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第二章 動き出す世界、戸惑いの歌姫

帝都の中枢、『黒鷲の城塞』の一室。磨き上げられた黒曜石の床に、治安維持部隊隊長ゾルバが膝をついていた。彼の額には脂汗が滲んでいる。


「……つまり貴官は、たった一人の小娘の歌と、それに扇動された烏合の衆に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ帰ってきた、と。そう報告しているのかね?」


執務机の向こう側から響く声は、剃刀のように冷たい。声の主、ゾルバの上官である将軍は、表情一つ変えずに報告書に目を通している。


「も、申し訳ありません!しかし、あの歌には何か……民衆を狂わせる魔力のようなものが……」

「言い訳は聞きたくない。反乱の芽は、それがどれほど小さくとも、芽吹く前に根こそぎ焼き払うのが帝国の鉄則だ。分かっているな?」

「はっ!」


将軍が顎で示すと、部屋の隅の影から、すっと一人の青年が現れた。陽の光を知らないかのような白い肌に、月光を思わせる銀色の髪。仕立ての良い黒い官僚服をまとったその青年は、人形めいた無表情でゾルバを見下ろした。


「思想文化統制局のシルヴァンだ。ゾルバ隊長、今後の指揮権は一時的に我々が預かる」

「なっ……!?」

「『ルシィ』と名乗る歌姫の件、我々が『処理』する。貴官は我々の指示があるまで、部隊と共に待機していればいい」


シルヴァンと名乗った青年は、まるで壊れた玩具を見るかのような目でゾルバを一瞥すると、興味を失ったように将軍へと向き直る。

「閣下。件のアイドルの身元、および楽曲の解析を進めていますが、非常に興味深い結果が出ています」

「ほう?」

「あの歌……メロディラインの根幹にあるのは、三年前、我が帝国が併合したクローディア王国の王室に伝わる古謡です」


その言葉に、将軍の眉が僅かに動いた。

「クローディアの亡霊、か。面倒なことだ」

「ご安心を。亡霊には、より美しい『天使』の歌声をぶつければよろしい。民衆とは、常に新しい光に群がる愚かな虫なのですから」


シルヴァンの唇に、初めて微かな笑みが浮かんだ。それは、盤上の駒を動かす遊戯者の、残酷な笑みだった。


翌日。パンの焼ける香りが満ちる店の中で、私の心は落ち着かなかった。耳の奥で、昨夜の歓声が鳴りやまない。『ルシィ』コールと、人々の熱狂が。


「ルーシー!手が止まってるよ!ほら、この黒パンを十二番地のフーガさんちに届けておくれ!」

「あ、はい!すみません!」


女将さんに叱咤され、私は我に返る。そうだ、私はルーシー。パン屋の店員。それが、今の私の仮面。けれど、昨夜の出来事は、その仮面に隠れた私の本当の顔――リュシア・エル・クローディアの魂を、激しく揺さぶっていた。


配達用の自転車を走らせながら、街の空気に違和感を覚える。いつもは灰色の沈黙に支配されているはずの広場や路地裏で、人々がひそひそと何かを囁き合っているのだ。


「聞いたか?昨日の地下ライブの話」

「歌で治安維持部隊を追い払ったんだって?」

「その子の名前、『ルシィ』って言うらしいぜ……」


自分の偽名が、まるで伝説の英雄のように語られている。嬉しい、という気持ちよりも先に、恐怖が背筋を駆け上った。違う。私はそんなつもりじゃなかった。ただ、父様と母様に教わった歌を、この息苦しい世界にもう一度響かせたかっただけ。人々を危険な革命ごっこに巻き込むためじゃない。


考え事をしていたせいで、角から飛び出してきた男とぶつかりそうになった。

「わっ!」「おっと、危ねぇ!」

がっしりとした腕が、倒れそうになった私の体を支えてくれる。見上げると、そこにいたのは……。


「あんたは……昨日の!」

「よぉ。パン屋だったのか」


ニカッと笑ったのは、昨夜、一番に私を庇ってくれた、あの作業着の青年だった。

「助けてくれて、ありがとう」

「いいってことよ。俺はカイト。あんたは、ルシィ……でいいのか?」

「……ええ」


カイトは、少し照れたように頭を掻いた。

「昨日の歌、マジで凄かった。俺、生まれてこの方、帝都から出たこともねぇし、毎日ただ働いて、飯食って、寝るだけだった。未来なんて考えたこともなかった。でもよ……」

彼の瞳が、真剣な光を宿す。

「あんたの歌を聴いて、初めて『生きてる』って感じがしたんだ。心が震えるって、こういうことなんだなって。だから……もう一度聴きたい。いや、俺だけじゃねぇ。街の奴ら、みんなあんたの歌を待ってるんだぜ!」


まっすぐな言葉。純粋な期待。それが、今の私にはあまりにも重かった。私が歌えば、カイトのような人たちがもっと集まるだろう。そして帝国は、それを決して許さない。昨夜は運が良かっただけだ。次は、きっと……。


「……ごめんなさい。私、もう歌うつもりは……」


言いかけた私の言葉は、カイトの背後で起きた光景に遮られた。帝国の治安維持部隊が、一人の露天商の男を殴りつけている。理由は、売上の一部を上納しなかった、という些細なことだ。周りの人々は、昨日までの彼らのように、ただ俯いて通り過ぎるだけ。


――何も、変わっていないじゃない。


昨夜の熱狂は、一夜限りの夢だったのか?私の歌は、結局、この灰色の現実の前では無力なのか?

唇を噛む私の前で、カイトが動いた。彼は殴られている露天商と治安維持部隊の間に割って入った。


「そこまでにしろよ!」

「なんだ、また貴様か。昨日ルシィとかいう女を庇ってた……」


隊員が嘲笑い、警棒を振り上げる。もうダメだ!そう思った瞬間。

「やめろ!」「そいつを離せ!」

カイトの後に続くように、二人、三人と、周囲の若者たちが声を上げたのだ。彼らの顔には見覚えがあった。昨夜、ライブハウスで拳を突き上げていた人たちだ。


「な……貴様ら!」


たった一人で立ち向かったカイトの後ろに、壁ができた。私の歌を聴いてくれた人々が、今、カイトの勇気に呼応して、帝国に立ち向かっている。彼らはもう、無力な群衆じゃなかった。治安維持部隊は、予想外の抵抗に怯み、忌々しげにその場を去っていった。カイトと若者たちは、ハイタッチをして笑い合う。その顔は、希望に輝いていた。


それを見て、私は悟った。もう、後戻りはできない。火は、もう放たれてしまったのだ。私の歌によって。


その夜、私は再び『アンダーグラウンド・リベルテ』のドアを叩いた。カウンターでは、強面の店長バートさんが黙々とグラスを磨いていた。


「……来たか」

「はい」

「次のライブ、どうする。もう街中に噂が広まってる。帝国の犬どもも、この店を嗅ぎまわってるぜ。やめるなら、今のうちだ」


バートさんの目が、私を試すように射抜く。その眼光は、ただのライブハウスの店主のものではなかった。幾多の戦場を潜り抜けてきた兵士の目だ。


私は、息を吸い込んだ。昼間のカイトたちの姿が、脳裏に焼き付いて離れない。私の歌が、彼らに立ち上がる勇気を与えたのなら。私が歌うのをやめれば、あの灯りも消えてしまうかもしれない。


「私が歌うことで、誰かが傷つくかもしれない。それは、とても怖い」

「……ああ」

「でも、私が歌わないことで、誰かの心の光が消えてしまうなら……それは、もっと怖い」


私は顔を上げた。瞳の奥に、王女としての覚悟の炎を灯して。

「バートさん。私、歌います。私の歌を待ってくれる人が、一人でもいる限り」


その答えを聞いて、バートさんの口元が、初めてわずかに緩んだ。

「……そう言うと思ってたぜ。クローディアの姫様は、親父殿に似て、肝が据わってる」

「え……?」


今、なんて?私が聞き返すより早く、店のドアが勢いよく開いた。

「ルシィ!やっぱり来てたんだな!」


カイトだった。彼の後ろには、昼間の若者たちや、昨夜ライブに来ていた客たちが、十数人も集まっていた。

「次のライブはいつだ!?」「俺たち、用心棒でも何でもするぜ!」「だから、あんたの歌を聴かせてくれ!」


彼らの熱のこもった瞳が、私に突き刺さる。これが、私の民。私が守り、導くべき人々。

「……分かりました。歌います」

私は微笑んだ。もう、迷いはない。

「次のライブで、新しい歌を歌います。私たちのための、歌を」


その言葉に、歓声が上がる。私と、カイトと、名もなき若者たち。灰色の帝都の地下で、小さな、しかし確かな熱を持った『革命軍』が産声を上げた瞬間だった。


その頃、帝都で最も華やかな中央広場の巨大モニターに、新しい映像が映し出されていた。純白のドレスに身を包み、天使のような微笑みを浮かべる一人の少女。帝国の絶対的トップアイドル、『リリアン・アンジェール』だ。


『帝都の皆さん、こんにちは!今度、私の新しい歌を、この広場でお届けします!帝国に捧げる、愛と平和の歌です!』


その甘い声は、シルヴァンのオフィスにも響いていた。彼は窓の外、リリアンに熱狂する無邪気な民衆を見下ろし、冷ややかに呟いた。

「さあ、始めようか、ルシィ。偽りの歌姫。君のメロディを、僕の『天使』が喰らい尽くす、ショーの始まりだ」

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