第1話【起】灯りを見てしまう女
この街では、時々、少しだけ不思議なことが起きる。
でもそれは、誰も大きな声では語らない。
そんな街で生きる、二人の話。
灯里
人の感情が灯りとして見える女性。
揺れる心を見ると、放っておけない。
冬馬
感情の揺れが少ない建築士。
灯里の隣で、何も変えようとしない人。
私が人を落ち着かせるたび、私の中の何かが少しだけ減っていく。
それでもやめられない。揺れている灯りを、見てしまうからだ。
この街の夜は、私には少し眩しすぎる。街灯のせいじゃない。行き交う人々の胸の内に灯る「感情」が、炎みたいに揺らめいて見えるからだ。
怒りは赤い火花を散らし、悲しみは青白く震え、不安は頼りなく明滅する。私は物心ついた頃から、それが見えてしまう。
「大丈夫ですか?」
駅前のベンチで、うずくまっている女性に声をかけた。彼女の胸元で、灰色の炎が今にも消えそうになっていた。
私は隣に座る。特別な言葉をかけるわけではない。ただ、胸の奥にある灯芯に、そっと火を移すように念じるだけ。
次の瞬間、彼女の灰色の炎が、ぽっと温かいオレンジ色に変わった。
同時に、私の指先から熱が抜け落ちる。視界が、ほんの一拍だけ暗くなる。
「ありがとう。なんだか、急に楽になったわ」
女性は顔を上げ、笑顔で去っていった。残された私は、ベンチの手すりを強く握りしめる。金属が、氷みたいに冷たかった。
これが私の癖であり、呪いだ。
弱っている人を見ると、放っておけない。蝋を溶かすみたいに、自分を削って相手を温めてしまう。
仕事場でも同じだった。
夕方、狭い待合室で次の相談者を呼ぶ。
古い雑居ビルの三階にある、小さなカウンセリング事務所。私は人の心の傷に向き合っている。
「先生と話すと、心が軽くなります」
「あなたがいてくれて、本当に助かります」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。でも同時に、何かが確実にすり減っていく感覚もあった。
その日の最後のクライアントを見送ったあと、私は窓辺に立った。
夕暮れの街。オレンジ色の光が、古いビルの谷間を染めている。
この街は、少し不思議な場所だ。表通りはどこにでもある地方都市。でも一本裏道に入ると、時間が止まったような建物が並ぶ。占いの店、古書店、誰も客のいない喫茶店。
そして、誰もそれを不思議だとは言わない。
ここでは、不思議なことは「あるもの」として、静かに受け入れられている。
階下から声がした。
「灯里さん、お疲れ様です」
一階で雑貨店を営む、大家のおばあさんだ。
「お茶、淹れましたよ。降りてきませんか?」
雑貨店の奥。小さなテーブルに、湯気の立つ湯呑みが二つ並んでいる。
「今日も、たくさんの人を救ったのね」
「……救えているのかな。みんな、楽になって帰っていく。
でも、また戻ってくる。私がいないと不安だって言われるたび、嬉しいのか、重いのか、自分でも分からなくなる」
思ったままを口にすると、おばあさんは少しだけ目を細めた。
「みんな、楽になって帰っていく。でも、根本は変わっていない気がして」
「それでいいのよ。人は、自分で変わるしかないもの」
私は頷いた。でも、胸の奥に引っかかりが残る
朝、駅のガラスに映る自分の顔を見て、一瞬、知らない人だと思った。
「灯里さん、あなた自身の灯りは大丈夫?」
その言葉に、私は一瞬だけ黙った。
「……大丈夫です」
嘘だった。
自分の灯りは見えない。でも、分かる。私の炎は、確実に短くなっている。
その夜、私は美術館に行った。
閉館間際の館内は静かで、人も少ない。ここでは、誰の感情も見なくていい。色と形だけを見ていればいい。
そう思いながら、私は一枚の絵の前で足を止めた。
深い青の海。静かな波。遠くに見える山。
「……きれいだな」
隣から、低い声がした。
振り向くと、黒い服の男性が立っていた。三十代前半くらい。無造作な髪、落ち着いた佇まい。
そして——
彼の灯りが、ほとんど揺れていない。
いや、正確には、遠い。
まるで、壁の向こうで小さく灯っているみたいに。
「……?」
私が見つめていると、彼は不思議そうに首を傾げた。
「何か?」
「い、いえ……すみません」
慌てて視線を逸らす。心臓が、遅れて跳ねた。
こんな人、初めてだった。
「この絵、落ち着きますよね」
「……はい」
「また、会えるといいですね」
彼はそう言って、静かに去っていった。
私は、その背中を、しばらく見送っていた。
その日から、私の日常は、私の知らないところで、少しずつ形を変え始めていた。




