第7話 崩壊
父の使者が持ってきた手紙は、封蝋がまだ温かかった。
赤い蝋に押されたシュヴァルツハイムの紋章。鷲と百合。この紋章を見るたびに、鳥籠を連想するのは私だけだろうか。
手紙を開いた。
読み終えるまで、二十秒もかからなかった。それだけの時間で、三年の計画が瓦解した。
◇◇◇
内容はこうだ。
父が動いた。
フリードリヒ殿下に新しい取引を持ちかけたのだ。「イレーネとの関係を清算し、エレオノーラとの婚約を維持するならば、北方フェルゼン公爵領の統治権を与える」と。
北方領地。国境紛争を指揮して勝利した殿下にとって、最も欲しい報酬のはずだ。殿下は軍人だ。自分が勝ち取った土地を統治する権利には、政治的な利害を超えた感情的な価値がある。
フリードリヒ殿下がこの取引に乗れば、イレーネとの関係は清算される。殿下はエレオノーラとの婚約を維持する。そうなれば、断罪の夜会は開かれない。
三年かけた舞台が、上演前に幕を下ろされる。
手紙を持つ手が震えていた。指先が白い。爪が掌に食い込んでいる。
落ち着け。計算しろ。
——計算?
何を計算する? 父は私の計画に気づいていたのか。それとも、ただ「娘の婚約が危うい」と察知して先手を打っただけなのか。
どちらにしても、結果は同じだ。計画が崩れた。
◇◇◇
書斎の椅子に座ったまま、動けなかった。
窓の外は曇り空。冬の王都は灰色だ。宰相邸の書斎にはインクと封蝋の匂いが染みついている。幼い頃、この匂いの中で母の膝に頭を載せて本を読んだ。母が死んでからは、この匂いは父のものになった。
父のものだ。
この書斎も。この紋章も。この婚約も。全部、父が決めたもの。
私は計画を立てた。三年かけて、六人の共犯者を集めて、法的根拠を見つけて、証拠を揃えて、夜会の段取りを整えた。完璧だと思った。
でも父は——あの人は——私の計画より先に動いた。
なぜか。
計算上は、父の動機は政治的保身だ。宰相の娘が王太子妃の座を失えば、ハインリヒ派閥の求心力が低下する。だから婚約を守りに来た。合理的な判断。私なら同じことをする。盤面の駒を守るのは、棋士の当然の手だ。
でも、それだけだろうか。
手紙の文面を思い返す。事務的な内容の最後に、一行だけ手書きの追伸があった。宰相の公用書簡は通常、書記官が清書する。追伸を手書きにしたのは、書記官に見せたくなかったからだ。
『身体に気をつけなさい』
父の字だ。几帳面で硬い字。感情のない字。母が亡くなったときの弔辞と同じ筆跡。あの弔辞も、感情がなかった。——なかったのではなく、感情を入れたら書けなかったのだと、今なら思う。
◇◇◇
レオンが来た。
書斎の扉を叩く音。「入れ」と言うつもりだったのに、声が出なかった。レオンは返事を待たずに入ってきた。
「どうした。顔色が——」
「計画が崩壊しました」
一言で伝えた。レオンの表情が変わった。手紙の内容を説明する。声は平静だったと思う。たぶん。
「……お前の親父、先手を打ったのか」
「ええ。殿下に北方領地の統治権を条件に、イレーネとの関係清算を提案しました。殿下がこれに乗れば、断罪の夜会は——」
「開かれない」
「そうです」
レオンは黙って壁にもたれた。腕を組んで、天井を見た。
しばらく沈黙が続いた。暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。書斎の空気が重い。インクの匂いが、今日は特にきつく感じた。
「なあ」
レオンが言った。
「お前の父親は、お前のことが心配なんじゃないのか」
足元が揺れた気がした。
「……何ですか」
「手紙に追伸があっただろう。『身体に気をつけなさい』って。あれ、政治家が書く言葉か?」
やめてほしかった。
その話はやめてほしかった。
父の動機は政治的保身だ。そうでなければ困る。父が「愛情」で動いたのだとしたら、私の三年間の計算は——私が父を「冷徹な政治家」としか見ていなかったことは——。
「愛しているなら」
声が出た。自分の声だとわからなかった。
「愛しているなら、なぜ一度も聞いてくれなかったの」
敬語が、消えていた。
「私が何を望んでいるか、一度でも聞いた? 母が死んで、婚約を決めて、王太子妃の教育を受けさせて——全部、勝手に。全部、私に一言も聞かないで」
言葉が止まらなかった。
「愛しているからって——愛しているなら——」
文が途切れた。次の言葉が出なかった。比喩も皮肉も出ない。宰相の娘として身につけた言葉遣いが、全部剥がれ落ちていた。
目の前がぼやけた。涙だと気づくまでに数秒かかった。
三年で初めて泣いた。
◇◇◇
レオンは何も言わなかった。
しばらく黙って、それから言った。
「……水、飲むか」
その一言があまりにも的外れで、あまりにもレオンらしくて——私は泣きながら笑ってしまった。声が裏返った。笑いと涙が混ざって、自分でもどちらなのかわからなかった。
「あなた、本当にそれしか言えないのね」
「……悪い」
「いえ。いいえ、謝らないで」
鼻をすすった。格好悪い。宰相の娘が書斎で鼻をすすっている。計画の失敗で泣き、偽装の恋人に水を差し出されて笑っている。情けない。
でも——不思議と、楽になった。
泣いたのが恥ずかしいのではなく、泣ける場所があったことに驚いていた。三年間、誰の前でも泣かなかった。泣く暇がなかった。泣いたら計画が止まると思っていた。
レオンの前では、止まってしまった。
それが——一番の想定外だった。
◇◇◇
水を一口飲んだ。陶器の杯が冷たかった。
深呼吸をする。一回。二回。三回。
「計画を変えます」
声が出た。まだ少し震えていたが、出た。
「待っていても来ない夜会を、こちらから作ります」
レオンが壁からもたれるのをやめた。
「どうやって」
「フリードリヒ殿下に破棄させる計画は捨てます。代わりに、私の側から婚約の無効を宣言する。ナターリエが見つけた百年前の判例——婚約契約書に母の署名がない法的瑕疵を使います」
「……お前から、断つのか」
「ええ。誰かに捨てさせるのではなく、自分で」
レオンは少し黙って、それから頷いた。
「そっちの方が、お前らしい」
何がどう「私らしい」のか聞きたかったが、聞かなかった。
泣いたのは三年で初めてだった。
そして、あの人の前で泣けたのが、一番の想定外だった。
計算上は——もう、計算はいい。
窓の外で、風が鳴っていた。春はまだ遠い。




