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第三章 白の福音、黒の慟哭

帝都に、二つの歌声が響こうとしていた。

一つは、地下深くで燻る革命の狼煙。

そしてもう一つは、帝都の空を覆う、白亜の福音。


中央広場の巨大モニターでは、来る日に開催されるトップアイドル『リリアン・アンジェール』のフリーライブの告知が、一日中流されていた。純白の衣装で微笑む彼女は、帝国が民衆に与える『幸福』の象徴そのものだった。


「見てくれよ、ルシィ。街中、あのアマの顔だらけだ」


『アンダーグラウンド・リベルテ』の薄暗い楽屋で、カイトが苦々しく吐き捨てた。彼はあれ以来、仲間たちと共にライブハウスの警備や雑務を手伝うようになり、私にとって一番の理解者となっていた。


壁に貼られたリリアンのポスターを、私は複雑な気持ちで見つめる。

彼女の歌声は、私も聴いたことがある。完璧な音程、圧倒的な声量、そして何より、聴く者を安心させるような、聖母のような包容力。それは、私の歌とは対極にあるものだった。私の歌が、聴く者の心の奥底に眠る『痛み』や『怒り』を揺り起こすものだとしたら、リリアンの歌は、それら全てを優しく撫でて、眠らせてしまうような歌。


「……すごい人だよ。彼女は」

「何言ってんだよ!あんなの、帝国に都合のいいことばっかり歌ってる、ただのお人形じゃねぇか!魂がねぇんだよ、魂が!」


カイトの言葉は、民衆の声を代弁しているのかもしれない。帝国に飼い慣らされながらも、どこかで皆、飢えていた。心を揺さぶる、本物の叫びを。


「次のライブ、日にちが決まったぞ」


店長のバートさんが、一枚のチラシをテーブルに置いた。

そこには、『ルシィ、再び。その歌声は、雷鳴となる』という文字と共に、三日後の日付が記されている。


――リリアン・アンジェールのフリーライブと、同じ日に。


「バートさん、これは……」

「向こうが仕掛けてきたんだ。こっちも乗ってやるしかねぇだろ」

バートさんの目が、獰猛な光を宿す。

「思想文化統制局のシルヴァン……あの銀髪の狐が、裏で糸を引いている。奴らは、お前の歌をリリアンの歌で完全に『上書き』し、地下の反乱分子をあぶり出して一網打尽にするつもりだ」

「そんな……」


つまり、私のライブに来る人々は、帝国に反逆者としてマークされるということ。私一人の問題ではなくなる。カイトも、他のファンたちも、危険に晒してしまう。


「……怖いか、姫様」

「怖くない、と言ったら嘘になります」

でも、と私は続けた。

「ここで私が歌わなければ、私の歌を信じてくれた人たちを裏切ることになる。そして、帝国の思う壺です」


私は立ち上がり、壁のリリアンのポスターをまっすぐに見据えた。

「やります。私の歌で、証明してみせる。作られた平和の歌よりも、心の底からの叫びの方が、ずっと強いってことを」


私の覚悟を見て、カイトが拳を握りしめる。

「そうだ、それでこそ俺たちの歌姫だ!」「俺たちが絶対、ルシィを守る!」

彼の後ろで、仲間たちが力強く頷いた。彼らの存在が、私の恐怖を勇気に変えてくれる。私はもう、一人じゃない。


ライブ当日。帝都は、二つの熱気に包まれていた。

中央広場は、リリアンのライブが始まる何時間も前から、大勢の観客で埋め尽くされている。白いペンライトが揺れ、彼女の名前を呼ぶ声が波のように広がる。

一方、帝都の裏通りにある『アンダーグラウンド・リベルテ』の前にも、人だかりができていた。その数は、前回の比ではない。噂を聞きつけた者、前回のライブの熱狂を忘れられない者たちが、固唾を飲んで開場を待っていた。その中には、カイトたちの仲間だけでなく、バートさんがどこからか集めてきた、明らかにカタギではない屈強な男たちが、鋭い目つきで周囲を警戒している。


「……来たな」


バートさんが呟く。見ると、通りの向こうから、黒い制服の一団――ゾルバ率いる治安維持部隊が、ゆっくりとこちらへ向かってきていた。彼らはライブハウスを包囲するように陣形を組むが、すぐには踏み込んでこない。まるで、獲物が罠にかかるのを待つ狩人のようだった。


楽屋のモニターに、中央広場の様子が映し出される。眩い光と共に、リリアン・アンジェールがステージに姿を現した。


『皆さん、こんにちは!リリアンです!今日は、帝国と、ここにいる全ての人の平和を願って歌います!』


天使の歌声が、広場全体に響き渡る。それは完璧で、美しく、そしてどこまでも空虚なメロディだった。民衆は、その心地よい響きに恍惚とした表情で聴き入っている。


「……時間だ、ルシィ」


カイトに促され、私はステージへと向かう。心臓が、早鐘のように鳴っている。ステージの袖から客席を覗うと、そこは人々の熱気で蒸せ返るようだった。誰もが、不安と期待が入り混じった顔で、私を待っている。


照明が落ち、一筋のスポットライトが私を照らす。しんと静まり返ったフロアに、私の声だけが響いた。

「……来てくれて、ありがとう」


私は、目を閉じた。思い浮かべるのは、炎に焼かれた故郷。父と母の最期の顔。そして、この灰色の街で出会った、カイトや他の皆の顔。喜び、悲しみ、怒り、希望。その全てを、この歌に込める。


「聴いてください。『慟哭のノクターン』」


静かなピアノのアルペジオから、歌が始まる。それは、全てを失った少女の嘆きの歌。故郷を追われ、名前を捨て、灰色の街を彷徨う絶望を歌った、暗く、悲痛なメロディ。


――月も見えない 瓦礫の街で

――拾い集める 思い出の欠片

――温かいスープの記憶も 優しい子守歌も

――今は遠く 霞んで消える


客席から、すすり泣く声が聞こえる。彼らもまた、帝国に何かを奪われた者たちなのだ。家族、恋人、夢、誇り……。私の歌は、彼らが心の奥底に封じ込めていた痛みを、容赦なく抉り出す。


モニターの中のリリアンは、愛と平和を歌っている。『手を取り合えば、世界は一つになれる』と。なんて、残酷な嘘だろう。奪う者と、奪われる者がいる。この現実から目を逸らして、本当の平和などあるはずがない。


歌は、慟哭のサビへと向かう。


――ああ この痛みよ この悲しみよ

――どうか忘れないでと 胸を抉る

――偽りの光に目を焼かれ 心を殺すくらいなら

――私はこの闇の中で 叫び続ける!


絶叫にも似た私の歌声が、ライブハウスを震わせた。それは、癒しではない。救いですらない。ただ、痛みを共有し、共に嘆き悲しむための歌。だが、その慟哭の底から、一条の光が差し込むように、曲調が転じる。絶望の淵で、それでもなお立ち上がろうとする、強い意志のメロディへと。


――だけど一人じゃないと 君が教えてくれた

――震えるこの手を取って 前を向かせてくれた

――だから歌うよ 夜明けを信じて!

――涙の向こうに 明日を創るため!


客席の全員が、拳を突き上げていた。涙を流しながら、それでも、その瞳には燃えるような光が宿っていた。彼らはもう、ただ嘆くだけの弱者ではない。痛みを力に変えて、立ち上がろうとする戦士だ。


歌い終えた私を、割れんばかりの拍手と歓声が包んだ。「ルシィ!」「ルシィ!」その声は、前回よりもずっと強く、確かな意志を持った叫びとなっていた。


その時だった。ガシャン!と、店のドアが破壊される音が響き渡った。

「全員、動くな!思想文化統制法違反の現行犯で、全員逮捕する!」

ゾルバ率いる治安維持部隊が、一斉になだれ込んできた。


「させるかよ!」

カイトたちが、客を守るように部隊の前に立ちはだかる。ライブハウスは、一瞬にして戦場と化した。


思想文化統制局のオフィスで、シルヴァンがモニターを見ながら呟いた。

「……見事なものだね」

片方のモニターには、リリアンの歌に熱狂する中央広場の『光』の世界が。もう片方には、治安維持部隊と民衆が衝突する、地下の『闇』の世界が映し出されている。

「民衆を扇動し、反乱を誘発した罪。これで、あの歌姫を『処分』する大義名分が立った」

シルヴァンは、満足げに微笑む。全ては、彼の筋書き通りだった。


だが、その時。地下のライブハウスを映すモニターに、異変が起きた。乱闘の最中、ステージに残っていた私が、再びマイクを握ったのだ。そして、アカペラで歌い始めた。それは、故郷クローディアの国歌。かつて、父王が民と共に歌った、希望の歌。


私の清冽な歌声が、怒号と悲鳴に満ちた戦場に響き渡る。すると、殴り合っていたカイトたちも、警棒を振り下ろそうとしていた隊員たちも、その動きを止めた。歌は、ただの音の連なりではなかった。それは、亡国の王女が、その血と魂の全てを懸けて放つ、魂の叫びだった。その歌声には、聴く者の闘争心を鎮め、心の奥にある良心に直接語りかけるような、不思議な力が宿っていた。


「……な、なんだ、この歌は……」

前線で指揮を執っていたゾルバが、狼狽する。部下たちの動きが、明らかに鈍っているのだ。それどころか、何人かは警棒を取り落とし、呆然とステージを見つめている。彼らもまた、帝国に心を殺された、一人の人間だったのだ。


「……面白い」

シルヴァンの目が、初めて愉悦以外の色を宿した。それは、未知の現象に対する、純粋な『興味』。

「歌が、人の行動をここまで支配するとは。リュシア・エル・クローディア……君は、僕の研究対象として、実に興味深い」

彼は部下に命じた。

「ゾルバに伝えろ。今日のところは、撤退させろ、と」

「しかし、よろしいのですか?」

「ああ。獲物は、もう少し泳がせておいた方が、面白い」


シルヴァンの命令を受け、治安維持部隊は潮が引くように撤退していった。後に残されたのは、破壊された店内と、呆然と立ち尽くす人々。そして、ステージの上で、静かに歌い終えた私。


「……ルシィ」

カイトが、傷だらけの顔で私を見上げる。その瞳には、畏敬の念が浮かんでいた。


私の歌が、またしても奇跡を起こした。だが、私は分かっていた。これは、本当の勝利ではない。帝国の本当の恐ろしさは、こんなものではないということを。灰色の帝都の地下で生まれた小さな革命の炎は、今や、帝国中枢も無視できないほど、大きく燃え上がろうとしていた。白の福音と、黒の慟哭。二つの歌声の戦いは、まだ始まったばかりだった。

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