第6話 辺境伯の三男
俺は嘘が下手だ。だから演技なんか引き受けるべきじゃなかった。
なのに引き受けた。理由は——面白そうだったから。
……本当にそれだけか?
知らねえよ。自分のことが一番わからない。辺境で馬の世話をしていた頃はこんなこと考えなかった。馬は単純だ。腹が減ったら鳴くし、嬉しければ尾を振る。人間はそうはいかない。
特に、あの女は。
◇◇◇
エレオノーラ・フォン・シュヴァルツハイム。
宰相の一人娘。王太子の婚約者。そして、自分の婚約破棄を三年がかりで設計している女。
俺がこの計画に巻き込まれたのは半年前——いや、正確に言えば二年半前に声をかけられた。だが実際に偽装恋人として動き始めたのは半年前だ。
最初は楽だった。
夜会に付き添う。社交の場で隣に立つ。たまに手を取る。それだけのことだ。俺は辺境伯の三男で、剣以外に取り柄がない。社交界の作法なんて辺境じゃ使い道がない。借り物の正装は肩が窮屈だし、蜂蜜酒は甘すぎる。
でも、まあ。
あの女の隣に立つのは、悪くなかった。
◇◇◇
夜会の練習。
エレオノーラが社交ダンスの手順を教えてくれる日があった。宰相邸の空き部屋で、二人きり。蝋燭を三本だけ灯した薄暗い部屋。
「手はここに。腰ではなく、背中の上の方です」
「……ここか」
「もう少し上。そう、そこです。では、右足から——レオン、私の足を踏んでいます」
「悪い」
何度目かの練習で、手を取り合う場面があった。偽装恋人として夜会で自然に振る舞うための練習だ。それだけのことだ。
エレオノーラの手は小さかった。
手袋越しにもわかる。細い指。俺の手の半分くらいの大きさ。剣を振る手とは全然違う。
握った。
力を入れすぎた。わかっていた。わかっていたのに、加減ができなかった。剣の柄を握るのと同じ力で握っていた。離せばいいのに、離せなかった。
「レオン」
「……ああ」
「手」
「何だ」
「離してくれませんか。少し痛いです」
慌てて離した。自分の手を見た。何をやっている。
エレオノーラは左手を軽く振って、「次からは加減してください」と言った。声は平静だった。怒っている様子もない。
俺は自分の手をじっと見ていた。
何で離せなかったんだ。何で力を入れたんだ。剣の柄なら力加減は完璧にできる。指一本分の差で斬るか止めるかを制御できる。なのに、あの細い手を握るときだけ、身体が言うことを聞かない。
エレオノーラは何事もなかったように練習を再開した。「では、右足から」。その声は変わらず冷静で、俺だけが動揺していた。
辺境の朝を思い出した。冬明けの朝、山小屋の窓から見える草原に霧がかかっていて、世界が白くて静かで——。
いや、何の話だ。何で今、辺境の朝を思い出してるんだ。
あいつの手が——あの細い指が——辺境の朝みたいに——。
やめろ。何言ってるんだ俺。
◇◇◇
おかしくなったのは、いつからだろう。
思い返すと、たぶん最初からだ。
二年半前。厨房で初めて会った日。エレオノーラがブラウグロッケの名前を口にした。
辺境じゃどこにでも咲いてる花だ。青い鈴の形をした、小さな花。雑草みたいなもんだと俺は思っていた。
「あの辺りには、春先にブラウグロッケが咲きますね」
王都の貴族で、ブラウグロッケを知っている人間に会ったのは初めてだった。辺境の花を、辺境の名前で呼んだ。「雑草」とは言わなかった。
それだけのことだ。
それだけのことなのに、耳が熱くなった。
「面白そうだから」計画に参加した、と俺は全員に説明した。嘘じゃない。退屈な王都生活に刺激がほしかった。それは本当だ。
でも、たぶん、本当の理由はブラウグロッケだ。
あの花の名前を知っている女の近くにいたかった。
——自覚したのは、つい最近のことだ。
◇◇◇
半年前からの偽装生活を振り返ると、俺は相当おかしなことをしている。
エレオノーラが仕事中に寒そうにしていた。書斎の窓が開いていて、冬の風が入り込んでいた。俺は黙って自分の上着をかけた。
任務の一環だ。偽装の恋人が風邪を引いたら計画に差し支える。合理的な判断だ。
……上着をかけたとき、エレオノーラの髪に触れた。手の甲に、柔らかい感触が残った。それがしばらく消えなかった。
別の日。エレオノーラが深夜まで書斎で計画の書類を広げていた。蝋燭が二本目に替わっている。羊皮紙の上に細かい文字がびっしり並んでいて、あの字を書くのにどれだけの時間がかかっているのかと思った。
俺は干し葡萄のタルトを皿に載せて置いていった。マティアスの厨房から失敬してきたやつだ。
「食え」
「……ありがとうございます」
エレオノーラは少し驚いた顔をして、一口かじった。タルトの生地がぱりっと音を立てた。「美味しい」と小さく言った。その声が、計画の話をしているときとは全然違う柔らかさだった。
それだけだ。それだけなのに、あの「美味しい」が、剣の試合で勝ったときより嬉しかった。
おかしい。絶対おかしい。
◇◇◇
今日。
夜会の準備で、エレオノーラと二人で宰相邸の廊下を歩いていた。
ふと、あいつが立ち止まった。廊下の窓際に飾ってある肖像画の前で。
「お母様」
小さな声だった。俺に聞かせるつもりはなかったと思う。
肖像画の女性は、エレオノーラに似ていた。同じ目の形。同じ背筋の伸ばし方。ただ——笑顔が違った。肖像画の女性は柔らかく笑っている。エレオノーラの笑顔は、いつもどこか計算が混ざっている。
あの柔らかい笑顔が、本当の顔なんだろう。計算の混ざらない顔。
エレオノーラは肖像画を十秒ほど見つめて、それからショールの端を指先で撫でた。白百合の刺繍。あれが母親の形見だということは、マティアスから聞いていた。
撫で方が——雑なんだ。
普段のエレオノーラは全ての動作が正確だ。書類を揃える手も、茶杯を置く手も、手袋を外す手も。だが、あのショールを撫でるときだけ、指先の動きが子供みたいになる。幼い頃からずっとそうやって触ってきたんだろう。
こういう瞬間を見ると、わかる。
この人は策士じゃない。宰相の娘でもない。母親を亡くした女の子だ。三年間、たった一人で戦い続けている。
——守りたい、と思った。
偽装の役目としてじゃなく。
そういえば先日、王宮で迷子になったあいつを見つけたとき、聞いたことがある。
「この計画が全部終わったら、お前、何するんだ」
あのときの返事が、まだ頭に残っている。
「……考えたことがありません」
声が小さかった。あれだけ完璧に計画を立てる女が、計画の先のことは考えていない。
俺は何も言えなかった。「一緒に辺境に来い」と言いたかった。ブラウグロッケを見せたかった。本物の、生きている花を。
言えなかった。
剣は得意だ。馬も扱える。人を守ることはできる。野営で火を起こし、薬草で傷を手当てし、夜通し見張りに立つこともできる。だが、言葉で自分の気持ちを伝えることだけが、壊滅的にできない。
父も兄も同じだ。辺境伯の男は揃って口下手で、母には「石と会話してるほうがまだ反応がある」と笑われていた。血筋のせいにするのは卑怯だが、そうとしか言いようがない。
……好きなのか、俺。
あの手を握りたい。あの笑顔の隣にいたい。辺境の花を見せたい。
それを「好き」と呼ぶなら——たぶん、そうだ。
答えが出る前に、計画が壊れた。




