第9話 王弟の賭け
善意のない協力関係は、実は一番信頼できる。
これは兄上——フリードリヒ兄上の宮廷で十九年を生きてきた僕の、ささやかな処世術だ。善意は変わる。恩義は忘れられる。だが利害は計算できる。計算できるものは信頼できる。
僕の名はルートヴィヒ。この国の第二王子で、王弟で、王位継承権第二位。実権はほぼない。兄上が即位すれば辺境に転封される可能性もある。
面白い立場だ。何もかもを失うか、あるいは——盤面が変わるか。
エレオノーラ嬢の計画に協力したのは、盤面を変えるためだ。
◇◇◇
夜会の翌日。王宮は静かに揺れていた。
表向きは平穏だ。婚約破棄の夜会は儀式通りに終わり、記録係の署名も揃い、書類上は何の問題もない。だが水面下では、波紋が広がっている。
王妃がイレーネ嬢を呼び出した。クラーラが集めた噂操作の証拠——侍女十二人の証言記録——について、王妃は怒っていた。「我が宮廷でこのような卑劣な工作が行われていたとは」。イレーネ嬢の社交界での信用は、今朝から目に見えて揺らぎ始めている。
小ざまぁ、というやつだ。エレオノーラ嬢ならそう呼ぶだろう。
そして——大ざまぁ。
宰相ハインリヒ閣下の周辺が騒がしい。「宰相が娘を政略の駒にした」という噂が、侍女ネットワーク経由で貴族社会に広まっている。噂の出所はクラーラだろう。あの侍女頭は情報操作の天才だ。イレーネ嬢より上かもしれない。
ハインリヒ閣下を支持する貴族たちが、一人、また一人と距離を置き始めた。「宰相は娘すら道具にする男だ」という評判は、信頼関係に亀裂を入れるには十分だ。
僕はその亀裂に、楔を打ち込む。
王室文書庫から引き出した婚約無効の先例を、議会の記録として正式に提出する手はずを整えた。直接的な攻撃ではない。ただ「こういう先例がありました」と公文書に載せるだけだ。だがそれだけで、ハインリヒ閣下の婚約締結が法的に不完全だったことが衆目に晒される。
盤面が、変わる。
……王族の食事は見た目だけは立派だ。今朝の朝食も、銀の皿に山盛りの果物と肉料理が並んでいた。味は普通だ。宰相邸の料理番——マティアスと言ったか——の黒パンの方がよほど美味い。一度だけ食べる機会があったが、あの焼き加減は王宮の厨房では出せない。
閑話休題。
◇◇◇
昼過ぎ、報せが来た。
ハインリヒ閣下がエレオノーラ嬢を訪ねたという。宰相邸の客間で、父と娘が向き合っている。
僕はその場にはいなかった。だが後からエレオノーラ嬢に聞いた話と、使用人から得た情報を重ね合わせれば、その場面は再現できる。
ハインリヒ閣下は椅子に座っていたそうだ。いつもの書斎の椅子ではなく、客間の——つまり、娘の領域の椅子に。
「お前のためだった」
閣下はそう言った。
エレオノーラ嬢は、何も答えなかった。
閣下が続けた。「母を亡くしてから、お前を守る方法はあれしかなかった。王太子妃の座は、この国で最も安全な場所だ。お前をそこに置くことが、父としての——」
エレオノーラ嬢は椅子から立ち上がった。
何も言わなかった。一言も。
使用人の証言によれば、嬢様は閣下の目を見なかったという。ただ静かに立ち上がり、ショールの裾を直し、背を向けて客間を出た。振り返らなかった。
扉を閉める音だけが残った。静かに、しかし確実に。蝶番がかすかに軋む音がしたという。閣下はしばらく客間の椅子に座ったまま動かなかったそうだ。
これについて、僕個人の意見を述べることは控える。父と娘の問題に、王弟が口を挟む立場ではない。
ただ——閣下の「お前のためだった」は、おそらく本心だったと思う。そして、エレオノーラ嬢が何も答えなかったのも、おそらく正しかった。
正しいことと優しいことは、いつも同じではない。これもまた、宮廷で学んだことの一つだ。
◇◇◇
夕方、エレオノーラ嬢と話す機会があった。
宰相邸の庭。冬枯れの薔薇の蔓が壁を這っている。彼女は外套を羽織っただけの軽装で、寒そうだった。目の下に隈がある。昨夜は眠れなかったのだろう。
「計画は成功しました。ルートヴィヒ殿下には、感謝しています」
「感謝はいいよ。僕は利害で動いただけだから」
「ええ。それが信頼できる理由です」
少し笑った。この人は笑うと目が細くなる。侍医のヴィクトルが言っていたが、怒るときも目が細くなるらしい。僕にはまだ区別がつかない。
「一つ、聞いてもいいかな」
「何でしょう」
「君の計画は成功した。婚約は解消された。父上との関係も——まあ、ああなった。で、これから何をするの」
エレオノーラ嬢は少し黙った。
「母の実家の領地に行こうと思います。小さな領地ですが、私の名義で残っています」
「一人で?」
「ええ」
僕は庭の冬薔薇を見た。枯れた蔓が風に揺れている。
「エレオノーラ嬢。一つだけ言っていいかな」
「何ですか」
「辺境伯の三男は、計画じゃなかっただろう?」
エレオノーラ嬢の肩が、小さく動いた。
僕は王弟だ。宮廷で十九年生きてきた。人の顔色を読むのは生存技術だ。あの辺境伯の三男が彼女を見る目は、最初から計算ではなかった。そしてエレオノーラ嬢が彼の名前を口にするときの声の温度は、他の共犯者の名前を口にするときとは違っていた。
「レオンは——偽装の恋人役です」
「うん。で、今も?」
エレオノーラ嬢は答えなかった。庭の枯れた蔓を見ていた。
僕はそれ以上は言わなかった。王弟として言えるのはここまでだ。あとは彼女の問題だ。
◇◇◇
夜。自室に戻って、窓から王都の灯りを見た。
エレオノーラ嬢は自由を手に入れた。だが自由は、一人で持つには重すぎるものだ。
僕もまた自由を求めている。兄上の影で生きる人生から抜け出すために、盤面を変えようとしている。その過程で、僕はエレオノーラ嬢の計画を利用した。彼女も僕を利用した。対等な取引だ。
でも、取引の向こう側で——僕は少し、彼女のことを尊敬している。
三年かけて計画を立て、計画が崩れても立て直し、父と向き合い、何も言わずに背を向けた。あの強さは、計算からは生まれない。
翌朝、宰相邸に一通の手紙が届いたと聞いた。
差出人は辺境伯領グリューネヴァルト。レオンの実家だ。
盤面が、また動く。
僕の賭けは終わった。勝ったか負けたかは、まだわからない。
あとは——あの二人の番だ。




