再会 (田舎⇒高級レストラン⇒)
「絆」という言葉はたいていの場合良い意味に使われるけど、物事には何でも裏と表があるらしく――絆の場合、裏の意味は「束縛するもの」なんだそうだ。
両親の「絆」としてあったぼくとルナの存在は、突然の離婚でまっ二つに引き裂かれてしまった。
もう、何年前の話になるんだろうか。この春に中学を卒業して、あのころはまだ小学三年生だったから――約七年前。両親の関係が自分たちのおかげでかろうじて保たれていたなんてこと、あのころのぼくたちは知る由もなかった。
そして、よく分からない間に、別々の生活が始まっていた。
ある日目覚めると、ルナと母さんが姿を消していて――と、まさにこんな感じだった気がする。はじめはさすがにいろいろと親父を困らせたみたいだけど、いつの間にかぼくは双子の妹のいない毎日に慣れていた。
今では古びたアルバムに残る写真だけが、ぼくとルナがかつて兄妹だったという、確かな証拠だ。
だから今日も、嬉しいとか楽しみなんてポジティブな気分にはどうしてもなれないのだった。
数日前、いきなり「母さんたちに会いに行くぞ」と親父に言われたとき、ぼくの胸の中にわいてきたのは――正直にいうと、困惑ばかりだった。
それも、どちらかというと不安材料ばかりがミクサーされた、負のオーラの強い困惑だ。今ぼくがおかれているこの状況だって、旧い知り合いに会いに行くというよりは、転校先の見慣れぬ土地へ向かっているような感じなのだ。ルナの住む街へかけての二時間半、親父の運転する車の助手席で、ぼくはバクバクと鳴る心臓を抑えようとしてばかりいた。
窓ガラスの向こうの景色はびゅんびゅん過ぎ去っていく。故郷の見慣れた田園風景を駆け抜け、高速道路に乗ったかと思えばいつの間にか知らない土地で車の列に巻き込まれている。
ビルの狭間にある駐車場に車を止めて、ドアを開いたら匂いだけでそこが都会なのだと分かった。田舎には、別段目立った匂いがないのだ。故郷からほとんど出たことがないぼくにとって、都会とは匂いのある場所だった。食べ物と香水と煙と、いろいろなものが混じった匂い。
待ち合わせ場所は、駅近くの高層ビル内にある、とある高級レストランだった。
「な、なーにビビってんだ息子よ、はやくっ、俺の屍をこえていけっ」
「入る前に死んでんじゃねえよ。早く行ってよ、お前いちおー保護者だろ」
タキシードでも着てくれば良かった、なんて本気で思ってしまった。エレベーターがぼくと親父だけを乗せて滞りなくスイスイのぼっていった先は、ワインレッドのカーペットが広がる――少なくとも、「ファッションセンターしまむら」を着てきてはいけない場所だった。いや、今日のために高級なファッションセンターしまむらを買って、今日はそれを着てきているんだけど、ファッションセンターしまむらという時点でどうも太刀打ちできそうにない。
ちなみに、親父はコンバースのTシャツだ。
そしてここは、まだロビーでしかないようだった。すぐ近くにレストランの入口らしき門があり、その門前に執事っぽい人が立っている。その上、うっすらとバイオリンの生演奏らしき音が店内から聞こえてくるのだ。田舎者のぼくたちは、恐怖に打ちひしがれるばかりだった。
「ほんとどうすんだよこれ、絶対あの店員さんぼくたちのこと見てるって」
ぼくが小声で言うと、
「不審者だと思われてないかな、いやもう不審者でいい、もう俺追い払われたい」
どうしようもなく頼りにならない保護者である。図体だけは熊みたいにでかいくせして。
「あの、お客様」
背後から声が聞こえるとぼくたちは瞬時に気をつけして、かくかくと門の方へ向き直った。執事っぽい人は、タキシードを着てにこやかだった。
「ヴォ、ヴォジョジョレー・ヌーボぉでええっ!」
「まだ早いわ」とぼくは親父のふくらはぎを蹴りつける。すると執事さんはけっこう豪快に笑ってから、
「いやあウチの店長、すぐこんな偉そうな格好させますからねえ、そりゃあ緊張させちゃいますよねえ」
と気軽に話しかけてくれた。ものすごく人の良さそうな方である。ぼくたちはようやくそこで、少しだけ緊張を解くことができた。
「予約していた、マツダと申しますんですが」
しばらくの世間話のあと親父が切り出して、ぼくたちは案内のお姉さんのお尻を追いかけ席へ向かうことになった。ワインレッドのカーペットはロビーと地続きで、レストラン内は濃いオレンジの灯りに満たされた、少し薄暗い空間だった。とりあえず昼間だとは思えない。外界の光はすっかり閉ざされ、ここはどこか、異国の晩餐会場みたいだ。肉の焼ける上品な匂いが食欲をそそる。
小学校の体育館ほどの広さの端から端を移動する間、ぼくはこの高級感とはまた別の緊張と戦っていた。むしろそっちの方が大きくて、たぶん親父も同じなんだと思う。
――今から、「むかし家族だった人」たちと会わなければならない。
ルナと母さんは、どうやら先に来ているらしかった。「奥様方が先にお越しのようですね」と執事さんが名簿を確認しながら言った時、一気にその緊張がのしかかってきたように思う。後から来るより待ってやった方が楽だと思って早めに家を出たのに――母さんたちの方が、一枚も二枚も上手だったらしい。平気でこんな高級レストランを予約してしまう、あちらさんの経済状況から鑑みても分かるように。
「マツダ様、こちらの十九番テーブルになります」
ぼくたち「三木」とは違う苗字の呼び声に、ぼくはカーペットのワインレッドから目線を上げた。女の人が二人、やけに背もたれの長い椅子に腰かけていた。お姉さんはその片側――黒いスーツ姿の女の人に予約の確認をとる。どちらもキビキビとした応対で、見ているこちらが思わず身体を固くしてしまう。
「ではあと二、三分でご予約いただいていたコースを届けさせます。何かございましたら、ご気軽にお声掛けください。それでは、ごゆっくりと当店での時をお過ごしくださいませ」
そう丁寧に言って、お姉さんは去っていった。ぼくはその気配をなんとなく耳で追う、
「いつまでぼーっと突っ立ってんのあんたら。こっちまで恥ずかしくなるんだから、はいっ、とっとと座るッ」
そのとんがった姉御肌な口調で、やっと「女の人」が「母さん」につながった。長い髪をひっつめた、ビジネスウーマンみたいに隙のない印象は、記憶の中の母さんとはあまりにも別人だったのだ。そしてその隣の席に腰かける女の子は、
――ほんとうに、ぼくの妹だったのだろうか。恐ろしく長い髪をした女の子は、視線をぼくたちに合わせようとしないまま、ステージで演奏されているバイオリンの音色に夢中になっている風でもなく、苛立たしそうにどこかを睨んでいた。そして――、
「トイレ」
硝子の破片のような声。ガタンと威嚇するように音をたてて席を立つ。母さんが制止しかけるも、それには一目もくれない。黒いレース模様のリボンでくくったツインテール。ドレスみたいに豪勢なワンピースのロングスカートが、細い髪の先といっしょに揺れる。靴底が威勢のいい歩調を刻み、女の子はぼくのすぐ横をすれ違って、
「服、ダッサ」
そんな言葉を、攻撃的な視線の一瞥といっしょに浴びせてきたのだった。それに対して、ぼくは何一つ反論することができない。
実はぼくもトイレに行きたかったんだけど、そういうこともあってガマンすることにした。
*
料理は、ものすごく美味しかったと思う。
あっという間に口の中で溶けたりする肉とか、テレビを見てるときよくそんなコメントを聞いて「大げさだなー」なんて思ってたけど、本当にそうとしか言いようがない味だったこともよく憶えている。たかがサラダに口の中が唾液で満ちたのも初めてだった。料理長を呼んで褒め称えてやってもいい。
というか呼んできて、この気まずい雰囲気をどうにかしてほしいとばかり考えていた。
食事会中の会話の内容など、ぼくはほとんど憶えていない。料理のことしか語れないのは、料理のことしか考えたくなかったからだろう。
印象だけでいうと、「元」家族の会話は空気の抜けたボールみたいに全然弾まなかった。それでも、しっかり者の母さんが何とか弾ませようと頑張っている場面もあったのだが、そんな努力はルナが軽い舌打ちや「うっさい」という鋭い声でことごとく叩き割っていった。そういう態度を母さんが注意するとルナは再び無視を発動するし、ぼくに対しては気まぐれに小言を吐きつけてくるし、もうドえらい目にあったとしか言いようがない。料理を運んできてくれる紳士淑女な店員さんも、ぼくらのテーブルを訪れるときはさすがに笑顔がぎこちなくなっていたような気がする。
ちなみに親父はというと、緊張のせいか周りの様子ばかり気にして、母さんの言葉にもあいまいな相づちを打つだけだった。まあ、ぼくだって料理に集中することによってこの気まずさを必死で抑えようとしていたんだから、人のことはあまり言えないけど。
でも、ルナに対しては文句の一つや二つ、いや、いくら言っても言い足りないほど言ってもよかったんじゃないだろうか。それでもガマンしてやっていたのは、ルナがトイレへ行っている間に、母さんがこんなことを願い出たからだった。
「お願いッ。今日だけは、あんたがあの子のワガママ聞いてやってくれない? いっつも不自由な思いばっかりさせて、ちょっと気が立ってるのよ。いろいろ迷惑かけるだろうけどさ、」
――今日一日、お兄ちゃんに戻った気分でっ。
プライドの高そうな母さんが手を合わせて、頭まで下げていた。なぜか親父までいっしょになって、ぼくに頭を下げている。
そこまでされたら、ぼくだって大人しく言うことに従うしかなかった。
一日お兄ちゃん。なんだか「一日警察署長」みたいなノリだけど、これでもむかしは毎日毎日「お兄ちゃん」をやっていたはずなのだ。その感じを思い出せば、なんとかなるはず。
そういうわけで、ぼくは今日一日をお兄ちゃんとして過ごすことを決意させられたのだが、
お兄ちゃんというよりはストレスの吐き溜めみたいな役割を果たしただけで、食事会は終わっていく。目の前にはデザートのアイスが置かれ、それをいち早く食べ終わってしまったぼくのできることといえば、みんなが食べ終わるのを、ただ無言で待っているだけだった。
そしてそんな任務も、今まさに済んでしまおうとしている。一日おにいちゃんって、こんなもんでいいのだろうか。母さんは最後のひと口をぺろりと飲みこむと、お冷で口を少し湿してから
「さーて、」
今日はこれでお開きか。というか、一体何のための食事会だったのだろうか、
「私とお父さんはー、これからちょっとおデートをしまーすっ」
「は?」
と思わず声をあげたのはぼくだけで、
「あら、父さん言ってなかった? もーう、相変わらず恥ずかしがり屋さんなんだから、今日はそれがメインイベントなのよー? というわけで、あんたたちジャマだから、兄妹二人で久しぶりに遊んでなさいな」
「なんでそんな勝手なマネすんのよ」
一際大きなルナの声だった。絶え間なく続いていたバイオリンの演奏が、一瞬歪んで途切れかけるほどの。
「大きなお世話、ありがた迷惑なのよ! お母さんのすることはいつだって!」
レストラン内にさっと静寂が通り過ぎて行って、次の瞬間、母さんの甲高い叱声と椅子の倒れる音が絡まった。
「ルナ! 待って! ルナッ!」
追いすがるような母さんの声。ルナの姿がまたぼくの隣を通りすぎていく。風のように。駆け足の音が背後へ消えていくのを、ぼくは黙って聞いているわけにはいかなかった。
――今日一日、ぼくはおにいちゃんなのだ。
いや、実際はそう思う間もなく、衝動的に、思い切りカーペットを蹴っていた。騒然とする人々のざわめきをかき分けて走る。料理を運んでいたお姉さんとぶつかりそうになって、後ろで硝子の弾ける音がしなかったのを安心する。
「ルナ!」
駆けてゆく女の子の後ろ姿に、ぼくはその名前を呼んだ。目を丸くしたカウンターの店員を横目にすると、すぐさま薄暗い空間が晴れる。エレベーターが、到着を合図する高い音をたてて扉が開くのが見えた。ルナはそこから出てくる団体客をかきわけ
「お客様ッ、周りのお客様のご迷惑に……」
入り口に立っていた執事店員がぼくの腕を掴んだ。ぼくは苛立つ。重い荷物のようにへばりついてくる強い力。「放してください!」と叫ぶと、ルナの方をいぶかしげに睨んでいた団体客がいっせいにこちらを見た。その向こうで――ぼくの手があと二メートル伸びれば届きそうなほど近くで、ルナの姿はエレベーターの中へすっと吸い込まれていく、
直前にふっと、執事さんの力が弱くなった。そのはずみの勢いでぼくは団体の塊に突っ込み、閉まろうとしていた扉の隙間へ転がり込んだ。
どっかのおっさんの強烈ながなり声が障壁に閉ざされたように聞こえなくなる。どこをどうぶつけたのだろうか、背中のあたりとむこうずねの強い痛みにもだえながら、ぼくはむっくり身体を起こした。
「カイっ、」
箱の隅っこでおびえきっているルナの姿を目にして、ぼくは自分がエレベーターの中にいることに気づいたのだった。いろんな緊張から解き放たれて、ひとつ、大きな息をつく。
「……やーっと名前を呼んでくれたか。もう、ぼくのことなんて忘れてるのかと思った」
「どうして……」
ドキリとした。薄暗いレストラン内では全く気付かなかった。ルナは、ものすごく肌が白かった。透き通った目を潤ませて、こちらをじっと見上げている。ありがちなたとえだけど、その服装も相まって、お姫様としかいいようがなかった。本の中から転がり出てきたお姫様が、よく分からない状況に怯えているみたいだった。
ぼくは、そっと微笑んでやる。なんとなく、ルナが妹だったころの感じを思いだす。やさしい気持ちが、心の中から溢れてだしてきたみたいだった。そして、ぼくはたまらず言ったのだ。
「ルナと、いっしょに遊びたかったからだよ」
ルナは耳にパチンコ玉でも突き刺さったみたいに一瞬固まってから、視線をさっとそらした。
「……ばっかみたい」
たしかにそれはバカみたいな言葉だったと思う。言い終わってから、ぼくは無性な恥ずかしさにさいなまれる。まあでも、周りの迷惑を顧みずここまで追いかけてきたぼくは、ルナの言う通りバカなのに違いない。