第八章 決戦のアンセム、盤上の裏切り
運命の日。帝都中央広場は、人の波で埋め尽くされていた。
リリアン・アンジェールのチャリティ・コンサート。その名は、帝都中の希望の象徴となっていた。先日のテロ騒動の恐怖を癒し、帝国の結束を再び示すための、壮大な儀式。集まった観衆の顔は、誰もが期待と興奮に輝いている。彼らは、聖女の歌声がもたらす、甘美な忘却を求めていた。
広場を見下ろすビルの屋上。思想文化統制局長官シルヴァンは、双眼鏡を手に、満足げにその光景を眺めていた。彼の周囲には、黒服の部下たちと、武装した治安維持部隊の精鋭が控え、蟻一匹這い出る隙もないほどの警備網が敷かれている。
「……愚かな羊の群れだ」
シルヴァンは、嘲るように呟いた。
「彼らは、自分たちの意思でここに集まっているつもりでいる。だが、実際は、私が用意した牧草に群がっているに過ぎない」
彼の部下が、耳にしたインカムからの報告を伝える。
「閣下。地下水道に潜伏していたネズミどもが、動き始めました。『インペリアル・スパイア』の地下動力炉へ向かっている模様です」
「……やはりな」
全ては、シルヴァンの読み通りだった。『アルス・ノヴァ』は、この警備が手薄になった隙を突いて、リュシアを奪還し、再び電波ジャックを試みるだろう。そして、リリアンはリリアンで、リュシアを自らの駒として利用しようとしている。
「リリアンには、予定通り『新生帝国のためのアンセム』を歌わせろ。そして、アルス・ノヴァが放送システムに接触した瞬間、回線を逆探知し、アジトごと消し去れ。スパイアに侵入した部隊も、一匹残らず始末しろ」
「はっ!」
「ああ、それと……」
シルヴァンは、双眼鏡のピントを、インペリアル・スパイアの最上階に合わせた。
「コンサートが終われば、リリアン嬢にも、少しお話を聞く必要がある。皇帝陛下の名を騙り、国家の敵を匿った罪について、ね」
彼の目には、誰も映っていなかった。ただ、勝利という結果だけを見据えていた。白も黒も、全ての駒を盤上から一掃した後の、完璧なチェックメイトを。
『インペリアル・スパイア』地下深く。冷たい金属の壁に囲まれた通路を、カイトたちは息を殺して進んでいた。
「……クソっ、警備ドロイドの数が多すぎる!」
レオが、携帯端末に表示される警備システムの配置図を睨みながら悪態をつく。バートさんの持つ古地図と、レオのハッキング技術を駆使して、ここまで進んできた。だが、帝国の心臓部だけあって、その守りは想像を絶していた。
「二手に分かれる」
バートさんが、冷静に指示を下す。
「私とカイト、他数名は、このまま上層階を目指し、姫様を救出する。レオ、君は残りのメンバーと共に、放送システム制御室を制圧しろ。我々が姫様を確保するまで、何としても持ちこたえるんだ」
「……了解!」
短い言葉を交わし、二つのチームは、それぞれ闇の中へと散っていった。カイトは、腰に下げた警棒を強く握りしめた。
(待ってろよ、ルシィ。必ず……必ず、迎えに行く!)
彼の瞳は、揺るぎない決意の炎に燃えていた。
その頃、ペントハウスに一人残された私は、窓の外で始まったコンサートの喧騒を、他人事のように聞いていた。リリアンは、ステージに上がる直前、私に一枚のカードキーを渡した。
『これは、この部屋の緊急避難経路を開けるためのもの。使うか使わないかは、あなた次第よ』
彼女の真意は、分からない。私を逃がすための温情か。あるいは、私を囮にして、カイトたちをおびき寄せるための罠か。どちらにせよ、私はもう、誰かの筋書きの上で踊るつもりはなかった。私は、部屋の隅に置かれていたグランドピアノの前に座った。そして、静かに鍵盤に指を置く。今、私にできることは一つだけ。歌うこと。たとえ、誰にも届かなくても。この金色の鳥籠の中で、私の魂だけは、自由でなければならない。
中央広場のステージは、熱狂の渦に包まれていた。純白の光を一身に浴びて歌うリリアンは、まさしく降臨した天使だった。その歌声は、人々の心を優しく包み込み、帝国の秩序がもたらす幸福を、疑いようのない真実として魂に刻み込んでいく。
シルヴァンの計画は、完璧に進んでいるかのように見えた。アルス・ノヴァの侵入部隊は、彼の張り巡らせた罠へと、着実に誘い込まれている。民衆は、リリアンの歌に酔いしれている。全てが、終わる。そう、誰もが思った、その瞬間だった。
コンサートのクライマックス。リリアンが、最後の曲――『新生帝国のためのアンセム』を歌い始めようと、息を吸い込んだ、その時。
ブツン!!
帝都中のモニターから、リリアンの姿が消えた。巨大なスピーカーから流れていた美しい音楽も、途絶えた。何事かと、数万人の観衆が、ざわめき始める。
シルヴァンのオフィスに、部下の悲鳴のような報告が響いた。
「閣下!放送システムが……乗っ取られました!」
「馬鹿な!レオのチームは、まだ制御室に到達していないはずだ!」
「分かりません!我々のハッキングではない!外部からの、未知の……!」
シルヴァンの額に、初めて冷たい汗が浮かんだ。盤上に、彼の知らないプレイヤーが、突如として現れたのだ。
次の瞬間。帝都中のモニターに、映像が映し出された。それは、ライブ映像ではなかった。三年前、帝国がクローディア王国に侵攻した際の、記録映像。炎上する王城。逃げ惑う非武装の市民。そして、彼らに無慈悲な刃を向ける、帝国の兵士たち。帝国が、『平和的併合』と称して隠蔽し続けてきた、戦争の、生々しい真実の姿だった。
そして、その衝撃的な映像に、重なるように響き渡る歌声。私の声だ。でも、今の私の声じゃない。もっと幼く、悲痛な……三年前、燃え落ちる城の中で、私が歌ったクローディアの国歌。
映像の最後に、テロップが浮かび上がった。
『真実は、歌声と共にある。偽りの平和に、騙されるな』
広場は、水を打ったように静まり返っていた。観衆は、目の前の光景が信じられず、呆然と立ち尽くしている。リリアンもまた、ステージの上で、血の気の引いた顔でモニターを見上げていた。ペントハウスで、その放送を見ていた私は、全身が震えるのを止められなかった。誰が、これを?
そして、地下通路。インペリアル・スパイアの最上階を目指していたカイトたちの前で、重厚な隔壁が、突如として開いた。隔壁の向こうに立っていたのは、屈強な武装兵の一団。だが、彼らは帝国の紋章を付けてはいなかった。その先頭に立つ、初老の男が、バートさんを見て、静かに敬礼した。
「……シュタイナー副団長。お待ちしておりました」
「……グスタフ将軍。あなたも、生きておられたか」
バートさんの顔に、驚きと、そして深い理解の色が浮かんだ。グスタフ将軍。父王が最も信頼していた、クローディア王国最強の将軍。彼は、三年前の戦いで死んだと、誰もが思っていた。
帝国の盤上で、全ての駒が動きを止める。聖女も、魔女も、策士も、騎士も。誰もが、この予期せぬ乱入者の前で、ただ立ち尽くすしかなかった。本当の革命は、今、始まったのかもしれない。私の知らないところで、私の歌を旗印にして。帝国の最も深い闇の中から。




