猿
新学期初日。終礼が終わるとそれまでの緊張の反動か、どっと教室中が騒がしくなった。群れた蛙、菓子を食い散らす鹿、そのカスを狙う鼠、どこを見ているのかわからない馬。どいつもこいつも馬鹿みたいになまけたままだ。
「ねぇ達也君、聞いてる?」
視界の端から顔を覗かせた羊は、不気味な横長の瞳孔で不満気に問いただしてきた。こいつも他のやつと一緒。1年の頃は特段仲が良かったって訳でもないのに、新しいクラスで席が隣だったからって、環境が変わる度に始まるこのラットレースを出し抜く為に擦り寄ってきた吉住だ。
「悪い、周りがうるさくって」
「だからカラオケ行くか?って、なんか春樹君達がみんな集めて親睦会って言ってたよ」
「親睦会って、明日も学校だろ」
「え、行かないの?」
「興味は無いかな」
「頼むよ!僕このクラスに友達達也君しかいないんだよぉ!」
「そーゆー奴の為の懇親会だろ?」
「いや1人じゃ心細いよぉ!」
何年前だったか。小学生の夏だった気がする。自分以外の顔が動物になった。何故か?自分でも分からない。でも別に生活に支障はないし、仮にあっても治し方も分からないし。初めは気味悪くも感じたが、もう慣れた。元々人の顔を覚えるのは得意な方じゃ無かったし、そういう意味では覚えやすくて好都合だし、放っておけばいつか治るだろうと楽観視していたが、高校生になっても治ることはなかった。
結局押し流されるまま親睦会とやらに来たのは良いものの、想定通りというべきか、ソファの角席でスマホを眺めるくらいしかすることがなくなった。大人数用に用意された大部屋で、皆誰とはなく騒いでいるのに、俺たちはというとさながら床の間の掛け軸のように部屋の一部に溶け込んでいた。
「吉住。お前はせめて誰かと話して来いよ」
「え、いやぁハードル高いよ」
「でもそのために来たんだろ?」
「いやぁやっぱり僕は達也君が居るしいいかな」
「じゃ何のために来たんだよ」
悪態をつきながら薄い白ブドウをストローで吸い上げ、再生リストの中から当たり障りのなさそうなモノを探し画面をスワイプし続ける。こういう時にメジャーな曲を没個性的だと毛嫌いしていたツケが大きく響いてくる。
「えーっとぉ!じゃーそろそろお開きでぇ!」
「春樹!次やっぱ焼肉にしようぜ!」
「は?サッカーって話は?」
「壮馬が腹減ったってさ」!
獅子の周りに集るハイエナは、自分たちが上位の集団に混ざったことを誇示するように、必要以上に声高だ。二次会への移行という振るいに俺たちは当然耐えられるわけもなく、幹事に言われるがまま紙幣を三枚預けて外に逃げ去った。
「やっぱり背伸びはするもんじゃなかったよ、付き合わせてごめん」
「だから言ったろ?無駄だって」
「いや、完全に無駄ってわけでもなかったよ?」
「なんか収穫あったのか?」
「達也とは結構仲良くなれた気がする」
「俺しかいなかっただけだろ」
「それでもいいじゃん」
吉住は軽く口角を上げて、不気味に離れた両目で平和ボケした被食者の面をよく表している。
カラオケ屋の前に続々と出てくるクラスメイトは、もう完全にグループ分けが済んでいて、雑多な動物が大量に群れる光景に、つくづく人間とは群れで生きる生物なんだと実感する。どいつもこいつも卑しい顔で、他人のおこぼれや甘い蜜を今か今かと待ちわびるだけの野生動物だ。
少なくともその瞬間までは、そう思っていた。
しかしそこにいたのは紛れもない人間だった。
久しく見ていなかった自分以外の人間に動揺しつつ、その屈託のなさに目を引かれた。長く伸びた黒髪は日暮れ前の風でサラリと靡き、どこか申し訳なさそうな顔で優しく笑う目元は柔らかく綻んでいた。
「ねぇ、そこで黙んないでよ!恥ずかしくなってくるじゃん!」
「え?あぁすまん」
「達也君ってよく自分の世界に入るよね」
「そうかな。そんなことなくない?」
「あるよ、何考えてるの?」
「いや、あの子」
「あの子って、芹沢さんのこと?え、達也君あーゆーのがタイプなんだ!女子に興味ないって思ってた!」
「は?そんなんじゃねぇよ!ちょっと目に入っただけだ」
「まあかわいいよね、芹沢さん。僕もそこまで詳しいわけじゃないけど、頭もいいし結構人気だよ?なかなか厳しいんじゃない?」
「だからそんなんじゃねぇって、まともに見えただけだ」
「なにそれ、ほかの子がまともじゃないみたいに」
「まともじゃないだろ、みんなバカみたいな顔して」
「その周り見下すクセ、友達出来ないよ?」
「お前だっていないだろ」
「まぁね」
そんな話をしているうちに、芹沢さんはクラスメイトの誘いを名残惜しそうに断って、手を振り歩き始めてしまった。
声をかけようか。「みんなは動物に見えるんですけどあなたは人に見えます」って?変人の烙印を押されて終わりだ。
「帰っちゃうみたいだけどいいの?声かけなくて」
「いいよ、話すこともないし」
「ビビってるだけのくせに」
「お前が言うな」
結局その日は何事もなく解散した。しかしそれからというもの、教室にいるといつも彼女が目に映る。気になっているわけじゃない。ただ動物に合紛れて普通の人間がいるのが目立つのだ。そのせいで授業中も休み時間もこうして惰性で残っているだけの放課後の教室でも、気付けば彼女を目で追っているような気がする。
「いい加減声くらいかけたら?」
「は?誰に?」
「芹沢さんだよわかってるでしょ?」
「どういう意味だよ」
「そろそろ僕以外にも気づかれるよ、ずっと見てること」
「そんなに見てねぇだろ」
「見てるよ。お陰で僕の話は最近いつも聞き流し気味だし、いい迷惑さ」
「それはすまん、気を付ける」
「いいんだけどさ、でもあんまり気になるようなら僕が声かけてみようか? 」
「いや、それはいいよ申し訳ないし」
「一つ確認したいんだけどさ、彼女のこと好きなの?」
「それは違う……と思う。すごく惹かれるし、こんなに他人が気がかりなのは初めてだ。けど、彼女のこと何も知らないのに、好きになんかならないとも思う」
「なるほどね。ここで一個、朗報があるんだけど聞くかい?」
「もったいぶるなよ」
「釣れないなぁ。さっき廊下でさ、科学の菱田先生にプリントの返却忘れてたから科学室に取りに来てくれって言われたんだ」
「まさかゆすってパシろうってんじゃねえだろうな」
「いいから最後まで聞けって。それとついでに芹沢さんも呼んでくれって言ってたんだ」
「なんだそれ、自慢かよ」
「だけど僕は今から、急用ですぐにでも帰らなくちゃならなくなる。だから科学室には代わりに頼んだよ」
「は?代わりって芹沢さんと二人で?!それはちょっと待て!」
吉住は制止を無いもののように芹沢さんのほうへと歩いて行った。友人ら何人かと話していた芹沢さんは、吉住に一瞬驚いた様子を見せたが、その丸い目で不思議そうな顔を作りながらこっちに近づいてきた。
まずい。
心の準備ができてない。
何話すんだよ。
やばい可愛い。
ていうかアイツ人見知りじゃなかったのかよ。
自己紹介か?
いやまずなんて言って連れて来たんだ?
やばいテンパってると思われたらまずい。
「晴也君だよね?用って何かな?」
「え!いや、俺?っていうか科学の菱田先生がせ、芹沢さんのこと呼んでて、僕もあのバカの代わりに行かなくちゃいけないから科学室に行こうって話で……」
やばい呂律が不自然だ。吉住は、相変わらず読めない不気味な瞳でニタリと笑って手を振りながら教室を出て行った。クソ、あいつ絶対許さねえ。これで俺が芹沢さんに変に思われたらどうすんだよ!
「なるほどね、吉住君もそれならそうって言ってくれればよかったのに」
「ほんとだよな!あいつ急いでるからって説明もろくにしなかったのかよ!」
「じゃ、行こ?」
「え?」
「ん?科学室行くんじゃないの?」
「あぁ!そうだよ!行こう行こう!」
なんだこれ。ただ一緒に歩いてるだけでなんでこんなに動悸がするんだ。なんてことはない廊下を歩いてるだけだ。ただちょっといつもより狭くて、ちょっといい匂いがして、あぁ細身だから気が付かなかったけど、意外と身長低いんだな。
「話すの初めてだよね?」
「うん!一年はB組だったからね」
「そうなんだ!じゃあ綾香ちゃんとか知ってる?」
「あー知ってる知ってる。サッカー部の子!だよね?」
「そうそうポニテの子!家が近くて小学校から一緒なんだ」
どうしようめちゃくちゃ可愛い。よく伸びた声と髪は凛とした印象を与えてくるのに、その動作の一つ一つがかわいらしい。科学室までは5分くらいのはずなのに、もう10分以上経ったような、まだ1分もたっていないような。とにかくヘンな気分だ。
「吉住君と仲いいよね。ほんとは晴也君のことどんな人なんだろってちょっと気になってたんだよ?」
「へ?」
「だけどいっつも吉住君と二人っきりで話してるからなかなか割り込みにくくてさ」
「それはすみません……」
「いやいや、謝ることじゃないよ!あ、先生が呼んでること伝えてくれてありがとね!言い忘れるところだった」
「そんな、こっちこそ感謝されることじゃないよ」
お互いが頭を下げ合って、気まずいようで心地よいような、朗らかな空気になれていると思う。芹沢さんは、俺のことを気になってたらしい。吉住め、自分お手柄のように仲人ヅラをしていたが、あいつが居なきゃもっと早く仲良くなれてたんじゃないか?
「失礼します。菱田先生に呼ばれて、プリント貰いに来ました」
「あれ?吉住君は?」
「急用があってすぐに帰らないといけなかったみたいで、自分が代わりに」
「そうだったのか、悪いね雑用させて」
「いえいえこのくらい大丈夫ですよ。それと、芹沢さんも連れてきました」
「あぁそうだった。芹沢さん、今日授業で答えそびれたことだけどね…」
どうやら芹沢さんは、授業中にしていた質問について話すために呼ばれているようだった。真面目に話を聞いて理解しようと試行錯誤するその様は可憐でありながらも、時折難解な顔で首をかしげ愛らしさも漂わせていた。端整な姿と対照的な、煌びやかな筆記用具がより一層内面の無邪気さを表していて――
「あ、晴也君ごめん!待たせちゃった!」
「あぁいや、待ってないよ」
「待ってないって、15分も立ちっぱなしにさせちゃってるじゃん!」
「気にしないでよ、僕も科学苦手だから勉強になったし」
「せめて運ぶの手伝わせて!」
見惚れていた、なんて口が裂けても言えない。何とか動揺を堪えつつ、奪われたプリントの残りを教室まで運んだ。
授業が終わって間もなく30分が経過しようとしている教室には、もう誰も残っていなかった。科学室に向かう前までとは真逆のような静けさに、なんだかさっきよりも芹沢さんとの距離が近い気がして、鼓動が早まる。
「なんか教室がこんなに静かなの、ヘンな感じするね」
「さっきまで騒がしかったから余計にな」
おかしい。さっきまでは何とか会話できていたのに、なんだか自分の声が凄く大きく聞こえる。この時間が終わってしまう。何とかこの時間を続ける方法はないだろうか、あぁでも迷惑にもなりかねないし……
「あ、もう行かなきゃ!彼氏待たせちゃってるんだ!ごめんね!」
「え?あぁ、また明日」
「またね!」
――
まあそうだろうと思っていた。
実際あんなに可愛ければ彼氏くらい居るのが妥当だろう。
別に明確に好きだった訳でもないし。
彼氏がいたからって芹沢さんの価値が変動するわけでもない。
でもなぜか、心中には広がるのは落胆だった。
帰り道は長かった。
ずっと何かを考えていたような気がする。
でも同時に、何も考えていなかったような気もする。
ずっと長い道を歩いて歩いて、気が付けば家だった。
スマートフォンの通知音で我に返った。どうやら帰宅後、無気力さに任せてそのままベットに倒れていたらしい。スマートフォンの画面を見ると吉住だった。
「どうだった?仲良くなれた???」
「感謝して、明日からは僕のこと壮太って呼んでもいいよ!!」
全く無責任な奴だ。
「おーい」
「話くらい聞かせてくれてもいいだろ?」
「既読無視かよ」
それから2,3個の絵文字が送られてくると、ついにしびれを切らしたのか、着信音が鳴り響いた。
「なんだよ」
「なんだよじゃないよ、せっかく僕のおかげでチャンスができたってのにひとりじめ?」
「そーゆーわけじゃないけど」
「じゃーなんで教えてくんないのさ、もしかして全然仲良くなれなかった?」
「いや、仲は深まったよ。会話もかなり盛り上がった。」
「じゃあなんでさ?」
「なんでか俺にも……いや、分かる。芹沢さん、彼氏いたわ」
「あぁ……それは、ごめん」
「いや、お前が謝ることじゃねぇよ」
「無神経だった」
「別にそこまで気にしてねえよ。好きだったってわけでもないし」
「この後暇?」
「なんだよ急に」
「暇なら学校の近くにさ、気になってるごはん屋さんあるんだよ」
「そんな気分じゃ……」
「じゃあ校門前で待ってるから!」
都合よく着替えずにいた制服を軽く整えて、外に出た。普段なら放課後に外食なんてめったにしない。でも今日はなんだか気が向いた。というかこのまま家で寝ていると、自分が嫌いになりそうだった。
「達也!こっち!遅かったじゃん!」
「お前が早いんだよ」
吉沢の横長の瞳孔はいつもより少し和らいで見えた。
「え、ごはん屋さんって、ここ?」
「そうだよ?フレンチ嫌い?」
「いや、嫌いじゃないけど、こういう時の相場はファストフードか中華だろ」
「前から気になってたんだから仕方ないでしょ」
「好奇心と慰めを兼ねるなよ……」
吉住が案内してきたのは少し古びたフランス料理屋だった。料理名は小難しいし、客足はまばらでベラベラと会話できる雰囲気でもない。今の心情とはすさまじく合わないと思う。
でも、それがよかった。所謂「ラーメンでも食って忘れろよ!」ではない、ただ入ったことのない学校の近くの飯屋に入ってみたかっただけ。別に芹沢さんの話をするわけでもない。臭いセリフを言い合うわけでもない。それが本当によかった。
たかだか数日の、恋と呼んで良いのかすらも怪しいものだった。大げさに慰められても反応に困っていたと思う。でもこの時間が間違いなく心中のザラつきを流していった。
外に出ると日はすっかり傾き、さわやかな赤が辺りを包んでいた。見慣れた景色で、夕焼けに染まる姿だって何度か見たはずなのに、今日のそれは今までのどの景色よりも澄み渡って見えた。
「それにしたって残念だったね!まさか芹沢さんに彼氏がいたなんて」
「まぁあのルックスで彼氏がいないってほうが不自然だろ」
「それはそうだけどさ、僕ちょっと期待したんだよ」
「期待って、俺と芹沢さんが仲良くなってお前に何の得があるんだよ」
「だって達也って人に興味ないでしょ」
「は?そんなことねえよ」
「あるよ。いっつも人の一番表の面だけ見て知った気になってる」
「そいつが裏でどんな人間かなんて知りようないんだから仕方ないだろ」
「違うね、達也は知ろうとしてないから知れないんだよ。一回そういう人だって決めつけたらそこで完結してる」
「で、それの何がお前の得につながるんだ?」
「君が人に興味を持つようになれば、僕のもっといろんな部分を見てくれるようになるんじゃないかなって思ったんだよ。裏だけじゃなくって、いろんな面が合わさって一人の人間ができるんだから」
そう言い笑う吉住は、もう不気味な瞳孔を光らせたりなんかしていなかった。人間の目をつぶして笑い、人間の口で照れくさそうに笑っていた。ある種の感激と同時にずっと申し訳なくなった。
帰宅後もいろんな奴のことを考えた。先生、両親、去年同じクラスだった奴、思い返す程にこれまでが惜しく感じて、自分が如何に軽薄だったか実感した。写真を見返すと、どれもみんな人の顔をしていた。ただ一つの印象で相手を結論付けて、達観したような顔で、自分が心底愚かに感じた。
――
翌朝、洗面台に立つと一匹の猿が立っていた。




