第6話:新天地、叡智の国
エリアナは、セオドアが差し出した手を取った。
氷の王子と呼ばれる男の手は、手袋越しだというのに、不思議と冷たくは感じなかった。
彼に導かれるまま、豪奢な馬車に乗り込む。
ジュリアン殿下の紋章が刻まれた王都の城門が、まるで遠い昔の出来事のようにゆっくりと遠ざかっていく。
追放されたというのに、不思議と涙は出なかった。 ただ、膝の上に置いた、割れた『古書(石版)』の入った麻袋を固く握りしめる。
(王都は……封印は……)
「番人」としての責務が、まだ呪いのように彼女の思考にこびりついている。
馬車の中は、驚くほど静かだった。 王都の馬車のような派手な装飾はない。代わりに、壁一面に小さな本棚が作り付けられており、古い紙とインクの匂いが漂っている。
セオドアは、エリアナの向かいの席に座ると、早々に彼女への興味を失ったかのように、懐から取り出した羊皮紙の資料に視線を落としていた。
(この人は、私をどうするつもりなのだろう……)
招聘する、とは言っていた。 だが、王都では「偽りの魔女」とまで呼ばれたのだ。この荒野を抜けた後、ヴァイス国で「やはり不要だ」と捨てられるのではないか。
エリアナが不安に身を縮こまらせていると、セオドアが資料から顔を上げずに、テーブルの上の魔道具に触れた。
「……これを」
コン、と音を立て、エリアナの目の前に、湯気の立つ温かい紅茶のカップが出現した。
「え……」
「貴女の身体は冷え切っている。体調を崩されては、私の『投資』効率が落ちる」
セオドアは、矢継ぎ早に毛布まで差し出した。 それは「罪人」への扱いでも、「魔女」への扱いでもない。 彼が口にした「投資」という言葉は冷たい響きを持っていたが、その行動は、ジュリアン殿下から受けた仕打ちとは比べ物にならないほど、丁重なものだった。
エリアナは、戸惑いながらも紅茶のカップを手に取った。 その温かさが、凍えていた指先に、そして心の奥にまでじんわりと染みていく。
(……温かい)
その時だった。 膝の上の麻袋から、あの『古書』の「声」が、そっと響いた。 だが、それは「警告」ではなかった。
『…………安息ノ地ヘ。ヨウヤク、還レル』
(え……?)
エリアナは息を呑んだ。
「還れる?」
それは、まるで故郷に帰るかのような、穏やかで、どこか安堵したような「声」だった。 王都で追放されたことを、まるで喜んでいるかのように。
エリアナは、この『古書』のことも、そして目の前の「氷の王子」のことも、まだ何も理解できていないのだと痛感した。
◇◇◇
馬車がどれほどの時間を走ったのか。
エリアナが、紅茶の温かさで少しだけ意識を失っていたことに気づいたのは、馬車の外がにわかに騒がしくなったからだった。
「セオドア殿下、ヴァイス国境の検問所に到着しました」
御者の声に、エリアナはびくりと体を震わせた。
(国境……)
王都の国境といえば、やる気のない兵士が二人ほど、槍を立てて居眠りをしているような、粗末な柵があるだけだ。 だが、セオドアに促されて馬車を降りたエリアナは、目の前の光景に言葉を失った。
「……これは」
空が、青い。 いや、空を覆うように、巨大な魔術のドームが青白い光を放っている。 王都の「結界」などとは比較にならない、高度で緻密な術式で構成された、完璧な「防護障壁」。 そして、その下にある国境の門は、寸分の狂いもなく磨き上げられた黒曜石でできていた。
「セオドア・アークライト・ヴァイス殿下! ご帰還、お待ち申し上げておりました!」
甲冑に身を包んだ屈強な兵士たちが、一糸乱れぬ動きで敬礼する。
王都の騎士団のような、派手さや傲慢さはない。ただ、そこにあるのは「叡智」と「力」に裏打ちされた、絶対的な規律だった。
「うむ。入国手続きを」
セオドアが短く応じると、隊長らしき男が、セオドアの隣に立つ埃まみれのエリアナを見た。 エリアナは、反射的に身を強張らせた。 王都では、「地味な女」「偽りの番人」と、誰もが侮蔑の視線を向けてきた。
この国の、こんなに立派な軍人が、自分のようなみすぼらしい女を見たら、きっと……
だが、隊長の反応は、エリアナの予想とは真逆だった。 彼は、エリアナの姿をまっすぐに見据えると、セオドアに対するものと寸分違わぬ、完璧な最敬礼を捧げた。
「―――賢者エリアナ殿のご到着、心より歓迎いたします!」
「え……?」
エリアナは、自分の耳を疑った。 今、何と?
「け、賢者……? あの、人違いでは……」
「いいえ」
隊長は、エリアナの戸惑いを一蹴するように、厳格な声で言った。
「セオドア殿下より、『我が国に招聘した、最重要の賓客である』と、全軍に通達がなされております。エリアナ様、ようこそ、叡智の国ヴァイスへ」
賓客。
人生で、初めて向けられる、純粋な「敬意」。 エリアナは、どう反応していいか分からず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。 セオドアは、そんな彼女の様子を「合理的だ」とでも言うように、静かに見つめていた。
◇◇◇
ヴァイス国の首都は、王都とは何もかもが違っていた。
道は魔術によって浄化され、ゴミ一つ落ちていない。行き交う人々も、王都の貴族のように着飾ってはいないが、誰もが背筋を伸ばし、知的な雰囲気を持っている。
そして、馬車が向かった先は、王宮ではなかった。 首都の中央に、天を突くようにそびえ立つ、巨大な白亜の塔。 王宮さえもが見下ろすような、その壮麗な建物こそが、ヴァイス国で最も重要とされる施設だった。
「王立大書庫……いえ、『賢者の塔』、ですか」
エリアナは、書庫の司書官として、その塔の噂だけは知っていた。 大陸中のあらゆる「叡智」が集積するという、学者たちの聖地。
セオドアは、当然のようにエリアナを塔の中へと導く。 中は、王都の地下書庫のようなカビ臭さとは無縁だった。
光の魔術で照らされた吹き抜けの空間を、膨大な数の書物が埋め尽くしている。研究者たちが、静かに、だが熱心に議論を交わしていた。 彼らは、セオドアと、その隣にいる見慣れない(だが丁重に扱われている)エリアナに気づくと、皆、静かに敬礼して道を開けた。
セオドアは、階段ではなく、壁に埋め込まれた魔術式の円盤(魔術昇降機)にエリアナを乗せた。 円盤は静かに上昇し、やがて塔の最上階で停止する。 そこは、塔の主の部屋であることを示す、重厚な扉に守られていた。
セオドアは、その扉に手をかけ、エリアナに向き直った。
「エリアナ・ノエル」
「は、はい」
「貴女を『賢者』として招聘した。その対価として、我が国は貴女に最高の環境を提供する」
ギイ、と重い扉が、光と共に開かれる。
そこに広がっていたのは、エリアナが夢にまで見た光景だった。 部屋の一面は、首都を一望できる巨大なガラス窓。 そして、残る三面は、床から天井まで、貴重な書物で埋め尽くされていた。
「ここが貴女の新しい執筆室であり、住まいだ」
セオドアは、呆然とするエリアナに、この国で最も価値のある「鍵」を渡した。
「―――我が国の全ての叡智(書物)への閲覧権限を許可する」
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(※明日の更新も20:00です)




