第一章 灰色の街に、一輪の歌を
蒸気と煤煙が空を覆う、灰色の街。それが『新帝都』。
巨大なモニターが聳え立ち、そこからは現皇帝、ガイウス・フォン・シュヴァルツの尊顔が、感情のない瞳で民衆を見下ろしている。
『帝国に栄光あれ!秩序こそが諸君を幸福に導く唯一の道である!』
抑揚のないプロパガンダ放送が、街に響き渡る。道行く人々の顔にもまた、表情というものがなかった。虚ろな瞳で足元を見つめ、決められた道を歩くだけの、まるで操り人形の群れ。
「……っ」
路地裏の安アパートの窓からその光景を見下ろし、私――リュシアは、唇を噛みしめた。
金色の髪は染料でくすんだ茶色に、空色だったはずの瞳は、度の入っていない野暮ったい眼鏡で隠している。今は『ルーシー』という偽名で、パン屋の住み込み店員として息を潜めていた。
「ルーシー!まだぼさっとしてるのかい!配達に行くよ!」
「は、はい!今行きます!」
階下からの女将さんの声に、私は慌てて返事をする。
亡国の王女が、帝都でパンの配達。数奇な運命だと、自分でも思う。けれど、これが現実だ。生き延びるための、私の日常。
配達用の古い自転車を走らせながら、すれ違う人々の顔を見る。誰もが希望を失っている。帝国がもたらした『秩序』とは、心を殺して生きることと同義だった。彼らの心に、もう一度光を灯すことはできないだろうか。父様、母様。私にできることは、本当に……。
そんなことを考えていた時だった。
ガシャン、とけたたましい音がして、前を歩いていた老婆が籠から落としたリンゴが、石畳に散らばった。
「こら!どこに目をつけている!俺様の服が汚れただろうが!」
老婆に怒鳴りつけているのは、黒い制服に身を包んだ帝国の治安維持部隊の男だった。その胸には、帝国の象徴である『黒鷲』の紋章が鈍く光っている。
「も、申し訳ありません……」
「謝って済むか!この薄汚いリンゴを拾って、俺の靴を舐めて詫びろ!」
理不尽な暴力。誰もが眉をひそめるが、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。誰も、逆らえないのだ。帝国という巨大な力に。
「……やめなさい」
気づいた時には、声が出ていた。
自転車を止め、男の前に立ちはだかる。私の足は、恐怖に震えていた。けれど、引くことはできなかった。
「なんだ、貴様は。こいつの仲間か?」
「見てわからないの?お年寄りが困っているでしょう」
「それがどうした。帝国の秩序を乱す者は、誰であろうと罰せられる。それがルールだ」
男がせせら笑う。その目が、私の顔を値踏みするように見た。
マズい。目立ってはいけない。正体がバレれば、今度こそ……。
「……待てよ。お前、どこかで……」
男が眉をひそめた、その時だった。
「おい、ゾルバ!何をもたもたしている!持ち場に戻れ!」
別の隊員の声に、ゾルバと呼ばれた男は忌々しげに舌打ちをした。
「……チッ。運のいい奴らだ。おい、小娘。その顔、覚えておくからな」
捨て台詞を残して男たちが去っていく。私はその場にへなへなと座り込みそうになるのを、必死でこらえた。荒くなる呼吸を整え、老婆と一緒にリンゴを拾う。
「ありがとう、お嬢さん……。危ないところを……」
「いいえ……。気をつけて」
老婆は何度も頭を下げて去っていく。
私は、自分の無力さに拳を握りしめた。こんな小さな抵抗が、何になるというのだろう。もっと、もっと大きな力でなければ、この灰色の世界は変えられない。
――私には、歌がある。
夜。パン屋の仕事を終えた私は、ネオンの光も届かない、裏寂れた地区へと向かっていた。目的は、地下へと続く錆びついた階段の先にあるライブハウス『アンダーグラウンド・リベルテ』。ここが、私のもう一つの居場所。そして、私の戦場だ。
薄暗いカウンターにいた強面の店長が、ぶっきらぼうに声をかけてくる。
「お、ルシィ。今夜も頼むぜ」
彼は私の素性を知らない。ただの『歌が好きな小娘』だと思っている。それでいい。
楽屋に入り、地味な店員服から、ステージ衣装に着替える。黒を基調とした、少しだけフリルのついたゴシック調のドレス。眼鏡を外し、くすんだ茶髪を整える。鏡に映るのは、亡国の王女でも、パン屋の店員でもない。地下アイドル『ルシィ』としての私だ。
今夜の客入りは、まばらだった。十数人いただろうか。皆、帝都での日々の労働に疲れ果て、虚ろな目で酒を呷っている。彼らは癒しを求めているのかもしれない。あるいは、ただ現実を忘れたいだけなのかもしれない。
ステージの照明が、私を照らす。一曲目は、帝国で流行っている当たり障りのないラブソング。無難な選曲。手拍子をする客もいるが、そこに熱はない。私もまた、心を込めて歌うことができない。これは、私の歌じゃないから。
一曲目が終わり、短い静寂が訪れる。
私はマイクを握りしめ、息を吸った。
「……聴いてくれて、ありがとう」
ぽつり、と呟く。
「この街は、いつも灰色で……。空の色さえ、忘れてしまいそうになる時があります。皆、心の中に、本当は見たい色があるはずなのに。本当は叫びたい言葉があるはずなのに。……それを、無理やり押さえつけて生きている」
客たちが、ざわめき始める。何を言い出すんだ、このアイドルは、と。
「だから……歌います。忘れてしまった色を、言葉を、取り戻すために。私の、本当の歌を」
イントロが流れ出す。それは、私が滅びた故郷で、母から教わった子守歌をアレンジした曲。静かで、どこか悲しみを帯びたメロディ。けれど、その奥には決して消えない炎のような、強い意志を込めた。
――灰に埋もれた 一粒の種
――涙の雨だけが それを濡らすけど
――忘れないで 心の奥に咲く
――ルシリアの花 その白さを
客席の空気が、変わっていくのが肌で感じられた。酒を飲む手を止め、ステージを食い入るように見つめる男。俯いて、肩を震わせる女。誰もが、その歌に、自分自身の失われた何かを重ねているようだった。
――奪われた空 偽りの青
――歌えなくなった カナリアの嘆き
――思い出して 本当の空の色
――翼がなくとも 心は飛べるはず
サビに向かって、メロディが熱を帯びていく。私の声に、力がこもる。これはもう、ただの歌じゃない。祈りだ。願いだ。この灰色の世界に対する、私の宣戦布告だ!
――叫べ! 声が枯れるまで!
――響け! 夜の向こうへ!
――夜明けはきっと来るから 光をその手に!
――革命のメロディは 今、此処に生まれた!
歌い終えた瞬間、爆発的な拍手と歓声が、狭いライブハウスを揺るがした。さっきまでの虚ろな瞳じゃない。皆の瞳に、確かな熱が宿っていた。
「……すげぇ」「なんだよ、今の歌……」「涙が、止まらねぇ……」
その時だった。
「やかましいぞ!何事だ!」
店のドアが乱暴に蹴破られ、黒い制服の集団――帝国の治安維持部隊が雪崩れ込んできた。先頭にいたのは、昼間、老婆に絡んでいたゾルバだった。
「貴様らか!反帝国的な歌で民衆を扇動している不届き者は!」
ゾルバの目が、ステージ上の私を捉える。
「……昼間の小娘か!やはり貴様、ただの一般市民ではなかったな!その歌、帝国への反逆とみなし、即刻拘束する!」
隊員たちが、ステージに上がろうとする。客たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。
――これまでだ。
私が覚悟を決めた、その時。
「待てよ」
一人の青年が、治安維持部隊の前に立ちはだかった。年の頃は私より少し上だろうか。使い古された作業着を着た、どこにでもいるような青年だ。彼は、さっきまで最前列で、拳を握りしめて私の歌を聴いていた。
「なんだ貴様は!どけ!」
「この歌のどこが悪い!俺たちは、この子の歌を聴きに来たんだ!俺たちの楽しみを、てめぇらが奪う権利はねぇ!」
青年の叫びが、引き金だった。
「そうだそうだ!」「俺たちの自由を奪うな!」「出ていけ!」
逃げ惑うだけだったはずの客たちが、次々と声を上げ始めたのだ。彼らはもう、無気力な操り人形じゃなかった。自分の意志で、帝国に立ち向かおうとしている。
私の歌が……届いた?
ゾルバが顔を醜く歪ませる。
「……愚民どもが。全員、反逆者として捕らえろ!」
隊員たちが警棒を抜き、暴力で人々を黙らせようとする。ダメだ。このままでは、皆が傷つけられる。私は、マイクを握りしめた。そして、アカペラで、もう一度歌い始めた。
――叫べ! 声が枯れるまで!
――響け! 夜の向こうへ!
私の歌声が、混沌としたフロアに響き渡る。すると、殴りかかろうとしていた客も、警棒を振り上げていた隊員も、ぴたりと動きを止めた。誰もが、私の歌に聴き入っている。そして、一人、また一人と、私の歌に合わせて口ずさみ始めた。それはやがて、ライブハウス全体を揺るがす大合唱となった。
武器を持たない、ただの歌声。だがそれは、帝国の暴力よりも、何倍も強かった。治安維持部隊は、その異様な光景と、人々の瞳に宿る揺るぎない光に気圧され、じりじりと後ずさる。
「……お、覚えていろ!」
ゾルバはそれだけを言い残し、部下を引き連れて逃げるように去っていった。
後に残されたのは、興奮と熱狂の渦だった。「ルシィ!」「ルシィ!」と、私の名前を呼ぶ声が鳴りやまない。
私は、ステージの上で呆然と立ち尽くしていた。自分の歌が持つ、信じられないほどの力を目の当たりにして。
――私の歌が、世界を変える……?
――いいえ。変えるのかもしれない。
灰色の街の、地下深く。今夜、確かに革命の産声が上がったのだ。一人の亡国アイドルの歌声によって。そして、そのライブハウスの熱狂を、建物の屋上から冷ややかに見下ろす一つの影があったことを、まだ誰も知らなかった。




