第2話 料理番の秘密
朝の厨房には、焼きたてのパンと嘘の匂いが混ざっている。
まあ、嘘に匂いがあるわけじゃない。ただ、俺がこの三年間ずっと旦那様を騙し続けているという事実は、パン粥の湯気の向こうにいつも透けて見える。
俺の名はマティアス。シュヴァルツハイム宰相邸の料理番だ。
◇◇◇
三年前の春の話をする。
嬢様——エレオノーラ嬢様が、厨房に来た。
それ自体は珍しくない。嬢様は小さい頃から厨房に来る子だった。奥様が亡くなってからは特に。書斎に閉じこもる旦那様のそばにいるより、厨房で胡桃入りの黒パンをかじっている方がよほど落ち着くらしかった。
ただ、あの日の嬢様は目つきが違った。
「マティアス。母が最後に食べたかったものは何だったか、覚えていますか」
俺は手を止めた。仕込み途中の山羊乳のチーズから手を離して、嬢様の顔を見た。
奥様が最後に食べたかったもの。覚えている。干し葡萄のタルトだ。奥様が床に伏せた最後の冬、「あれが食べたい」と小さな声で言った。俺は夜通しかけて焼いた。焼き上がった頃には、奥様はもう固形物を飲み込めなかった。
「覚えてます。干し葡萄のタルトです」
「そう」
嬢様は少し黙って、それから言った。
「母は最後に、あなたに何か頼みませんでしたか」
パン粥の鍋が、ことこと言っていた。火加減は弱火。弱火が一番難しい。強火なら焦がすだけで済むが、弱火は目を離した瞬間に全てが台無しになる。人生と似ている、と思ったことがある。
「……二つ、頼まれました」
一つ目は「この子の好きなものを食べさせてやって」。
それは簡単だった。嬢様が好きなのは胡桃入りの黒パンと、蜂蜜をかけた麦粥。十年間、ずっと同じものを作り続けている。
二つ目。
「この子を自由にしてあげて」
俺がそう言ったとき、嬢様の肩が小さく揺れた。知っていたのか、知らなかったのか、俺にはわからなかった。
嬢様は奥様に似ている。感情が顔に出ない。ただ、肩が揺れた。それだけが、嬢様がまだ十八の娘だということを思い出させた。
◇◇◇
嬢様は計画の話をした。
「父が決めた婚約から、合法的に逃れます。三年かかります。協力してくれますか」
宰相邸の厨房で、十八の令嬢が料理番に陰謀を持ちかけている。冷静に考えれば、とんでもない光景だ。
だが嬢様の目は据わっていた。旦那様と同じ目だ。何かを決めたときのシュヴァルツハイムの血筋。あの目をした人間を止められた例を、俺は知らない。
俺は葛藤した。
旦那様には恩がある。十年前、前の雇い主の店が潰れて行き場を失った俺を、知人の紹介だけで雇ってくれた。「腕がいいと聞いた。うちの厨房を任せる」。それだけだった。面接も試験もなかった。
寝る場所と、腕を振るう厨房と、俺の料理を「美味い」と短く言ってくれる主人を得た。旦那様は寡黙な人だが、麦粥だけはおかわりをする。あの人なりの最大の褒め言葉だと俺は思っている。
裏切りたくはない。
だが、奥様の遺言がある。
「この子を自由にしてあげて」
パン粥を掻き混ぜながら、俺は考えた。木の匙が鍋底を擦る音。こつ、こつ、こつ。料理をしながら考え事をする癖は若い頃から変わらない。手を動かしていれば頭は回る。
旦那様への恩義と、奥様への約束。どちらが先か。
答えは——まあ、料理番としては、先に仕込んだ方が先に出す。
奥様の約束は十年前だ。旦那様の恩は、その後だ。
「嬢様。俺は旦那様に恩があります。それは嘘じゃありません」
「ええ」
「ですが、奥様の遺言が先です」
嬢様は頷いた。「ありがとうございます」と、少し——ほんの少しだけ——声が揺れた。
◇◇◇
その半年後のことだ。
嬢様が厨房に若い男を連れてきた。
辺境伯グリューネヴァルトの三男。レオンという名前だったと思う。剣術指南役の見習いで、嬢様が「計画に必要な人員」として声をかけた相手の一人だ。二人が会うのはこの日が初めてだった。
嬢様はレオンを見て、何気なく言った。
「グリューネヴァルト領の方ですか。あの辺りには、春先にブラウグロッケが咲きますね」
レオンの手が止まった。
ブラウグロッケ。青い鈴の形をした、辺境にしか咲かない花だ。王都の貴族で名前を知っている人間は、まずいない。俺だって知らなかった。
レオンは一瞬固まって、それから変な顔をした。驚いているのか、嬉しいのか、困っているのか、全部が混ざったような顔。
「……知ってるのか」
「母の植物図鑑に載っていました。青い鈴の花。一度見てみたいと思っていたんです」
嬢様はそれだけ言って、話を計画の方に戻した。
レオンはしばらく黙っていた。
それから、ぼそりと言った。
「辺境じゃ、どこにでも咲いてる。雑草みたいなもんだ」
「雑草ではないでしょう。あれは高地にしか咲かない固有種です」
「……詳しいな」
「本で読んだだけです」
嬢様はそう言って、話を計画の方に戻した。レオンは計画の説明を聞きながらも、時折ブラウグロッケの話を思い出すように宙を見ていた。
俺は料理番だ。人の感情を読む専門家じゃない。だが、厨房に立つ人間は、火の色で温度がわかるように、人の顔色で少しのことはわかる。
あの若い男の耳が、ほんの少し赤かった。
辺境の花の名前を知っている貴族の令嬢。それがどれだけ珍しいことか、辺境育ちの男にはわかるのだろう。自分の故郷の花を「雑草」と呼ばれずに済んだ、たったそれだけのことが。
その時は気にも留めなかった。二年半後にあの赤さが何だったのか理解することになるとは、当時の俺は知る由もない。
◇◇◇
嬢様が厨房を出ていった。
背筋の伸びた後ろ姿を見送りながら、俺は思った。
この人は、あの旦那様の娘だ。
計画は成功する。
ただ——嬢様の計画には、嬢様自身の幸せが入っていない気がした。干し葡萄のタルトの作り方は知っているのに、自分が何を食べたいかは考えない子だ。昔からそうだった。
まあ、それは俺の仕事じゃない。
俺の仕事は、奥様の遺言を守ること。そして、嬢様が好きな胡桃入りの黒パンを、毎朝焼くこと。
パン粥の火加減を確かめる。弱火。上出来だ。
三年がかりの計画の初日に、俺がやったのはパン粥を焦がさなかったことだけだ。
まあ、大した共犯者もいたものだと、自分で少し笑った。厨房の窓から朝日が差し込んで、パン粥の湯気が金色に光った。奥様が好きだった、春の朝の色だ。




