第1話 断罪の夜会
「——では、この婚約は破棄とする」
王太子フリードリヒ殿下の声が、蜜蝋の蝋燭が百本灯る大広間に落ちた。
私は微笑んだ。
三年。長かった。
◇◇◇
話を少し戻す。
断罪の夜会——この国には、婚約破棄を公の場で宣告する仕来たりがある。
王族の婚約は王族の威信に関わるから、解消にも儀式が要るのだ。証人の前で理由を述べ、当事者が受諾し、記録係が羊皮紙に署名を取る。生憎、面倒な国に生まれたものだと思う。
今夜の大広間には王侯貴族が百名ほど詰めていた。
壁際の蝋燭が照らす顔、顔、顔。大半は好奇心を隠しきれない目をしている。宮廷とはそういう場所だ。他人の不幸は最高の余興になる。料理より陰謀の方が手が込んでいるのがこの国の夜会の通例で、今夜も例外ではない。
給仕が運ぶ銀の盆の上で、蜂蜜酒の杯が蝋燭の光を受けて琥珀色に光っていた。あの酒は甘すぎて私は好きではない。けれど母は好きだった。
「エレオノーラ・フォン・シュヴァルツハイム」
フリードリヒ殿下が私の名を呼んだ。
殿下は蝋燭の光の中でも姿勢が良かった。軍服の襟は一分の隙もなく整い、金の飾緒が肩章から胸元へ弧を描いている。声には感情の揺れがない。この方は昔からそうだ。正しいことを正しく行う。それが殿下にとっての誠実さ。
ただ、その「正しさ」の中身を、殿下自身が選んだことは一度もない。
父に言われた通りに学び、宰相が整えた通りに振る舞い、用意された婚約者を受け入れた。そして今夜、同じように用意された筋書きの通りに、私を手放す。
殿下もまた、盤面の上の駒なのだ。
……少しだけ、同情する。本当に少しだけ。
「そなたとの婚約を、本日をもって解消する。理由は——」
「承知いたしました」
言葉を遮ったのは私の方だった。
広間がざわめく。当然だろう。理由の説明も聞かずに頷く婚約者など、この国の断罪の夜会の歴史にはいない。記録係の老人が羽根ペンを取り落としたのが見えた。
殿下の目が僅かに見開かれた。台詞を奪われた役者のような、間の抜けた顔。
——生憎ですが、殿下。この台本を書いたのは、私です。
もちろん口にはしない。私は深く一礼しただけだ。絹のスカートが石の床に触れる音がした。
◇◇◇
広間の空気が変わった。
令嬢たちのひそひそ声が蝋燭の炎を揺らす。扇の陰で口が動いている。
「あの方、泣きもしないの」
「プライドが高いのね」
「でも少し——怖くない?」
どれも計算のうちだ。泣けば同情される。怒れば失態になる。微笑めば——不気味がられる。不気味がられるのが、最も都合がいい。「あの令嬢は何かを知っている」と思わせれば、安易に敵に回ろうとする者は減る。
壁際に目をやると、伯爵令嬢イレーネが唇の端を持ち上げていた。
薄い桃色のドレスに真珠の髪飾り。洗練された笑顔。この二年間、私の悪評を宮廷に撒き続けた女性だ。侍女ネットワークを使い、「宰相の娘は冷たい」「殿下に相応しくない」と囁かせた。その手際は認める。情報操作の才能は確かにある。
今夜はイレーネにとって一世一代の勝利の夜のはずだ。邪魔者が消え、王太子の隣が空く。
おめでとうございます、イレーネ嬢。殿下の隣はあなたのものです。
——ただし、その席がどれほどの価値を持つかは、これから変わりますけれど。
それは先の話。今はまだ、微笑んでいればいい。
もう一つ、視界の端に捉えたものがあった。
広間の柱の影に、レオンが立っていた。
辺境伯グリューネヴァルトの三男。王都の剣術指南役の見習い。今夜は護衛の名目で広間に入っている。本来、彼の身分ではこの場に立てない。私が護衛として申請した。計画の一部だったから。
レオンは拳を握りしめていた。
白い手袋の布地が、骨の形に沿って盛り上がるほど強く。
彼は台本を知っている。今夜の破棄が私の計画通りであることも。なのに怒っている。顎の線が強張り、柱に背をつけた肩が微かに震えていた。
——あなたが怒る必要は、ないのに。
その感想がどこから来たのか、自分でもよくわからなかった。計算上は、レオンが怒るのは不合理だ。彼は偽装の恋人役。三年の計画を支えた共犯者のひとりにすぎない。
にもかかわらず、彼の拳が視界から離れなかった。
何か——引っかかる。
蜜蝋の匂いが鼻の奥を掠めた。母が好きだった香りだ。宰相邸の書斎にも、いつも同じ蝋燭を灯していた。母が生きていた頃、書斎で母の膝に頭を載せて、この匂いの中で眠った夜がある。
——お母様。終わりましたよ。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、思考がそちらに引きずられた。
鼻の奥がつんとする。
振り払う。今夜は感傷に浸る夜ではない。今夜は、三年がかりの計画が台本通りに動いた、ただそれだけの夜だ。
◇◇◇
大広間を出る。
回廊は広間の喧騒が嘘のように静かだった。石壁に掛けられた燭台の火が、風もないのに揺れている。私の靴音だけが石の床に反響し、自分の足音が二人分に聞こえた。
振り返らなかった。
ただ、回廊の途中で足を止めたのは、父と目が合ったからだ。
宰相ハインリヒ・フォン・シュヴァルツハイム。
広間の入口近くの壁際に、父が立っていた。蒼い顔をしていた。
この人が蒼い顔をするのを見るのは、母の葬儀以来だと思う。十年前。あの日、父は一度だけ頬を手の甲で拭って、それきり二度と泣かなかった。少なくとも、私の前では。
宮廷では「鉄の宰相」と呼ばれている。三カ国との貿易条約を成立させ、十年前の議事録を暗唱できる記憶力を持ち、部下からの信頼も厚い有能な政治家だ。
その父が、今夜は蒼い顔をしている。
父は何か言いたそうに口を開きかけて、やめた。
私は一礼して、背を向けた。
——お父様。あなたがこの結果を望まなかったことは、知っています。
——けれど、あなたが望んだものを、私は一度も望んだことがありません。
回廊の窓から冷たい夜風が入り込んだ。窓の外に見える王宮の庭園では、冬薔薇の季節がもう終わりかけている。春告げ草にはまだ早い。
季節の狭間。
どちらにも属さない、宙ぶらりんの夜。
靴音を響かせながら、私は回廊を歩いた。これからのことを考える。宰相邸に戻る馬車の手配。明日の書類の整理。王弟殿下への報告。やるべきことはまだ山ほどある。
計算上は、今夜で第一段階が完了した。
残る課題は——。
……いや。
正確に言えば、「残る課題」などという整理された思考は、あの瞬間には浮かばなかった。
浮かんでいたのは、レオンの拳だった。
三年前の春、私はこの夜のための台本を書き始めた。六人の共犯者を集め、証拠を揃え、舞台を整え、王太子殿下に——計算通りに——私を捨てさせた。
全て、台本通り。
ただ一つだけ。
あの人の拳が、台本にはなかった。




