第5話:『氷の王子』と『叡智の価値』
「―――見つけた」
それは、安堵とも、歓喜ともつかない、冷徹なまでの呟きだった。 彼は、私のことなど存在しないかのように、真っ直ぐに「それ」へと歩み寄る。
◇◇◇
セオドアの目的は、外交使節としてこの国を訪れるついでに、ある「モノ」を回収することだった。 彼が喉から手が出るほど欲していた「古代の叡智の原典」。 数日前、諜報員から『王太子ジュリアンが、その "不吉な本" を破棄するらしい』という報告が入ったのだ。
(愚かなことだ。国宝級の魔導書をゴミのように捨てるとは)
彼は、その「モノ」が破壊される前に、あわよくば回収しようと急行した。 そして今、目の前に「それ」がある。 追放されたらしき、地味な司書官の女と共に。
「それを渡せ」
セオドアは、私を(追放に巻き込まれた)ただの司書官か侍女だと思ったのだろう。 冷たく、合理的に、彼は私に告げた。
「その『石版』を買い取ろう。望むだけの金銭を支払う」
その言葉に、私は麻袋をさらに強く抱きしめた。 この人も、王都の役人と同じだ。この『古書』を、私から奪おうとするのだ。
「だめです……!」 私は、震える声で必死に首を振った。
「これは……これは、渡せません……!」
セオドアの眉が、わずかに動く。
「合理的な取引だ。貴女が持っていても、それはただのガラクタだろう」
「違います!」
私は叫んでいた。
「ガラクタなんかじゃありません……! この『声』は……この『声』は、まだ警告を……! 封印が、本当に……!」
「―――『声』、だと?」
セオドアの動きが、完全に停止した。 「氷の王子」の仮面が、初めて微かに揺らぐ。 彼の思考が、天才的な速度で回転を始めた。
(『声』? 幻聴のことか? いや、違う……)
セオドアは、麻袋から覗く『石版』の破片に刻まれた、超難解な『古代魔術言語』の羅列を一瞥した。 あれは、ただの記録ではない。高度な地脈変動の予測術式だ。 通常の魔術師が、一生かけても解読できるかどうか。
(……まさか)
彼の金色の瞳が、驚愕に見開かれる。
(この古代言語は、『読む(解読する)』のではなく、『聞く(音声化する)』ものだったというのか? だとすれば、この女は……)
セオドアの視線が、初めて「モノ(石版)」から「エリアナ」へと移る。 この女は、ただの司書官ではない。 この『叡智』を起動させ、その真価を引き出す、唯一無二の……
(―――『鍵』そのものだ!)
セオドアの背筋に、凍てつくような歓喜が走った。 「モノ」だけを回収するはずが、「モノ」の価値を無限大に引き上げる「ヒト」まで同時に見つけてしまった。
◇◇◇
セオドアは、背後で重く閉ざされたままの王都の城門を一瞥した。
(あの門の内にいる愚かな王太子は、今、この瞬間に何を捨てたのか、生涯理解することもあるまい)
ジュリアンと会話する価値など、一瞬たりともない。
彼は、エリアナの前に、静かに片膝をついた。 その行動に、エリアナは息を呑む。 氷の王子が、地べたに座り込む「偽りの魔女」に、跪いている。
セオドアは、先ほどの冷たい「交渉人」の顔ではなく、計り知れない価値を持つ「至宝」を前にした者の顔で、エリアナに手を差し伸べた。
「エリアナ・ノエル」
「え……」
なぜ、私の名前を。
(諜報で「番人」の名前までは知っていた。だが、その「機能」までは知らなかったのだ)
「その『古書』と―――貴女という『賢者』ごと、我が国に招聘する」
「……しょうへい?」
「そうだ」
セオドアは、エリアナのずれた眼鏡の奥にある、戸惑う瞳をまっすぐに見据えた。
「貴国には過ぎた『至宝』だ。その価値、私が正しく使わせてもらう」
王都では、「不吉な女」「偽りの番人」としか呼ばれなかった。 「聖約」という名の「枷」でしか、王太子と繋がれなかった。
だが、今。 目の前の男は、私を「賢者」と呼び、「至宝」だと言った。 私の、この呪いのような『声』を、初めて「本物の叡智」だと、信じてくれた。
エリアナは、固く閉じていた涙腺から、熱い雫がこぼれ落ちるのを感じた。 そして、その冷たい手袋に覆われた、セオドアの大きな手を―――震えながらも、強く、握り返した。




