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第九章 崩壊の序曲、灰色の真実

帝都は、沈黙に支配されていた。

クローディア侵攻の真実を映し出す映像と、私の悲痛な歌声は、帝国の作り上げた『平和』という名の薄氷を、無慈悲に打ち砕いた。中央広場の観衆は、熱狂から一転、恐怖と混乱の淵に突き落とされ、ただ呆然と立ち尽くしている。何が真実で、何が嘘なのか。信じていた世界が、足元から崩れ落ちていく感覚に、誰もが言葉を失っていた。


ビルの屋上で、シルヴァンは双眼鏡を落としそうになるのを、かろうじて堪えた。その怜悧な表情からは、かつての余裕が完全に消え失せ、焦燥と、そして屈辱の色が浮かんでいた。

「……グスタフ……!あの亡霊、生きていたのか……!」

クローディア王国の猛将、グスタフ。三年前、彼の部隊は最後まで帝国軍に抵抗し、そして玉砕したはずだった。シルヴァン自身、その報告書に目を通している。


「閣下!どういたしますか!」

「……決まっている。これは、クローディアの残党による、卑劣な情報テロだ!全軍に通達!広場の群衆を『保護』の名目で鎮圧!同時に、インペリアル・スパイアに突入したテロリスト、及び、この放送の発信源を、全力で叩き潰せ!」

シルヴァンの声が、怒りに震える。彼の完璧なチェス盤は、盤外から現れたゴーストによって、無残にもひっくり返されたのだ。だが、彼はまだゲームを諦めてはいなかった。駒が散乱したのなら、力で盤上を制圧するまで。


ステージの上では、リリアンが血の気の引いた顔で立ち尽くしていた。彼女が歌うはずだった『新生帝国のためのアンセム』は、もう誰の心にも響かないだろう。彼女が築き上げてきた『希望』の歌は、残酷な『真実』の映像の前では、あまりにも無力だった。彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、帝国の聖女としてではなく、ただの無力な少女としての、絶望の涙だった。


インペリアル・スパイア上層階。突如として現れた、グスタフ将軍率いる旧クローディア王国兵の精鋭部隊。彼らは、帝国兵とは比べ物にならないほどの練度と、そして何より、揺るぎない覚悟を持っていた。


「……将軍。一体、どうやって……」

バートさんの問いに、グスタフ将軍は短く答えた。

「我々は死んだのではない。死んだふりをして、帝国の最も深い闇に潜っていただけだ。この日のために」


彼の言葉によれば、彼らは三年間、帝国の軍内部に潜伏し、あるいは帝都の地下深くに築かれた秘密都市で、反撃の機会を窺っていたのだという。そして、私の歌声が、彼らが立ち上がるための、最後の引き金となった。

「リュシア様の歌は、我々が忘れかけていたクローディアの魂を、再び呼び覚ましてくれた。姫様こそが、我々の希望の旗印なのだ」


グスタフ将軍は、カイトの肩を叩いた。

「若き騎士よ。君の勇気と、姫を想うその心、見事だった。さあ、行くがいい。姫は、君を待っておられる」


彼らが、あっという間に通路の帝国兵を制圧していく。その隙に、カイトは一人、ペントハウスへと続く最後の通路を駆け抜けた。カードキーを使い、重いドアを開ける。そこにいたのは、グランドピアノの前に座り、静かに窓の外を見つめる私の姿だった。


「……ルシィ!」

カイトの声に、私はゆっくりと振り返る。その顔に浮かんでいたのは、驚きではなかった。全てを悟ったかのような、穏やかな微笑みだった。

「……来てくれると、信じてた」

「当たり前だろ!迎えに来たんだ!」


カイトが駆け寄り、私の手を強く握る。その温かさが、鳥籠の中で凍てついていた私の心を、ゆっくりと溶かしていく。

「……行こう。俺たちの場所に」


しかし、私たちが部屋を出ようとした、その時。ペントハウスのメインエントランスが開き、一人の人物が入ってきた。銀色の髪、人形のような無表情。シルヴァンだった。

「……やれやれ。主役たちが、ようやく僕の舞台に揃ったようだね」

彼の背後には、最新鋭の戦闘スーツに身を包んだ、思想文化統制局直属の特殊部隊が、銃口をこちらに向けていた。


シルヴァンは、まるで観劇の感想を述べるかのように、手を叩いた。

「素晴らしい茶番だったよ、グスタフ将軍。そして、君もだ、リュシア・エル・クローディア。君の歌は、僕の計算を何度も狂わせてくれた。実に、楽しませてもらった」

彼の目は、もはやチェスプレイヤーのそれではなく、全てを破壊し尽くす、狂気に満ちた光を宿していた。

「だが、ゲームは終わりだ。君たちがどんな奇跡を起こそうと、どんな真実を暴露しようと、この帝国というシステムそのものを破壊することはできない。なぜなら……」


シルヴァンは、ゆっくりと、衝撃的な言葉を口にした。

「皇帝陛下は、もう、この世にはおられないのだから」

「……何?」

「ガイウス陛下は、三年前のクローディア侵攻の心労がたたり、とうの昔に崩御されている。今の帝国を動かしているのは、陛下の遺志を継いだ、我々官僚機構そのものだ。つまり、僕だよ」


皇帝は、すでに存在しない。帝国とは、シルヴァンが作り上げた、巨大な虚像。私たちは、存在しない王を相手に、戦いを挑んでいたのだ。

「……狂ってる」

カイトが、吐き捨てるように言った。

「全ては、君の思い通りに世界を動かすための、壮大な人形劇だったというわけか!」

「その通りだ」

シルヴァンは、心底楽しそうに笑った。

「そして、その仕上げに、君たちには死んでもらう。クローディアの亡霊は、帝国の英雄である僕が討ち果たした、とね。民衆は、分かりやすい物語を歓迎する」


特殊部隊の銃口が、火を噴こうとした、その瞬間。

「――それは、どうかしら」


凛とした声が、部屋に響いた。声の主は、いつの間にかペントハウスに戻ってきていた、リリアンだった。彼女は、ステージ衣装のまま、毅然とした態度でシルヴァンの前に立ちはだかる。

「……リリアン。君まで、僕に刃向かうのかい?君を、この帝国の聖女に仕立て上げてやったのは、この僕だというのに」

「ええ、そうね。だから、終わらせに来たの。あなたが作った、この歪んだ舞台を」


リリアンは、小さなペンダントを握りしめていた。そして、静かに歌い始めた。それは、私が今まで聴いたことのない、不思議な旋律の歌だった。皇帝のアンセムでも、癒しの歌でもない。どこか古めかしく、厳かで、そして、何かを『起動』させるための、鍵のような歌。

すると、シルヴァンの背後にいた特殊部隊の動きが、ぴたりと止まった。彼らが装着していた戦闘スーツの各所が、赤い警告灯を点滅させている。


「……な、なんだと……?なぜ、君が『プロトコル・ゼロ』の起動コードを……!」

シルヴァンが、生まれて初めて、狼狽を隠せないでいた。リリアンは、悲しい瞳で彼を見つめながら、歌い続ける。

「あなただけじゃないのよ、シルヴァン。この帝国という鳥籠の中で、未来を憂いていたのは」

「……父様から、託されたから。この国を、民を、そして……道を誤った、あなたのことを、止めてほしいと」


リリアンの口から語られた『父様』という言葉。その意味を悟ったシルヴァンの顔が、絶望に染まっていく。

帝都の空に、二人の歌姫の声が響く。一人は、帝国の欺瞞を暴く、革命の歌を。もう一人は、帝国のシステムそのものを停止させる、鎮魂の歌を。

崩壊の序曲が、鳴り響いていた。灰色の帝国の、本当の終わりのために。

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