第3話 法の穴
本の匂いは嘘をつかない。人間は——まあ、それなりに。
王宮図書館の禁帯出室は、革装丁と埃と、かすかなインクの匂いで満ちている。この匂いの中にいると、私は安心する。文献は裏切らない。索引は正確だし、参照番号は嘘をつかない。人間よりずっと信頼できる。
私の名はナターリエ。王宮図書館の司書だ。貧乏男爵家の三女で、嫁の貰い手がなかったから学問の道に進んだ。世間的には変わり者ということになっている。
……本には書いてないことですけど、変わり者で何が悪いのかしら。
◇◇◇
エレオノーラ嬢——宰相令嬢が図書館に来たのは、二年前の秋だった。
「婚約を法的に無効にする方法を探しています」
禁帯出室の重い扉を閉めた嬢様は、開口一番そう言った。世間話も前置きもなし。この方はいつもそうだ。結論から入る。
興味深い。
法的に婚約を無効にする方法。それは単純な破棄とは違う。破棄は双方の合意か王室の命令で成立するが、無効は「そもそも婚約自体が法的に成立していなかった」と主張する手続きだ。
「条件がありますね。契約の瑕疵——つまり、婚約の手続きそのものに不備がある場合に限られます」
「ええ。ですから、不備を探してほしいのです」
嬢様は私の前に座り、婚約の経緯を簡潔に説明した。
母の死後、父である宰相ハインリヒが独断で王太子との婚約を締結したこと。エレオノーラ本人の意志確認がなかったこと。そして——。
「契約書を見ましたか」と私は聞いた。
「父の書斎で一度だけ。署名欄には父の署名と王室の承認印がありました」
「お母様の署名は?」
嬢様の目が鋭くなった。
「……ありませんでした」
ここだ、と思った。
◇◇◇
私がエレオノーラ嬢の計画に協力する理由を聞きたいだろうか。
三年前、私は学術誌に論文を投稿した。王国の婚姻法における慣習法と成文法の齟齬について。マイナーなテーマだ。採用される見込みはほとんどなかった。
エレオノーラ嬢が推薦状を書いてくれた。宰相の娘という肩書きで。
論文は採用された。その実績で、私は王宮図書館の司書の職を得た。禁帯出室への出入り許可。百年分の法典。研究者としてのキャリア。全てが、あの推薦状から始まった。
「なぜ推薦してくれたのですか」と聞いたことがある。
嬢様は少し考えて、「面白い論文だったので」と答えた。
嘘か本当かはわからない。ただ、あの論文を「面白い」と言ってくれた人間は、嬢様が初めてだった。父も母も兄も、「そんな地味な研究をして何になる」としか言わなかった。
恩は返す。それは文献にも書いてある——いや、書いてないかもしれない。でも私はそう決めた。
◇◇◇
百年前の判例を見つけるのに、三ヶ月かかった。
禁帯出室の奥、誰も手を付けない棚の一番上。革装丁が乾燥してひび割れた法典の中に、それはあった。
この羊皮紙、百年経っているのに保存状態が悪すぎる。管理した人間の顔が見たい。……いや、百年前の人間に文句を言っても仕方がない。
判例の内容はこうだった。
百年前、ある伯爵家の令嬢が王族との婚約を不服として異議を申し立てた。理由は「婚約契約書に母親の署名がなく、父親の独断で締結されたため」。王室裁定所はこの申し立てを認め、婚約を無効とした。
根拠は、王国婚姻法第十七条の二。「貴族の婚姻契約は、当事者が未成年の場合、両親もしくは法定後見人の双方の署名を要す。一方の署名のみによる契約は、当事者が成人に達した後、異議申し立てにより無効とすることができる」。
エレオノーラ嬢の婚約契約書には、母親の署名がない。
母の死後に父が独断で締結したからだ。これは法的に「片親のみの署名」であり、エレオノーラ嬢が成人後——つまり今——異議を申し立てれば、無効にできる可能性がある。
鳥肌が立った。
学者として言わせてもらえば、この発見は私の論文よりずっと面白い。
もう一つ、調べておくべきことがあった。
イレーネ——伯爵令嬢イレーネの噂操作について、侍女頭クラーラが集めた証拠の法的裏付けだ。エレオノーラ嬢の計画は二段構えになっている。婚約の法的無効はその一つ。もう一つは、イレーネが宮廷で行った名誉毀損の証拠を公にすること。
クラーラが集めた侍女たちの証言記録を精査した。日付、場所、具体的な発言内容。どれも証拠能力は十分だ。これを王妃に届ければ、イレーネの社交界での信用は揺らぐ。
証拠は三日前に、クラーラ経由で王妃付きの侍女に渡った。
あとは、時が来るのを待つだけだ。
◇◇◇
エレオノーラ嬢に報告した日、嬢様は珍しく目を見開いた。ほんの一瞬だけ、計算ではなく純粋な驚きが顔に出た。すぐに元の表情に戻ったけれど。
「ナターリエ。これで——」
「ええ。ただし条件があります。この判例は百年前のものです。現在の王室裁定所が同じ判断を下すとは限りません。確実性を高めるには、王室文書庫にある他の先例との整合性を確認する必要があります」
「王室文書庫のアクセス権は、王族にしかありません」
「ええ。ですから——」
「王弟殿下、ですね」
さすがだと思った。結論に至るまでが速い。
嬢様が帰り際、ふと足を止めた。
「ナターリエ。一つ聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「あの辺境伯の三男——レオンのことですけれど。彼、最近変なんです。偽装の恋人役なのに、必要以上に……その、近くにいる気がして」
私は本を閉じて、嬢様の顔を見た。
「変、とは?」
「ハンカチを渡されたのですが、中に花が挟んでありました。辺境の花です。偽装に花は不要でしょう」
……本には書いてないことですけど。
「嬢様。あの方があなたを見る目は、偽装には見えませんけれど」
嬢様はまばたきを一つして、「演技が上手いだけです」と言った。
そして今度は本当に帰った。
私は残された禁帯出室で、乾いた羊皮紙の匂いを嗅ぎながら考えた。法典には恋愛の判例は載っていない。これは文献では解決できない問題だ。
少し、もどかしかった。
棚に法典を戻す。背表紙のひび割れた革に指が触れた。百年前の司書は、この法典がいつか誰かの鎖を断つ鍵になると想像しただろうか。
たぶん、していない。本はいつだって、書かれた時の意図を超えて使われる。
それが本の——いえ、知識の面白いところだ。
証拠は王妃の手に渡った。判例は見つかった。けれど、これで安心はできない。
イレーネは有能だ。追い詰められた有能な人間ほど、予測できない動きをする。
これは文献に書いてあることだ。歴史書のどこかに、必ず。




