第六章 盤上の歌姫、白と黒の密約
時が、凍り付いた。
帝国の聖女リリアン・アンジェールが発した「皇帝陛下の、ご命令です」という言葉は、絶対零度の響きをもって、混沌としたライブハウスの空気を支配した。
「な……何を、馬鹿なことを……」
治安維持部隊隊長ゾルバが、狼狽を隠せずに声を絞り出す。皇帝陛下が、この反乱の首謀者である『魔女』を、トップアイドルであるリリアンに預けるなど、あり得るはずがない。
「これは、思想文化統制局のシルヴァン閣下からの直接命令だ!この女を拘束しろ!」
ゾルバが部下たちに檄を飛ばすが、リリアンは涼しい顔で一枚の通信カードを掲げてみせた。その表面には、帝国の最高権威の象徴である『双頭の黒鷲』の紋章が、電子の光で浮かび上がっている。
「これが、陛下から賜った勅命の証です。シルヴァン閣下のお名前も結構ですが、皇帝陛下のご意志と、どちらが優先されるべきか。ゾルバ隊長、あなたほどの軍人なら、お分かりになりますよね?」
リリアンの瞳が、氷のように冷たくゾルバを射抜く。その威圧感は、ただのアイドルのものではなかった。ゾルバは顔を醜く歪ませ、歯ぎしりした。勅命の証を前にしては、彼に選択の余地はない。
「……ぐっ……!全員、撤退する!」
屈辱にまみれた命令を下し、ゾルバは忌々しげに私を一瞥すると、部隊を引き連れて去っていった。
「ルシィ!」
自由になったカイトが、私に駆け寄ろうとする。だが、その肩を、バートさんが強く掴んで制した。
「待て、カイト。今は、事を荒立てるな」
「しかし!」
「……バートラムの言う通りです」
私は、静かに首を振った。
「これは、罠かもしれない。でも、今は、この流れに乗るしかない」
私の覚悟を察したカイトは、悔しそうに拳を握りしめた。
リリアンは、私に向き直ると、作り物ではない、本物の微笑みを浮かべた。
「さあ、行きましょうか。リュシア・エル・クローディア。……いいえ、今はルシィ、でしたかしら」
彼女は、私の正体を、初めから知っていた。
私が連れてこられたのは、薄汚い地下牢ではなかった。帝都の中央に聳え立つ、天を突くような超高層タワー『インペリアル・スパイア』の最上階。壁一面がガラス張りで、眼下には混乱の爪痕が残る帝都の夜景が、宝石のように広がっている。ここは、リリアン・アンジェールに与えられた、プライベート・ペントハウスだった。
「驚いた?もっと酷い場所を想像していたでしょう」
部屋に入るなり、リリアンは純白のドレスの上着を脱ぎ捨て、ソファに深く身を沈めた。ステージで見せる天使のような姿は、そこにはなかった。あるのは、全てを見透かすような、怜悧で、どこか疲れた表情の、一人の少女の姿。
「……どうして、私を?」
「あなたをシルヴァンに渡せば、どうなるか分かっていたからよ」
リリアンは、テーブルの上のグラスに水を注ぎながら言った。
「あの男は、あなたの歌の『力』に気づいている。彼はあなたを実験動物のように解剖し、その力を帝国のための兵器に作り替えようとするでしょうね。心を壊し、魂を抜き取り、帝国のためだけに歌う、美しい人形に」
その言葉に、私は背筋が凍る思いがした。それは、私が最も恐れていたことだった。
「そんなことはさせない。あなたの歌は、誰かに利用されるべきものじゃないわ」
「……あなたは、私の味方なの?」
私の問いに、リリアンは少しだけ寂しそうに笑った。
「味方、という言葉は正しくないかもしれない。私は、私のやり方で、この腐った帝国を内側から変えたいだけ。シルヴァンのように、恐怖と暴力で民衆を縛り付けるやり方では、いつか必ず破綻する。本当の変革には、恐怖ではなく、『希望』が必要なのよ」
彼女は立ち上がり、窓の外に広がる帝都を見下ろした。
「私は、帝国の光。あなたは、反乱の光。民衆は、あなたの歌に熱狂した。でも、その熱は長くは続かない。彼らは、熱狂の先にある血と暴力に怯え、やがて安定を求める。その時、癒しと救済を歌う私の光が、より強く輝くことになる」
「あなたは、私の起こした革命を、利用するつもりなのね」
「利用、だなんて人聞きの悪いこと言わないで。これは『取引』よ」
リリアンは、私に向き直った。その瞳には、複雑な色が揺らめいていた。
「私は、あなたと、あなたの仲間『アルス・ノヴァ』の安全を、ある程度は保証する。その代わり、あなたは私の手駒になりなさい。私が描く、新しい帝国のための、盤上の駒に」
「……断ると言ったら?」
「シルヴァンが、満面の笑みであなたを迎えに来るだけよ」
ここは、鳥籠。金色の、美しい鳥籠。私は、帝国の聖女という、もう一人の歌姫に囚われたのだ。
思想文化統制局。シルヴァンは、自室のチェス盤の上で、黒のクイーンの駒を指で弾いた。リリアン・アンジェールの独断専行。そして、それを追認したかのような皇帝の不可解な動き。彼の描いた完璧な筋書きは、盤上の外からの予期せぬ一手によって、乱された。
「……面白い」
彼の唇から、笑みがこぼれた。それは、怒りや焦燥ではなく、より複雑で、より危険な遊戯が始まったことへの、純粋な歓喜の笑みだった。
「リリアン。君は、僕というプレイヤーを甘く見ていたようだね。皇帝陛下という、古びたキングの駒を盾にすれば、僕を出し抜けると思ったのかな?」
彼は、白のビショップの駒を手に取った。
「だが、ゲームのルールを作るのは、いつだって僕の方だ」
シルヴァンは、部下に通信を入れた。
「ゾルバ隊長に告げろ。市街地の暴動鎮圧を最優先。ただし、首謀者グループ『アルス・ノヴァ』には、手を出すな」
「……は?しかし、彼らは……」
「泳がせておけ、と言っているんだ。今の彼らは、リリアンが匿う『魔女姫』を救い出そうと、躍起になっているはずだ。その動きを、徹底的に監視しろ」
「……承知いたしました」
通信を切り、シルヴァンは窓の外を見やった。インペリアル・スパイアの最上階が、まるで彼を挑発するかのように、煌々と輝いている。
「さあ、次の手はどうする?聖女様。君が手に入れた黒のクイーンは、君の盤を華やかに彩るだろうが……それは同時に、君のキングを脅かす、最悪の一手になるかもしれないのだから」
帝都の地下水道。湿った空気と悪臭が漂うその場所に、『アルス・ノヴァ』の残党は潜伏していた。電波ジャックの後、帝都には厳戒令が敷かれ、街は完全に軍の管理下に置かれた。私たちは、帝国が公式に指名手配した、第一級のテロリストとなっていた。
「……くそっ!ルシィは、あの塔の最上階にいるんだ!」
カイトが、悔しそうに壁を殴りつけた。
「俺たちのせいで、ルシィが……!」
「落ち着け、カイト」
バートさんが、冷静に彼を諭す。
「姫様は、自ら囚われることを選ばれた。我々が、ここで自暴自棄になっては、姫様の覚悟を無駄にすることになる」
バートさんの言葉に、皆が押し黙る。私たちのリーダーは、敵の手に落ちた。だが、彼女が灯した革命の炎は、まだ消えてはいない。むしろ、帝都中の人々の心の中で、静かに燃え広がっている。
「……これから、どうするんだ」
誰かの不安な声に、バートさんが答えた。
「我々には、まだやるべきことがある。姫様が繋いでくれた、この火を、本当の炎へと育てるんだ」
彼は、一枚の古い地図を広げた。それは、帝都の地下に張り巡らされた、古代の遺跡へと続く道を示していた。
「帝国の狗どもが、光の当たる地上を探し回っている間に、我々は闇の中で力を蓄える。そして、必ずや、姫様を奪還する」
「……ああ!」
カイトの目に、再び闘志の光が宿った。残された仲間たちの瞳にも。
光の世界では、二人の歌姫が、互いの思惑を隠したまま、静かな戦いを始めようとしていた。そして、闇の世界では、奪われた歌姫を取り戻すための、新たな戦いの準備が、着実に進められていた。革命の舞台は、盤上へと移る。白の聖女と、黒の魔女。そして、闇に潜む騎士たち。彼らが次に奏でる旋律は、帝国の運命をどう変えるのか。まだ、誰も知らない。




