甘酸っぱくて、ほろ苦い (コーヒーショップ⇒ドーナツショップ)
*
「きゃらめるふらぺちいの、トオルで」
と、ルナから教えてもらった暗号を唱えて入手した冷たい飲料を片手に、ぼくらは公園の机で向かい合いながら、何のゴールも目的もない会話を交わしあっていた。スタバ(一回利用したからには略してみたくなる)の店内で飲んでも良かったんだけど、あの空間にはパソコンを操っているビジネスマン様の人物がやけに多く、どうも気軽に過ごすのには向いていないんじゃないかという意見がルナと一致して、ぼくらは命からがら脱出してきたわけだ。
「いっつもあんなとこでコーヒー? 飲んでるの?」
とぼくが訊ねると、
「友達に誘われた時はいくけど……」ルナはコーヒークリームの上にオレンジソースが渦巻き模様を描く飲料をぐるぐるかき混ぜながら、口をすぼめた。
「じゃあ自分から行こうとするのはじめてだったんだ。ははーん。またなーんか無理に都会ぶっちゃったりしてー」
思えばデパートを案内してくれていたときだって、あの歩調は強がりが作らせたものだったように見ることもできるし、店長と喋ってたときだって緊張してたような気がしないでもない。
「ちっ、違うもん、だって、味は美味しいからっ……おいしーでしょっ、それ?」
「チッチッチッ。『それ』、じゃないぜ。きゃらめるふらぺちいのトオルっ。完全に憶えたし」
「ッ、これだから田舎モンは……」
これだから近頃の若いモンはっ、みたいに言うな。明日部活の仲間に自慢してやろうと思ってるのに。このカップはぜったい捨てない。一生の宝物にする。
「ってかコーヒ―飲むはずだったのにこれデザートじゃん。いや、美味しいけどさ」
ぼくはストローでさくさくと、カップの中のフローズンをほじくる。満タンのときはふんわりと綿のように乗っかっていたクリームも、今ではすっかりキャラメルの色に染まって、底の方で溶けかけのフローズンと混ざり合っている。
「美味しかったんなら、よかったじゃない」
ルナはそう言ってストローを少し吸ったあと、
「そっち、飲ませてっ」
「はっ?」
ぼくが思わずすっとんきょうな声を上げてしまうと、ルナは少し驚いて、そのあといぶかしげな顔をした。
「ああ、もちろんタダじゃないよ? こっちのオレンジブリュレ飲ませてあげるし。だって、そっちがホントは私のお気に入りなんだよ? これは新発売っていうから、実験に買ってみたの。美味しかったよ?」
「……こっちあとほんのちょっとしか残ってないんだが」
別にいいからっ、と差し出してくるルナのカップを受け取り、ぼくも自分のカップをルナに渡した。よく分からない鼓動の早まりに、すこし手が震えていたような気がする。
「あー、ほんとにちょっとしか残ってないし……ぜんぶ飲んでいい?」
いいけど、と言うか言わないかのうちに、ルナはもうそのストローをくわえこんでいた。ルナの様子は、別に変わらない。楽しそうな雰囲気をたたえたままの表情で、ズルルーッと音をたてて吸っている。小鳥のようにストローをついばんだ唇から、ぼくは目をそらす。そして静かに深呼吸。そうだ、こっちが意識しすぎなだけなんだ。
「もうなくなっちゃったし、」
そういってルナはぼくの方へ顔を上げた。ぺろりと軽く、舌の先が唇についたものを舐めとった。
「あっ、そっちは全部飲まないでよねー、わたしお薬飲まなきゃだから」
「お薬? あーそういやむかしからルナ身体弱かったもんな。今でもなの?」
ルナの気をそらすために、とっさに思い出したことをすぐ口に出す。そんなにじっと見られてると、いくらなんでもなんだか飲みづらい。「んー、ちょっと貧血がね……」とルナの視点が沈んだ隙に、それとない仕草でぼくはモスグリーンのストローに唇をつけた。
ぼくは一瞬、唇の内側でぬるっとした液体のなまあたたかさと、オレンジの甘酸っぱい風味を感じとって、それをかき消すように思い切り中身を吸い込む。フローズンの冷たさだけが口の中に拡がって、肝心の味はあまりよく分からなかった。ストローから口を放すと、変な緊張で口内が乾いていたせいか、唾液の糸がひいて慌ててしまう、
「もういいの?」
気付けばルナが、ぼくのことを見ていた。
「えっ? あ、ああ。薬飲まなきゃだろ? あっ、そのカップ友達に見せびらかすから返せ」
そんなぼくを見るルナの目は、ひそかな動揺を冷静に観察しているかのように全く動じず、
「へんなのっ」
その直後のルナのニコッとした笑みは何か意味深なように見えて、ぼくは思わず、さっと目を伏せてしまった。
*
時間は容赦なく進んでいく。それでこそ誰か特定の人間の願いになんて構わず、不変かつ一定のスピードで、無感情に、平等に。だから心の中から世界を見るヒトという生き物は、そんな一定であるはずの時間のことを、長かったり遅かったり感じてしまうんだろう――なーんてことを、ぼくはルナと過ごしている間に分析してみたりしていた。
いろいろといざこざはあったけど、そんないざこざさえも、今振り返ってみたらつい微笑んでしまうようなものばかりだ。ルナが隣にいることで、時間や事象やいろんなものすべてが、今までとはまるですっかり変わってしまっているようだった。不変の法則によって動く世界は、感情によってこうも簡単に変わってしまうのだと、ぼくは今さら気づかされた。
でもけっきょく、一人間のしょせん感情では、世界の法則をねじまげることなんてできない。
気が付けばビルの谷間の向こう側に、巨大な夕陽がもう半分も溶けかかっていた。今が何時かは分からない。ケータイを開いたら分かるんだろうけど――、きっと「その時」が来たら親父が電話かメールか入れてくれるんだろう。ルナのケータイにも、何の連絡も入ってきていないようだった。着信音が聞こえなかったから、たぶんそうだと思う。
「……おみやげ、そろそろ買っとかないとね。田舎モンのために」
そうルナが言いにくそうに切り出して、ぼくらはタワレコへ向かう途中に通りかかったミスタードーナツへ寄ることになった。
ほのかに砂糖の甘い匂いが漂う店内は、やはり家族連れが目立って多かった。ぼくは髪の毛を金に染めている子どもに驚いたり、ミスタードーナツって店内でもドーナツ食べれるんだな、と相変わらず田舎モンな発言を連発してしまい、ここのところルナはぼくのことを「田舎モン」と呼んでからかってくる。
「あっ、そういや。田舎モンはドーナツどれがいいの? 順番次だよ、はやく選ばなきゃ」
うっかり談笑にふけっていたぼくは、その言葉でふっとガラスケースの中に並べられたドーナツへ気を向けることとなった。っていうかいいかげんその田舎モンを止めてくれ。ぼくを見るみなさんの目が、なにか蔑視に富んだもののように感じられてくるから。よくわからんけど、金髪ガキンチョにガン飛ばされてるし。
「っていわれてもなあ……」
目の前で商品を選んでいる家族連れの子どもが、必死にへばりついて見入っているガラスケースの中身は、どれもみんな美味しそうに見えて選びようがない。
「ちなみに、都会モンのルナさんが選ぶとしたら? ぼくもそれにするから」
「んーとねー、……ポンデリング200個かな」
「嫌がらせだろ」と言った直後にぼくはぷっと噴き出してしまい、それに釣られてルナも、こらえていた笑いをじょじょに口元に浮かべると快活な声で笑い始めた。まさかルナがギャグみたいなことをここで入れてくるとは思わなかったので、ぼくにはそんな言葉がやけに面白く感じられたのだ。
「やだもう、……じゃあ、メニューはわたしが選んであげるから、」
「あっ、お金はぼくが払うから」
するとルナは、ポッケから財布を取りだそうとしたぼくの腕を捕えて、
「ダメっ、カイは、払わないで」
「えっ、だってぼくが田舎に持って帰る……みやげだろ? ぼくが金を払わないでどうするんだよ」
「だからっ……、」
そこでルナはぎゅっと床を見つめ、なにか言葉をつむごうとしていた口を閉じた。ぼくは「うん?」と首をかしげて、次の言葉を待つ。腕を握る手の力がしめつけるぐらい強くなってきて、
「その、いままでカイばっかり、気遣ってくれた、でしょ? 今日。だからっ……、その」
ルナのゆっくり肩が上下して、深呼吸したのだとなんとなく分かった。手の力も、ゆっくりひもをほどくようにじょじょにゆるみ始める。そしてルナは顔を上げた。
「おみやげじゃなくって、カイに、プレゼントさせて? ちょっと、安いかもしれないけど……、でもっ、わたしだってね、されるばっかりなのは、イヤなんだよ? ちょっとぐらい、わたしからもさせてくれたって……、いいでしょ」
しゃべっている間、まぶたの中をころころ動き回って震えていたルナの瞳は、言い終わる直前には耐えきれなくなったみたいにそっぽを向いた。ああ、こういうときって、どうすればいいんだろう。嬉しすぎて、そんな幸せが白く頭の中ににじんで、ぼくは何も考えられなくなってしまっていた。
「ルナ」
と思わず名前を呼んでしまったのは、たぶん無意識の中の行動だ。どっかへ飛んでしまっていたルナの視線が、おずおずとぼくのことを捉える。ぼくはそんなルナのことを見つめている。ぼくの背後はガラス張りで、そこから注ぎ込んでくる夕陽の光がルナの全身に幻想的な陰影を作り出していて、ぼくはどきりとした。思考回路が狭まる。こういうときにぼくができることといえば――ごく単純なことしか思い浮かばない。
「あ、ありがとうな」
微笑みが遅れて表情に浮かぶ。照れ隠しの笑いみたいになってしまった気がする。じっさいそうなのかもしれない。こういうときは頭をなでなでしてやればよかったのか、いや、ルナは犬猫じゃないんだし、それに――なんて思っていたら、
「……それそれ、そういうカイのリアクションを見たかったのよ」
なんてことを言いつつ、ルナはくすくすと今日一番の笑顔でぼくに笑いかけた。幸せぇーってなんだっけなんだっけ、たぶんこういう感じのことなんだとぼくは思う。いつまでも長く続けばいいのにという願いが、いつか終わってしまう危うさをかき消してしまうこの感じ。でもそれは完全に消えたわけじゃなくて、ただ一時的に見えなくなっているだけのことで、
「ほらっ、帰るわよっ」
という先客の声でぼくはそれに気づいてしまった。ポンデライオンほしいーっ、と泣き喚く女の子が、それよりちょっと背が高い男の子に慰められながら母親に着いて店を出てゆく。
「……兄妹かな?」
ルナの確認にぼくは「だろうね」と応えて、ぼくらはちょっとの間、その子たちが店を離れてゆく様子を見届けた。男の子に手を引かれ、おもりみたいな扱いでひきずられていく女の子の泣き声は、遠くなっていくたび不思議を帯びて心に響く。ぼくの入り組んだ記憶回路のどこか隅っこに、あの声に似たような音声が眠っているのだろうか。それは夕陽の橙とまじりあい、懐かしい気持ちになって心の奥へとじんわりにじんでいった。
「どんなの選んだかは、家に帰って箱開けてからのお楽しみだから。カイはそこで待ってて」
ルナはそう言ってカウンターの店員さんにあれこれ注文し始める。
「ポンデリング200個頼むなよー」
後ろ姿にそう声をかけると、「分かってるっ」と跳ねるような返事が返ってきた。だからと言ってポンデリング1個だけ、というのも止めてくれよ。と、それは心の中にしまっておく。
ぼくは黙ってガラスの方を向き、暮れていく街を見つめたあとケータイを取りだした。終わりのあることを、ぼくは静かに見つめなきゃならない。そうだ、メルアドとか交換すればいいじゃないか。そんな簡単なことに今さら気づいて、折り畳まれたケータイをパチンと開いた。
「カイ、」
六時ちょっと前なのを確認したとたんにルナの声が聞こえてきて、「なんだよ」とぼくは振り返った。
「えっとっ……、ごめん、思ったよりわたし、お金持ってなかったみたいで……ちょっとだけだから、あの、」
「オーケーオーケ。何円だよ」笑いながら財布を取りだす。
「できるだけ最小限に抑えたいからっ、財布ごとかして?」
そうか、とぼくは納得して、財布をルナに手渡してやった。箱の中見ちゃダメっ、というのでぼくは元の位置に戻ろうと二、三歩進んだ、そのあとにぼくは唐突に思い出すのだった。
「今夜はどかんと一発、決めちゃいなさいよっ」
アゴヒゲの声と、手の中に押し詰められたあの感触。リング状。ぐにゃぐにゃ。シルエットと――そしてそのとき一瞬浮かんだ妄想。慌ててお札入れにしまいこんだこと。財布を取りだすときは「それ」があることに十分注意してきたのに。ルナはいったい何円足りないんだろうか。最小限っていってたから、小銭入れの方をまず見るはずだよな。でも、だいいちルナはぼくの財布の構造を知っているのか。
鼓動が一気に跳ね上がって、全身から冷や汗がふきだして悪寒が走った。ルナはぼくの背後で、今まさにぼくの財布を探っている。そんな気がする。うしろを見た方がいいのか。でも怖い。できることなら見たくない。「見ちゃだめだ」と叫ぶべきか。逆に怪しまれないか。ぼくはもう、「それ」を見られてるんじゃないのか。息が止まっていることに気づいて、意識的に呼吸する。したたる脇汗。どこかの親が何か子どものことをからかって笑っている。「お会計――円となります、」
ぼくは背後を見た。
ミスタードーナツのレジ袋を吊り下げたルナが、こちらを振り返った。財布はその反対側の手の中にある。顔を見ることは、できなかった。
そのとき、携帯のバイブがぼくの意識を一気にそちらへかき集めた。とっさにぼくは取り出して、夢中で開いてボタンを押す。メールだった。親父からの文面は短く、視点を次行へたどらせるまでもなく、ぼくはその内容を全て把握してしまった。
「親父から……デート終わったみたいだから、駅前の、コンビニ近くで待ってるって」
口に出して言うと、「そっか」とルナは応える。
「ごめんね」
ルナはそう言って、財布をぼくに返してくれた。何がごめんねなのだろうか。見たんなら、「この変態っ」とかふくらはぎを蹴りつけてくるはずだよな。なにが「ごめんね」なんだ。けっきょくぼくがお金を貸してしまったことについてか。それとも――。
「ねえ、」
ルナの声。やけに平坦な。そこからいつも通りの何でもない話を切り出してくれたならまだ安心できた。
ぼくらが店を出て、四歩目のところだった。ルナは、こう続けたのだった。
「……やっぱ、なんでもない」