第25話:遠い国の『異変』と、新しい『責務』
王都アルビオンが、自ら招いた「崩壊の序曲」に震えていた、その頃。 ヴァイス国は、太陽の光に満ち溢れていた。
「……見事なものです」
エリアナは、かつて「北の不毛地帯」と呼ばれた大地を見渡しながら、心の底から呟いた。
セオドアが懸念した「生命力の消費」は、彼が構築した「魔力循環補助術式」によって最小限に抑えられ、二人の「共同作業」は驚異的な速度で進んでいた。
草一本生えなかった死の大地は、今や地脈の魔力を取り戻し、見渡す限りの緑の絨毯へと生まれ変わっていた。
「君の『声』と、私の『術式』。合理的な組み合わせが、合理的な結果を生んだに過ぎん」
隣に立つセオドアは、冷静にそう分析する。
だが、その金色の瞳が、目の前の「豊穣の大地」と、それを実現させたエリアナに向けて、隠しきれないほどの誇らしさを宿していることに、エリアナは気づいていた。
「求婚」以来、二人の間には、もはや「王太子」と「賢者」という壁はなく、「セオドア」と「エリアナ」という、絶対的な信頼で結ばれたパートナーとしての空気が流れていた。
「次の計画ですが、セオドア様。『叡智』が、この緑化させた土地に最適な、古代種の薬草の栽培データを―――」
エリアナが、輝かしい未来の計画を口にしようとした、その瞬間だった。
「…………ッ!?」
何の脈絡もなく、エリアナの胸の奥深く、彼女の魂に結びついていた「何か」が、甲高い悲鳴を上げた。
ドクン、と心臓が掴まれたような衝撃。
それは、彼女が王都の地下書庫で聞いていた、あの忌まわしい「警告」の音だった。
『地下封印』。 『瘴気漏出』。 ジュリアンに「嫉妬の妄言」だと断罪された、あの、最大の厄災の「声」。
「エリアナ?」
彼女の顔色が瞬時に変わったことに、セオドアが鋭く気づき、その肩を支える。
「どうした。また生命力を消費したか?」
「いえ、違います……これは……」
エリアナは、混乱する思考の中で、必死に「声」を分析しようとした。 だが、その「声」は、かつてのものとは明らかに異なっていた。
ヴァイス国の「石碑」と完全に調和し、「賢者の塔」のシステムと一体化した、エリアナの良き「パートナー」である『叡智』の「声」。 それは、王都の地下書庫に眠る『古書(の残骸)』から発せられる「悲鳴」を、冷静に「ノイズ」として処理し、エリアナに「報告」として伝えてきた。
『―――[警告]:旧接続先より、制御不能な瘴気シグナルを検知』
『―――[分析]:"旧き地"(王都アルビオン)、地下封印、完全崩壊を開始』
やはり、始まったのだ。
エリアナが、息を呑む。 王都の民衆、宰相、かつて仕えていた書庫の同僚たち……彼らの顔が脳裏をよぎる。 だが、『叡智』の「声」が続けた言葉は、エリアナの感傷を、容赦なく断ち切るものだった。
『―――[危険]:当該シグナル、解読者の魂に逆流汚染の危険性アリ』
『―――[推奨]:即時、接続を断て』
『―――汝の身が、危うい』
「…………!」
エリアナは、目を見開いた。 「声」は、王都を「救え」とは言わなかった。
「声」は、王都の「番人」であったエリアナに、「国を救う責務」を命じなかった。 調和した「叡智」は、ただ、エリアナ・ノエルという「一個人の安全」だけを、最優先事項として、彼女に「逃げろ(接続を断て)」と警告したのだ。
◇◇◇
「……セオドア様」
エリアナは、自分を支えるセオドアの腕の中で、震える声で、しかし冷静に「事実」だけを報告した。
「旧王都で、かつて私が警告した『地下封印』の崩壊が、始まったようです」
「……そうか」
セオドアの表情は変わらない。まるで、隣の家が火事になった、程度の関心しか示さない。
エリアナは、続ける。
「『叡智』が、警告しています。王都の『古書』から漏れ出す瘴気が、私に逆流する危険があると。……だから、『古書』との接続を、切れ、と」
セオドアは、エリアナの報告を聞き終えると、 一瞬、 「やはり愚かな連中だ」と、王都の王族たちを嘲笑うかのように、冷たく目を細めた。
そして次の瞬間、彼は、エリアナの体を、その細い肩を、まるで割れ物でも扱うかのように、力強く、だが優しく、抱きしめた。
「―――切れ」
セオドアの声は、魔術の詠唱のように、絶対的な「即断」だった。
「え……」
「今すぐ切れ、エリアナ」
セオドアは、エリアナの髪に顔をうずめるようにして、彼女にしか聞こえない声で、しかし有無を言わせぬ力強さで命じた。
「君は、もう、あの国の『番人』ではない」
「……!」
「君は、ヴァイス国の『賢者』だ。そして何より―――」
セオドアは、エリアナの肩を掴み、その不安げに揺れる瞳を、真っ直ぐに射抜いた。
「―――私の、妻だ」
王都の事情など、どうでもいい。 あの国が瘴気に飲まれようと、ジュリアンがどうなろうと、それは彼らがエリアナという『本物』を捨てた「対価」だ。
セオドアの関心は、ただ一つ。 自らが見出し、自らが「非合理的」な感情を抱くに至った、この『至宝』の安全だけだった。
「君の魂に、あの愚かな国の汚染を、一滴たりとも混入させるな。それが、私の『王太子』としての、合理的な判断だ」
「セオドア様……」
それは、王都のジュリアンが口にした、「国のため」という「責務」の押し付けとは、似ても似つかない。 エリアナという「個人」の尊厳と安全を、国家よりも優先するという、セオドアなりの、最大の「溺愛」と「庇護」の言葉だった。
◇◇◇
エリアナは、セオドアの腕の中で、深く、深く、息を吸った。 もう、迷いはなかった。
王都での、あの孤独な戦い。 誰にも理解されず、「責務」と「聖約」という「枷」に縛られ、すり減るだけだった日々。 だが、今は違う。 この「声」の価値を信じてくれる人がいる。
私という存在を、「国」のためではなく、「私」として必要としてくれる人がいる。 彼女は、セオドアの胸に顔を預けたまま、静かに目を閉じた。 そして、自らの魂の奥深くで、今もなお悲鳴を上げ続ける「旧き地」の『古書』に向かって、意識の中で語りかけた。
(今まで、ありがとう)
(あなたは、私に「責務」を教えてくれた)
(でも、私はもう、行きます)
彼女は、自分を愛してくれる人の腕の中で、 自分を「番人」として縛り付けていた、 最後の「過去」の呪縛を、 自らの「意志」で、 解き放った。
『―――解読者ノ要求ヲ受諾』
『―――旧接続先トノ同期ヲ、完全ニ遮断シマス』
プツリ、と。
エリアナの脳裏で、何かが決定的に切断される感覚がした。 王都の『古書』が上げていた、あの甲高い悲鳴が、嘘のように消え去る。
もう、聞こえない。 もう、あの国がどうなるのか、彼女には二度と感知できない。
エリアナ・ノエルは、この瞬間、王都アルビオンの「番人」ではなくなった。 そして、時を同じくして。 旧王都アルビオンの、あの埃っぽい地下書庫。
台座の上で、かろうじて「叡智」の残滓を保っていた『古書』の石版は、 最後の「解読者」との接続を失い、 ―――完全に、その機能を、沈黙させた。
王都アルビオンは、 自ら追放した「賢者」によって、 最後の「危機管理システム」をも、 完全に、喪失したのだった。
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(※明日の更新も20:00です)




