笑顔 (ゲームセンター⇒)
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「なにぼーっと突っ立ってんのよ。はやく席に着くッ」
なんてどこかで聞いたようなことをルナに言われ、ぼくはバーチャファイターの筐体の前に座らされた。
生まれてはじめてのゲームセンター。ぼくはルナとわいわい話しているときから、この場所に訪れるのを少し楽しみにしていたんだけど、いざ入ってみるとその騒音に気がめいるばかりだった。
印象だけなら田舎のパチンコ屋となんらかわりない――自動ドアが開くと合成圧縮されたような音が飛び掛かってきて、ぼくはふとそんなことを感じた。
隣の席に座ったルナの指図を受けながら硬貨を入れ、うだうだ言われながらパネルのボタンを押す。はじめてのゲームをプレイしようとするとき、最初に覚えなきゃならないのは戦術とか攻略とかではなく、操作方法だ。パネルに勝手にスティックが突き立てられていて、AやらBやらCと書かれたボタンをいろいろちりばめられても、いったい何を押せばどうなるのか、こちらはさっぱり分からない。だからとりあえずテキトーに押してみるんだけど、
「あーもうっ、私がやるからちょっと立って」
いったいぼくはどうしてりゃいいんだよ。ルナがスティックを最小限の動きで傾けて、キーボードのブラインドタッチみたく素早い手の動きでタタタンッとボタンを押すと、柵で囲まれた中華街っぽいステージの上に、スモウレスラーとしか言いようがない力士とチャイナ美女が立っていた。
「おい、ちょっとまて」
「なによ」
自分の席に戻ったルナが、こちらを睨んできた。ルナは画面に飛び込むような前のめりの姿勢でスティックを握りしめている。ゲームにプロがあるのだとしたら、こいつはきっとプロだぞっていう雰囲気が漂っている。ちなみにルナの向こうにいる紳士服の男性はもはや椅子を利用していない。試合開始の掛け声が聞こえて、ルナは画面に顔を戻した。
「なんでぼくはこんな力士キャラなんだよ!」
なんて叫んでいるうちに、チャイナ美女は力士の足元を崩し、その美脚で華麗に連続技をきめて力士を吹き飛ばした。ぼくは倒れこんだ力士にボタンの連打を与え、だけどすぐに美女の健脚が力士を崩す。
「似てるからにきまってるじゃない」
「どこがどう似てるんだよっ、ぼくは肥満度マイナス5パーセントのひょろひょろだしマゲも結っていない!」
なんだか青い軌跡を描く強そうな張り手をいくらか繰り出したのだが、ヒット時の効果音がなんだか鈍く、ガードされているのだとすぐ分かった。攻撃後の隙をチャイナが蹂躙して、吹っ飛ばされたぼくは死んでいた。
「鈍いとことか、人の心にっ」
ラウンド2。ぼくはなるほどなんて思いつつ悔しさに歯噛みして、チャイナの先制攻撃をさっき憶えたコマンドでガードする。その直後、力士が「うおりゃあ」とか言ってチャイナを地面にはたき落した。ルナのHPが、スポーツ直後に水分補給をしたときのペットボトルの中身みたいに一気に減って、
「スキありっ!」
喜んでいるところをいつの間にかチャイナの連撃のさなかにいる。
「ああもうくそっ、で、なんだよ、鈍い以外に何かっ?」
「……むかし、うちのテレビでバーチャファイター、やってたの憶えてる?」
「えっ? あっ、」
画面内の視点が大きく変わり、力士の背中に回り込んだチャイナがその巨体を軽々と投げ飛ばした。これでぼくはかなりの大ダメージを負う。ペットボトルならあと一口分。
でもチャイナはそこで動きを止め、これ以上の追い打ちをかけることをしなかった。ぼくの力士も、張り手を一発くらわせたところでそれに合わせる。
「……なんとなく、憶えてる。親父の持ってたやつだよな?」
「うん。……その時のバーチャファイターにもね、この力士、『タカアラシ』っていうんだけど、そいつはいて、カイはそのタカアラシばっかり使ってたんだよ?」
「そう、だったっけ」何で人は大切な思い出すら忘れてしまうんだろう。うなずいてやれない自分が、嫌になる。
「でもね、しばらくの間タカアラシはバーチャファイターシリーズから姿を消したの。そのときのシリーズがたしか3で、……まあとにかく、いなくなっちゃったんだ。タカアラシは。だけど、この筐体で、やっと再登場を果たした」
「へえー。それは、知らなかった」
そこでつっかえ気味のルナの語りが止まる。なおも動かぬチャイナ娘に、ぼくはちょっかいを出すように単発の攻撃をちょいちょいと繰り出した。ちょっとずつ減っていくゲージが自分と同じギリギリのラインになると、ぼくは攻撃を止める。どうしたんだろうと思ってふいに隣を見ると、ルナは――
ぐずっ、と鼻をすする音が聞こえた。ぼくは思わず、
「どっ、どうしたんだよ」
「なんでもない」ルナは顔をさっと背け、
「いやっ、なんでもなく」
「なんでもないっ」
ルナが何か拭い去ろうとするようにぶんぶんと頭を振ると、パネルに涙の雫が降りかかるのが光って見えた。明らかになんでもなくない潤んだ声に、ぼくは慌ててスティックから手を離しルナに取りつく。
「ごめん、攻撃はっ、したらダメだったか……」
「そうじゃないっ、カイは、別に悪くないよ、悪いのはっ……わたしなの」
ぎゅっとつぶった目から涙がしみだして、ルナはパネルのスティックをぎゅっと握ったまま、その泣き顔を隠すようにかがみこんだ。肩にかかっていた長い髪がなだれるように垂れ下がって、毛先が床の上で広がる。
「わたし、さっき横断歩道のとこで、カイに、ひどいこと言っちゃったよね? だってカイ、私が言ったあと、ものすごい、悲しそうな顔してた……、カイはっ、なにも悪くないのに、わたしが、わたしだけがっ、わがままばっかり言って……」
涙に溺れているような苦しそうな声に、ぼくの心まで絞られ痛くなる。だけどそのとき、ぼくはまたあの「やさしい気持ち」が染み出すのを静かに感じていた。それは涙のようにこみあげてくるけど、けっして苦しくなんかなくて、とてもあたたかい。
いつの間にかルナの丸めた背中にそっと手のひらを乗せていた。ミルフィーユのように薄く重ねられた衣服の向こうに、ルナの背中があたたかく、感じられる。
「……ぼくがひどいことをしたから、ルナは今まで、いろいろわがまま言ってきたんだろ? だから、ルナだってべつに悪くないよ。それにぼくはルナの兄で家族なんだから、わがままだってなんだって、そこは受け入れてやるからさ」
「なんでっ、なんで家族ってだけでそんなに優しくできるのよ、わたしはお母さんに、カイにだって、いろいろひどいこと言ってるのに……」
「……なんで、なんだろうなあ」ぼくは少し考えてみる。この気持ちの正体を。「ぼくはたぶん、やりたいことをやってるだけだよ。ルナのわがままを聞いてやるのが、ぼくのやりたいことだから、聞いてるだけだ。だから……ぼくは鈍いだろ? ルナの気持ちなんて考えず、自分の好きにやっていたから、服屋のときも母さんについて訊いたことも、失敗した。あれはぼくが悪いんだ。ルナを喜ばせたいって想いを抑えきれなかった、ぼくの責任だ。だからこれが最後の自分勝手にするよ。つまりぼくは、ルナの泣いてる顔なんて見たくない。笑ってほしいんだよ、」
そうだ、ルナの笑顔を見たとき、ぼくは思ったんだ。この笑顔さえ見れたら、自分の今までしてきた苦労なんて一気に吹き飛んでしまう。幸せな気分になれる。
「ルナと母さんとの間にどんないざこざがあったのかは分からない。ぼくも、そこに無粋に立ち入ったりは、もうしない。でも、自分の笑顔を求めているバカがここにいることを、時々思い出してやってくれ。そのバカはルナの笑顔のためだったらなんだってするから。自分が笑顔になりたかったら、いつでも言ってくれよ。頼むから……」
ルナはすすり泣きをいっそう強めたり、弱めたりしながら黙っている。しゃくりあげるたびにびくりとかたくなる背中。想いが届いているか分からないけど、ぼくは息を継いで言葉を続ける。
「たしかにぼくは、ずっと忘れていた。ルナのことも、母さんのことも。連絡することなんて思い当たらなかった。会うことなんて、もう無理だと思ってたんだ。でもっ……こうやって、想いだけはずっと変わらなかった。だってルナがレストランから逃げ出そうとしたとき、ぼくの身体は勝手に動いたんだ。信じられないことだと思うかもしれないけど、でも、実際ぼくは追いかけて、今じゃこうやってルナと遊んでるだろ?」
わずかだけど、ルナは背中を起こすような動きを見せて、こちらに顔を向けかけた。ぼくの手に伝わっていた嗚咽の小さな震えは静まり、それを元気づけるようにぼくはルナの背中をぽんぽんと叩く。
「……信じてくれ。これまでだってこれからだって、ぼくは変わらず、ルナのお兄ちゃんだ」
ぼくは最初何が起こったか分からなかった。気が付けばルナはスティックを握る手を離していて、背中にのっけていたぼくの手のひらに、冷たいものが重ねられていた。
――ルナの手。冷たくてか細い指が、ぼくの指の間へためらいがちに潜りこんでゆく。最初はひやっとしていたけど、だんだん温度を持ち始めた、ほんとうはやさしくてやわらかい感触。ぼくの手と重ねてみると、その小ささや色の白さが、いっそう際立って見えた。
ルナが身体を起こしてゆくにつれその手はいつの間にか離れてしまったけど、その感触だけはずっと、パネルに手を乗せかけなおしたあとも、まるでまだそこにあるみたいに残っていた。
その白い手で崩れた髪を整えるルナを見ながら、
「ってか、ゲーセンで何やらせてんだよ。そんでけろっと泣き止んでやがるし」
苦し紛れにスティックをぐちゃぐちゃに動かす。ほんとに何やってるんだぼくたちは。周りにいっぱい人がいるのに、その上誰にも気にされないからこそ痛い。今すぐここから逃げ出したい気分だ。
「だって、嬉しかったんだもん。ドラマみたいだったよ。カイのセリフ」
「うっせぇーいわーい」
さっとぼくは筐体の方へ向き直った。「さっさとバトル終わらせましょうぜ」
さあて、とぼくはスティックをいじるのをやめ、挙動不審みたいにガクガク動いていたタカアラシが止まったところを――チャイナ娘がすばやい動作で蹴り飛ばして、ぼくはKOを決められた。
「はいおわりー」
「ああっ、ちょっとぐらい待ってやってくれたっていいじゃないか」
「だいじょうぶだいじょうぶ、あと1ラウンド残ってるから」
こっちの負け戦前提かよ。まあいいだろう。ならばこっちが勝ってやればいいというだけのこと。ラウンド3が始まり、ぼくは前回のラウンドで学んだ投げ技を繰り出してやった。タカアラシがチャイナを恋人みたいにぎゅっと抱きかかえ、かと思ったら「せいやっ」と地面に叩き落す。
「やめてよ変態」
「ふはははは、タカアラシさんの暴走が止まらないぜッ」
力士がチャイナに抱き着くそのモーションがなんだか変態的で可笑しくて、ぼくは投げ技を何度も何度もかけようとするんだけど、すばやい動きと攻撃がそれを阻んでくる。
「逃がさんぞ小娘ぇーうへへへへー」
「どっかいけストーカーっ!」
「ぐはぁっ」
蹴りで吹き飛ばされるタカアラシは、どこか嬉しがっているようにも見えなくもない。画面の中は、求愛する力士とそれから逃げるチャイナ娘のコメディみたいな様相と化していた。
「そういえばさ、」
「うん?」と応えるルナの方へ、一瞬だけ横目をやる。ルナは真剣な顔をして、今にも画面の中へ吸い込まれていきそうだった。
「タカアラシの話とちゅうで止まったじゃん、あれ一体なんだったの」
「あっ、あれはもう……、どーだっていいでしょ」
「えーっ、お兄ちゃんききたいなー、あれだけさんざん照れくさい話させられたのになー」
「うりゃっ、」とやけくそに放たれた蹴りをぼくは軽々ガードする。その隙をはたき落して、倒れたチャイナに幾度となく張り手をかましてやった。二者のHPが同じくらいになる。ぼくは、あと1コンボでやられてしまうというところだろうか。
「あれはつまり……私はタカアラシが、好きだってことよ」
「うわわっ、ゲテモノ趣味だったのかよルナ」
ルナは何も答えず、タカアラシの大仰な攻撃のあとの隙を鋭い攻撃で刺して、
「……ほんと、ゲテモノ趣味だよね」
ぼくがルナとの会話に集中していないと聞こえなかったようなか細い声で言い終えたあとには、ぼくのタカアラシは場外に吹っ飛ばされて死んでいた。リプレイでチャイナが華麗な足技をお見舞いするのが繰り返されてようやく事態に気づき、ぼくは「うわああ」とのけぞる。チャイナが決めポーズで何かセリフを吐くのと同時に、
「へっへー、わたしの勝ちーっ」
そんな嬉しそうな声が聞こえて、ぼくは隣の席を見る。今まで不機嫌顔が凍りついてしまったようになっていたルナの表情は、ぼくの方を向いて、満面の笑みを咲かせていた。その笑顔は、こんな時が永遠に続いたらいいのにな、なんて本気で思ってしまうほどにぼくを幸せにさせてくれて、
ぼくは思わず自動ドアの方を見やって外の様子を見る。あたたかそうな陽射しが、アスファルトの黒灰色を明るく染めていた。春特有の霞んだ青色がビルの隙間から少しかいま見え――、
今日一日に終わりの来ることが一瞬だけ頭によぎって、考えたくないから考えないことにした。