第7話:『合理的な溺愛』
エリアナが足を踏み入れた「塔の最上階」は、彼女が知る「執務室」や「住まい」という概念を遥かに超越していた。
一面の巨大なガラス窓からは、ヴァイス国の首都が一望できる。王都のように無秩序に広がるのではなく、魔術的な幾何学に基づいて整然と配置された美しい街並みだ。 そして、残る三面は、床から天井まで、貴重な書物で埋め尽くされていた。
王都の地下書庫のような、カビと埃の匂いではない。 ここは、光の魔術によって温度と湿度が完璧に管理され、磨き上げられた木の床と、古いインクの知的な香りだけが満ちている。
「あ……」
エリアナは、息を呑んだ。
そこは、彼女が「番人」としてではなく、一人の「司書官」として夢にまで見た理想の書庫そのものだった。
「王都の地下書庫とは比較にならんな」
セオドアが、エリアナの内心を見透かしたように、冷静に事実を告げる。
「あそこは『記録』を『保管』しているだけだ。『叡智』は活用されてこそ価値がある」
彼は、部屋の中央に置かれた巨大な黒曜石の執務机を指し示す。 そこには、最新の魔導具(魔力筆や、触れるだけで文献を複写する転写盤)が、まるで外科医の手術道具のように整然と並べられていた。
「これらは全て、今日から貴女が自由に使っていい」
「こ、こんな高価なものを……!」
「合理的に考えて、当然の投資だ」
セオドアは、エリアナの戸惑いを一蹴する。
「最高の『叡智』には、最高の『環境』を提供しなければ、最大の効率は得られない。私は私の投資を最適化しているに過ぎん」
そこへ、音もなく一人の女性が室内に現れ、深々とお辞儀をした。 王都の侍女のような華美な服ではなく、機能的ながらも上質な、研究者のローブに近い制服を身につけている。
「賢者エリアナ様。わたくし、本日より貴女様のお世話をさせていただきます、助手のリタと申します。専門は古代言語学と魔力触媒です」
「じょ、助手……?」
「メイド兼研究員だ」とセオドアが補足する。「貴女が解読に集中できるよう、雑務と一次解析は彼女に任せるといい」
王都では、ジュリアン殿下から侍女の一人もつけられず、「責務」の名の下に無給で酷使されてきた。 だが、ここでは。 「賢者」として招聘された対価は、彼女の想像を遥かに超えるものだった。
◇◇◇
「……そして、これが貴女への『対価』だ」
セオドアが、一通の羊皮紙をエリアナに差し出した。 それは、ヴァイス国王の名が記された、正式な「契約書」だった。
「け、契約書……?」
エリアナは、恐る恐るそれを受け取る。 そこに記された内容に、彼女は再び目を見開いた。
『――賢者エリアナ・ノエルを、ヴァイス国「王宮魔導師長」と同等の「第一級賢者」の地位をもって招聘する』
『――それに伴い、賢者の塔の最上階の居住権、及び王立大書庫の全閲覧権限を与える』
『――対価として、国庫より最高位の給与、及び研究費を無制限に支給する』
「王宮魔導師長と、同等……? 給与……?」
エリアナの手が、震える。 王都では、「聖約」という名の「枷」によって、王太子の婚約者という立場だけが押し付けられていた。 彼女の「能力」が評価されることなど一度もなかった。 「番人」の仕事は、無償の「責務」であり、果たして当然、少しでも滞れば「怠慢」と罵られるものだった。
だが、この契約書は違う。
これは、彼女の能力――ジュリアン殿下が「幻聴」「呪い」と罵ったあの『声』の価値――に対して、この国が支払うと約束する、正当な「対価」だった。
「当然だ」
セオドアが、彼女の心の揺らぎを読み取ったかのように言った。
「貴女の能力は、国家の未来を左右する『至宝』だ。それに見合う対価を支払うのは、統治者として合理的な判断に過ぎない」
(……評価、された)
(私の『声』が、この国では……)
じわり、と目の奥が熱くなる。
王都で流した悔し涙とは違う、温かいものが込み上げてくる。 エリアナは、こぼれ落ちそうになる涙を隠すように、深く、深くお辞儀をした。
「……ありがとうございます。私、精一杯、務めさせていただきます」
「『責務』ではない」
セオドアの声が、静かに彼女の言葉を遮った。
「これは『契約』だ、エリアナ。貴女は一方的に尽くすのではない。貴女の『叡智』と、我が国の『資源』を交換する、対等なギブアンドテイクだ。……それを違えるな」
「……はい」
エリアナは、顔を上げた。 目の前の「氷の王子」は、相変わらず無表情だったが、その金色の瞳は、王都の誰よりもまっすぐに、彼女の「価値」だけを見ていた。
◇◇◇
エリアナが契約書にサインするのを見届けると、セオドアは満足げに頷いた。
「では、助手のリタ。エリアナの私室の準備と、食事の手配を。彼女の体調管理も合理的に行うように」
「かしこまりました」
リタが恭しく一礼して下がっていく。 エリアナは、これで今日の謁見は終わりだろうか、と息をついた。 長旅と、あまりに濃密な歓迎に、精神は限界まで張り詰めていた。
だが、セオドアは、この塔を去る気配を見せなかった。
それどころか、彼はエリアナに向き直ると、初めてその表情に、わずかな(そして、極めて知的な)昂奮の色を浮かべた。 それは、王都でリリアナが見せていた「歓喜」とは全く違う、研究者が「未知の真理」を前にした時のような、純粋な輝きだった。
「さて、エリアナ」
セオドアは、エリアナを「賢者の塔」の、さらに奥へと誘う。 そこは、先ほどの執務室とは違う、彼自身の私的な研究室へと続く、重い扉の前だった。
「契約は成立した」
ゴゴゴ……と、セオドアが魔力を流すと、厳重な封印が施された扉がゆっくりと開いていく。 扉の向こうから、エリアナが知る「古書」の匂いとは比較にならない、濃密で、どこか苦しそうな「瘴気」の気配が漏れ出した。
セオドアは、その闇の奥を指し示しながら、エリアナに告げた。 その声は、まるで待ち望んだ玩具を見つけた子供のようでもあった。
「―――本題だ。契約といこう。君に解明してほしい、我が国の『病巣』を見せよう」
お読みいただき、ありがとうございます!
面白い、続きが気になる、と思っていただけましたら、 ぜひブックマークや、↓の【★★★★★】を押して評価ポイントをいただけますと、 執筆の励みになります!
(※明日の更新も20:00です)




