおぉ―――っ!」
夜と呼べるような時間帯になってもしつこくこの町を照らし続けるあの灼熱の太陽に向かって、たった五十メートルの、巨人なら一歩でまたげるような短い距離を、短い脚の全力で走り続ける。そう、それがぼくたちの青春。青春とは甘くて爽やかなものじゃない。暑くて苦しくて汗が目や口に入って痛くて塩辛い、それが本来の青春なのだ。
「恋なんて大人になってからすればいいんじゃあ――――――――――っ!」
と幼稚園からの親友である七村が叫び、
「学生は今のうちに運動をしてしてしまくったほうがええぞぉおおお―――――っ!」
とぼくが根拠もない意味のわからんことを叫び、次にカナタ君が、
「俺の方が最強だあぁあ――――――っ!」
とこいつはもうダメになってしまっているが、たしかにぼくらは最強に違いなかった。夏の熱に狂わされて最強状態になっていた。クラウチングスタートでゴートゥーザヘルを繰り返し、何度地獄へ行ったってぼくらは何度でも何度でも蘇り、陸上部なのに野球部と張り合えるような声量でただひたすらに叫びまくる、
「てっめえらぁっ、」
ぼくらが太陽に向かって走っていたところを、まるで時代劇の剣客のように、
「めっためためためためためたっ、うっせぇええんだよぉ!」
飲み枯らされた空のペットボトルが、ぼくら三名のバカの空っぽな頭を叩いて、ぼくらは新しい楽器としてどっかのバンドメンバーに加われそうだった。
「黙って走れやっ! バカ三んっ!」
歩いただけで揺れそうな胸を体操服の下に隠し持っていらっしゃるポニーテールの女子、美村香奈を併せて、ぼくら陸上部員一年生の全四名は一部の人から「バカ四」と呼ばれている。
「今日もバカ四は元気がいいですなあ」
とクラブハウスにある陸上部室前でのんびりアイスを食べているソバージュ髪のお姉さんが、その一部の人の一人、陸上部顧問のナガサワ先生で、
「元気が良くなきゃあバカ四じゃないっすよ~」
とこれもまたのんびりとアイスをぺろぺろしているショート金髪長身のお姉さんが、これもまた一部の中のもう一人、ミタ先輩高校三年生、陸上部ではただ一人の先輩ポジションを持つお人である。でもあんまり部活に出ないというか、出たとしてもこうやって見てるだけなんだけども。それで許すナガサワ先生もどうかしているが、この先輩は練習しなくても出場した大会で常に好成績を叩きだす超人だそうなので許されてもおかしくないのかもしれない。でもこの人は陸上部の三年間で、たった一度しか記録会に出場したことがないらしい。それでいいのか陸上部。
「あたしはバカじゃありませんっ、だからバカ四じゃないですぅっ、っていうかミタ先輩サボってないで今日こそ勝負してください、わたし今日調子いいですから絶対勝てますよ、ゼッタイ!」
美村香奈がペットボトルをミタ先輩に突きつけ叫ぶと、
「はたから見たら香奈ちゃんだってバカっすよ~。バカにわざわざつきあってやってんすからぁ。バカじゃないならそんなやつらほっときますよって、ねえ先生」
先生は「そうですなあ」と残酷なほどにこやかにうなずいて、どこから取り出したのか缶のホットおしるこをぐびぐび飲み、そしてアイスをぼごっと頬張る。うぐっ、と美村香奈は一瞬たじろいで、
「……って勝負に関して無視しないでくださいっ、体力差あるこいつら男子とやっても意味ないんですって勝負勝負ショーブしょうぶ勝負勝負しょうぶっ!」
「バカにかかわるとバカになるんで。……あっ、おしるこまだありますぅ~?」
バカ四と呼ばれることに関してぼくからは特に不満や文句はないけど、ぼくらからすればあんたたちはバカ二だ。
というわけで夏休み一週目の本日も、ぼくたち空晴高校陸上部バカ四は朝から晩まで部活部活部活なのだった。昨日も一昨日もきっと明日も明後日も、こうやって仲間内でとにかく走って叫んで笑って疲れて寝て食べて宿題に追われての、楽しいんだか苦しいんだかなんだか分からないような日々がずっと続くのだと思っていた。
その日の部活終わり。ぼくらが帰宅の準備をするころには、もう日が暮れかかっている。
特定の曜日の練習メニューの中で、短距離走者のぼくらバカ四は五十メートルや百メートルのタイムを記録することがあるのだが、ただ記録するだけじゃ面白くないので、その日一番タイムの遅かったやつが駅前のコンビニで勝者に何かをおごるという面倒くさい取り決めをしていた。そして当然のごとく、敗者はぼくかカナタ君になる。七村は中学時代を野球部で過ごしたので、そのせいかものすごく速いのだ。その日だってぼくは七村にゼロコンマ三秒もの差をつけられ、みんなに何かをおごることとなったのだった。
「さあて、なにおごってもらおっかな~」
自転車のスタンドを乱暴にあげると、七村はカナタ君のように後部に荷物を縛りつけることもせず、エナメルバッグをカゴの中へ放り込む。
「あんま高いのはよしてくれよ」
ぼくは学校から家が近いので徒歩での登下校だった。だけどコンビニのある駅前までの道のりはけっこう遠い。だから元々不良気がある七村は「二ケツしようぜ」と持ちかけるのだが、それで一回見つかって先生にめちゃめちゃに叱られたので走っていくことにしている。
「俺はアイスっ」
カナタくんはいつものように丁寧に荷物を縛り終えると、待っているぼくと七村の方へ自転車を押してやってきた。
「それじゃ普通過ぎるんだよ、どうせカナタ百円アイスだろ? 優しいよなあ、でもさ、ここはもっとすさまじいモン頼んじゃっていいんだぜ? 頼んじゃっていいんだぜ?」
「こんなところで個々人の特徴出されても困るんだが」
とこの自転車置き場でぼくらは数分ほどだべってから帰り道をたどることとなる。カナタ君はオレンジになった空を見ながら、
「じゃあ……、肉まんかなあ」
「それのどこがすさまじいんだよ」
「だからすさまじさとか求めなくてもいいって、」ぼくは七村の指摘にさらに指摘し、
「……えっ、夏に肉まんって、すさまじくない? なんか。冬に食べるべきだろっ、みたいな」
カナタ君はこういうふうに上手く表現できないのだがよく分からないズレたようなところがあって、入学時ぼくと七村の席の斜め横にいたせいでこういう妙なところが面白がられ、そういうわけでだんだんと一緒につるむようになったのだった。
「ばっか、先生のおしるこにインパクト負けてるだろそれだったらー、もっとこうインパクトが欲しい、インパクト……ん? まん? まん……」
「肉まん」という語が七村の頭の中に一つの発想を装填したらしく、アゴに手をあてると、
「コンドームをおごってもらおう!」
すっこーん、と気持ちがいいほど空っぽな音が七村の頭頂部から放たれた。
「夕方で静かな校舎付近で、しかも大声でそんなはしたない言葉さけぶんじゃねえぇよバカ三んっ!」
背後には――やはりペットボトルを持った美村香奈だった。こいつも自転車登校で、だから当然ここに自転車を止めているのだ。てか七村だけが叫んだのになんでひとまとめにするんだよ。
「うおあぁあっ! 肉まん!」
しかし振り返った七村は対してダメージを受けた風でもなく、美村香奈を指差して元気よく言う。その指の先には確かに二つの大きな、
「おいしそうな肉まんだっ」
ぼくが言うとカナタ君も、
「そうだ俺これおごってほしい」
良い音が三発夕焼けの空にひびいた。
と、そんないつもの会話の直後、とつぜんぼくのケータイが鳴り始めたのだった。親父が今日から一週間出張だと言っていたので、それ関連の連絡だと思って折りたたまれたのをパチンと開いたら、
「……ありゃ、非通知。こういうのってみんなどうしてるんだ?」
とりあえず出とく、と七村が即答したのでぼくはとりあえず出ておいた。こういう経験は実ははじめてのことだったのだ。だけど「もしもし」と呼びかけてみても、受話器からは携帯電話特有の砂嵐が静かに聞こえるばかりで――いや、誰か群集の話声がうっすらとその背後から聞こえているような気がする。ごとごとと揺れるような音は、何となく聞き覚えがある。駅前のコンビニへ行ったときよく聞く気がする音。
「……もしもーし?」
ぼくがもう一度呼びかけてみてもそんな雑音しか聞こえない。
「ごめんなカイ、俺知らない電話番号から電話かかってきたとき、ホントは無視するんだわ」
おい七村お前あとからどうなっても知らねえからな、と思ったそのとき、
――カイ?
ぼくは聞き覚えがあるその声に、一瞬受話器ボタンを押して通話を切ってやろうかと迷った。だけどぼくらは電話番号もメールアドレスも交換していないはずだ。あのあと何だか気まずくなって、それどころの話じゃなくなったのだ。だから聞き間違いだと思って、ぼくは「はい」と応えてしまった。
――……いま、晴空駅の待合室にいるの。
「えっ、でもっ。なんで……、」
そのか細い声はそうに決まっていた。ぼくの疑問に相手は答えず、ただ「迎えにきて」とだけ言って、一方的に通話を切られた。
「女の声だったよなあカイ」
「女の声だったよね」
「うそよ、おっ、女の声だったわ……」
やけに静かになっていたと思えばお前ら人の通話を盗み聞きとはいい趣味をしていらっしゃる。ぼくはケータイをパチンと折り畳み、じとっとした目でこちらを睨む三人を横目に、
「すまん、今日のコンビニおごりはなしってことで、」
「自転車が徒歩に追いつけないとでもぉっ?」
そう制服の襟首を掴んできたのは、七村ではなく美村香奈だった。
*
「よかったよ、お前に彼女ができたわけじゃなくてっ、やっぱりカイは俺の親友だあーっ」
ぼくは七村の安堵溢れる声に「そりゃどうも」と力なく応えつつ、エロ本売り場へ足を進めようとするカナタ君に足をひっかける。
そしてそのエロ本売り場の向こう、コンビニのガラスの外には美村香奈と――どでかいトランクケースを椅子みたいにして腰かけたセーラ服姿のルナが、久々の再会を喜んでいるかどうかは知らないが、なにやら会話を弾ませているようだった。二人はルナがこの田舎町を去るまでを、親友という関係として過ごしていたのだった。ちょうど、ぼくと七村の関係に似ているかもしれない。
「それにしてもやっぱおばさんの遺伝子強ぇよな、カイもルナちゃんもっ」
七村は向こうにいるルナを見ながら、そんなことを言った。
「そうか?」とぼくだってコンビニの外でおしゃべりしている二人を見ている。ぼくの足引っかけから逃れたカナタ君が、エロ本コーナーを物色しているのが気になったけど気にしないことにした。「そんな似てる?」
「まあまあ、似てる。目つきとかおばさんそっくりだよ。何か少しとんがっててきつそうで。……俺は好きだった女の人の顔を一生忘れない。あと……胸もそうだな」
「お前なあ」いろいろツッコんでおきたいところはあった。お前うちの母さんをそんな目で見てやがったのかとか、胸のことは言ってやるなよとか。でも、そんな気分にはなれなかったのだ。
「親父め、遺伝子まで尻に敷かれやがって……」
ぼくがそんな言葉を捨て台詞みたいにつぶやいた直後、
「これおごってっ!」
ととつぜんカナタ君がぼくの胸に押し付けてきたものは、
妹の誘惑に抑えきれなくなった兄――浴衣姿の巨乳女に旅館で欲情する――実録、女子校生援交の真実――一年ぶりの交わりに人妻が乱れる――
淫語と肌色と目の黒線ときわどい水着などなどが、手当り次第に四角い空間へぎっちり詰められた、とどのつまりエロ本の数々だった。それをまるで教科書一式みたいに腕に持ったぼくを、外にいたルナたちが一瞬こちらをチラリと見た気がして、あわててそれを七村に押し付ける。
「うおあーっ、あっ、俺もこれおごってもらおっかなあ。義理の妹が寝てるうちにイタズラか。俺これにするわ」
おっまえらまじでふざけんなよ。
「なに言ってんの七村君。それは俺が全部おごってもらうんだよ。冗談じゃなく、真剣にね」
カナタ君はうっとりと目を細めながらぼくを見て言う。こんな鬼畜なカナタ君を見るのは生まれて初めてで、ぼくと七村は並々ならぬ恐怖に震えていた。いつもならその素敵な笑顔でぼくに宿題を見せてくれるじゃないか。
「というのは冗談で、」
でもカナタ君はいぜんとしてその恐怖の笑顔を凍りつかせたまま崩さない。
「……七村君と三木君がむかしからの知り合いだったってのは知ってるんだよ。あと七村君と三木君が性的な仲だったってことも、雰囲気で分かる」
「……いやいやいやいや分かんないでよ、ちがうから」ぼくが反射的に反論すると七村は、
「えっ、ちがうの? 俺たちあんなにも深く愛し合っていたじゃないか……」
「えっ、ホントにそうだったの? ……まあそれは聞かなかったことにして、今後の幸せをひそかに祈ることにして、」祈るなよ。
カナタ君はここでルナたちの方へ顔を向けた。
「突然現れたあの女の子、そしてその女の子と仲睦まじそうに話している美村さん。それであの女の子は三木君の妹さんっていうでしょ。で、七村君はあの女の子に詳しいみたいだ。だから事情を知らない俺がなんだか疎外感を受けているみたいなわけなのだよ。詳しく教えてくれないか? ……この泥沼四角関係の概要を!」
「えー、俺とカイが愛し合っててー、ルナちゃんと香奈が愛し合っ」
「てねえからな」
ぼくは七村のボケに俊敏なツッコミを入れ、ぼくらの別段どろどろしていない関係を、カナタ君に説明することとなったのだった。
まあそれは簡単なことだった。つまりぼくと七村とルナと美村香奈は、同じ幼稚園に通っていたのだ。小学三年生になるまで同じクラスで(というのも田舎の小学校は生徒が少ないので一学年につき一クラスしかない)、ぼくの親が離婚したときにルナだけがこの町を去っていった。そういう状況下にあったわけで、ぼくらはお互いの両親の顔や名前も知っている。ぼくは七村、ルナは香奈とよく遊ぶ関係にあり、しかしぼくが美村香奈と遊ぶことや、ルナと七村が遊ぶことはなかった。と、こういうようなことをぼくはずらずらと述べていった。するとカナタ君は納得したように「なるほどなるほど」と頷き、
「で、三木君と七村君はどういう風にそんな関係に至ったのか詳しく」
「……あれは幼稚園年長組の夏、カイはいぜんとして小便するのにおまるを使用していたんだ。ああ。ちっちゃくてかわいらしいおちんちんだった」
「やめてくれ」それはぼくの中で最も触れていけない記憶の一つだ。あとその語の使用と切り出し方は誤解を生む。一応、念のためもう一度だけ言っておくが、ぼくと七村は決してそういう関係ではない。
再度念を押して言っておくけど――ちがうからね。本当に。