臆病者の船出
トロイとゲルニカ。まったく対照的な二人の逃走劇から始まる今回の物語。
恐怖と混乱の中、それでも前に進もうとするトロイの姿を、どうか見届けてほしいです。
命を守るための嘘。
命を賭けるための決断。
そして、白い装束の男が見せる、“騎士”としての横顔とは――。
「上だっ! 屋上に上がれ!!」
怒号とともに、武装した男たちが一斉に階段を駆け上がる。
重たい足音と金属音が建物に響き渡る中、そのうちの一人が、不意に足を止めた。半開きになった扉に目を留めたのだ。
「……?」
不審に思いながらも、男はゆっくりとドアノブに手をかける。
右手に銃を構えたまま、意を決して扉を押し開いた。
中は、清掃道具が乱雑に詰め込まれた物置だった。
雑然とした空間に人の気配はない。小さく鼻を鳴らすと、男は警戒を解いて駆け足で屋上へと消えていった。
――バサッ。
空気を裂くような音とともに、壁際にあった大きな傘がゆっくりと折りたたまれる。
その陰から、白い装束の男と、息を切らすトロイが現れた。
「……危なかったね」
尻餅をついていたトロイに手を差し出すと、男は柔らかく微笑んだ。
トロイは戸惑いながらも、その手を取って立ち上がる。
「……あの……」
「礼はいいよ。それより――救難信号を出したのは、君だよね?」
「えっ……ええ。仲間が、連れて行かれて……」
「この建物の先だね?」
男が手元のデバイスを操作すると、立体映像が空間に浮かび上がった。
映し出されたのは、トロイが仲間を追ってたどり着いた、あの建物だった。
「ここ、です……間違いありません」
男はしばらく黙ってモニターを見つめると、映像を消し、顎に手を添えながら小さく頷いた。
「……奇遇だな。僕も、そこに用事がある。ちょうどいい、君の仲間を助けに行こう」
「ほ、本当ですか!? お願いします!」
トロイは思わず頭を下げた。これで、カイルは助かる。希望が見えた――そう思った、その時だった。
「ん……“お願いします”?」
男がくるりと振り返る。
「勘違いしないで。君も一緒に来るんだよ」
その言葉とともに、彼はトロイの手をぐいと引いた。
「えっ!?」
想定外の展開に、トロイは慌てて手を振り解いた。
「お、俺なんか……何の役にも立ちません! 今だって……パニックで、気が狂いそうで……!」
「でも、仲間は君のせいで捕まったんだろう?」
その一言に、トロイの身体がピクリと揺れる。
「それなのに、自分だけ助かろうとしてるのかい? それで本当に、いいのか?」
「……っ、でも……戦えない……俺は、臆病者なんです……だから……」
言葉の端々が震えている。
本当は分かっているのだ。逃げてばかりではいけないと。
でも、それでも……怖い。
命のやり取りの場に立つことが、たまらなく恐ろしいのだ。
「怖いのは、みんな同じだよ」
男は声を落とし、トロイの目をまっすぐに見つめた。
「でも、その恐怖を乗り越えなければ、生きていけない世界なんだ」
トロイは俯き、唇を噛み締める。
自分には、無理だ。事務員に戻りたい。戦場ではなく、机の前で平和な仕事を――。
「……俺、元々は事務員だったんです。だから……また事務員に戻ります。こんな仕事、俺には合わないんです」
そう呟いたトロイに、男はやれやれとばかりにため息をついた。
「上にはいないぞ! まだこの辺に隠れてるはずだ! ネズミを探し出せッ!!」
上階から響く怒声。
二人は目を合わせると、言葉も交わさず動き出した。
「話はあとだ。今はここから離れよう」
男に促され、トロイはまた走り出す。
二人は廃車の影に身を潜め、低く姿勢を保ちながら、ゆっくりと前進していった。
建物の外では兵士たちが徘徊し、トロイを見つけ出そうと目を光らせている。
緊張で息を止めるような時間が過ぎていく中、ゲルニカは手慣れた動きで別の建物の裏手へと回り込んだ。
やがて、人の気配がない場所を見つけ、二人はそこへと滑り込む。
荒れた室内に入ると、ゲルニカは手早く扉を閉め、壊れた棚や椅子でバリケードを作り上げた。
「これで、少しは休めるだろう」
埃をかぶったソファに腰を下ろし、肩の力を抜くゲルニカ。
トロイは壁に背を預けてその場にしゃがみ込み、大きく息を吐いた。
「……さて、さっきの話の続きだ」
ゲルニカは思い出したように言った。
「君は元々、事務員だった。なのに、どうして現場に?」
トロイはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……待遇が良かったんです。現場に出れば、配給も増えるし、診察も優先してもらえる。生きていくには……悪くない条件だったんです」
彼の声は静かだったが、そこに潜む現実は重い。
「事務員だった頃は、配給は数ヶ月に一度、診察も順番待ちで……時には年単位で待たされることもありました。でも、V.Pに入れば、それが変わる。自分だけじゃない。家族まで、守れる。だから……親からも強く勧められたんです」
「なるほど。親の意向か」
ゲルニカは納得したように頷くと、視線をまっすぐトロイに向ける。
「だが、今、君がV.Pを辞めれば、それらはすべて失われる。――それでもいいのか?」
トロイは一度だけ目を閉じ、そして静かに答えた。
「命の危険から逃れられるなら……それでも構わない、と思ってます」
「命の危険、ね」
ゲルニカは鼻で笑った。
「この世界じゃ、どこにいたって死と隣り合わせだ。事務員に戻ったからって、死からは逃れられない。むしろ無防備になるだけさ」
「でも……戦場で弄ばれるような死に方はしないでしょう?」
トロイの言葉に、ゲルニカの目が細くなった。
「……君は、もうすでに“運命”に弄ばれている。それに気づかずにいるなんて、子供と同じだよ。いや、子供の方がまだ現実を受け入れているかもしれない」
突き刺さるような言葉だった。
だが、反論はできない。
トロイは唇を噛み、ただ静かに涙をこぼした。
怖い。
戦いたくない。
逃げたい。
でも、逃げれば何も守れない。
その矛盾が、彼の心を押し潰しそうになっていた。
「……泣いても、何も変わらないよ」
ゲルニカの声は優しくも冷たかった。
「戦わなきゃ、抗わなきゃ、この世界に取り残されるだけだ。怖くても、臆病でも、前に進まなきゃいけないんだ。君は、それができる人間だと……僕は思ってる」
その言葉に、トロイは目を押さえながら、かすかに何度も頷いた。
逃げられないなら、戦うしかない――それが、この世界の現実だった。
「……君が望むなら、これを渡しておこう」
ゲルニカは懐から小さなカプセルを取り出した。
それは直径一センチほどの球体で、赤と青が混ざり合い、不気味な光を放っている。
「凝縮されたナノマシンだ。体内で溶け出せば、五感や身体能力が強化される。だが、肉体的・精神的な副作用も強く、最悪、命を落とす危険もある。使うかどうかは、君に任せる」
トロイはそれを見つめた。
自分を変える力。
だが、同時に命を奪う力でもある。
「……今の俺に必要なのは、力じゃなくて……勇気、です。だから……これは必要ありません」
「……気に入ったよ」
ゲルニカは微笑み、カプセルをそっとトロイの手に握らせた。
「これは僕からの贈り物だ。どうしても必要になった時、命を懸ける覚悟ができた時に使うといい」
トロイはカプセルを光の差す窓辺で見つめた。
まるで飴玉のようなその中に、未来の自分が詰まっている気がした。
「それで……そろそろ行こうか。仲間が無事だといいんだけど」
「……彼は、かなりタフな人です。きっと、まだ生きています」
トロイの声には、確かな信頼が宿っていた。
「……その前に、話しておかないといけないことがある」
ゲルニカが立ち上がり、窓の隙間から外を覗く。
「これから向かう先にいるのは、ただの敵じゃない。君の仲間を連れ去った連中は――“クリムゾン・ライオット”と呼ばれる、危険なカルト集団だ」
「カルト……?」
トロイは言葉を失った。
「彼らは“血によって世界は浄化される”と信じてる。自分たちの血も、他人の血も、流れることに意味があると考えてる。言葉よりも暴力、理屈よりも破壊。完全に理性を失った集団だよ」
「……そんな連中を、これから二人で相手に……?」
「そうだね」
ゲルニカはあっさりと答える。
「でも、心配しないで。僕がいる」
不安げなトロイの顔を見て、彼はふっと笑った。
「信じられないかもしれないけど、僕は“ロイヤルナイツ”の一員なんだ」
その一言で、空気が変わった。
トロイの脳裏に浮かぶ、あの名前。
政府直属の最強部隊。
たった一人で、百人分の兵力を持つとされる戦闘の化身たち――それがロイヤルナイツ。
改めて見ると、ゲルニカの姿はその噂と一致していた。
白く清廉なコート。王冠のようなフルフェイスのマスク。胸に刻まれた、ロイヤルナイツの証“R”の紋章。
「……なんで、そんな人が、ここに……?」
「それは秘密。極秘任務だからね」
ゲルニカは軽く肩をすくめた。
「でも、今は仲間だから安心して。僕が守るよ、トロイ君」
そう言ってマスクを少し傾けた彼に、ようやくトロイは安堵の笑みを浮かべた。
「……あの、じゃあ……名前、教えてもらってもいいですか?」
「ゲルニカ。そう名乗ってる」
「ゲルニカ……分かりました」
どこかで聞いたことのあるような、不思議な響きだった。だが、それ以上深くは考えないことにした。
「さて、出ようか。君の仲間が生きてるうちにね」
ゲルニカはそう言うと、瓦礫をどかし、外へと通じる扉を開けた。
だがその前に、彼は再び足を止めた。
「……ここから先は、命の保証はない。だから少し――君の体をいじらせてもらうよ」
「えっ……?」
驚く間もなく、ゲルニカは懐から注射器のような装置を取り出し、トロイの首元に素早く差し込んだ。
「っ……!」
「ごめんね、ちょっと乱暴だったかも。でも、これで君にも使えるようになる」
彼がコートの下から取り出したのは、白く光る球体だった。
ゲルニカがそれをふわりと空中に放ると、球体は空中で変形を始め、まるでインコのような小型の鳥の姿へと変わった。
「これは君を守るためのナノドローン――“ハミングバード”だよ」
「守る……?」
「その通り。君の思考に反応して自律行動する、個人用のサポートユニットさ」
そう言って、ゲルニカは突然、銃を抜いてトロイの頭に向けた。
「な、何を……!?」
「試してみよう。君の思考で“守れ”と指示するんだ。三秒後に撃つから」
「そ、そんな無茶なっ……!」
「早く。君ならできる」
ゲルニカがカウントを始める。トロイの心臓が跳ね上がる。
――助けて。
ただそれだけを強く願った。
「……!」
パシュッ、と軽い音が響く。
目を閉じていたトロイが恐る恐る目を開けると、ハミングバードがその翼で彼の頭部を覆っていた。
銃口の前には、羽根の一枚が焦げていた。
「……成功だね」
ゲルニカは銃を下ろすと、空を見上げながら満足げに言った。
「ただし、この子にも限界はある。一度に何度も使えばオーバーヒートして“卵”に戻ってしまう。その間は無防備になるから、注意してね」
床に転がった白い球体を拾い上げると、青白い光が微かに点滅していた。
「手首のデバイスと連動させれば、充電と帰還機能が働く。君の命を守る、大切な相棒になるよ」
「……こんなもの、もらっていいんですか?」
「もちろん。替えはないけどね。壊したら修理に出すしかない。……まあ、直るとは限らないけど」
トロイは手のひらの中の球体をじっと見つめた。
この小さな機械が、自分の命を守ってくれるのだ。
「ありがとう、ございます……」
「さて――」
ゲルニカはふたたび立ち上がり、外の様子を窺うと、静かにコートの内側から複数の球体を取り出した。
「少し手本を見せようか」
彼がそれを空へと放り投げると、球体は一つずつ宙に舞い、カチリと音を立てて展開する。
変形したそれらは、先ほどのハミングバードと同じ姿をしていた。白い羽を持つ小型の鳥型ドローンが、六羽。
「この子たちは、シールドだけじゃない。目にもなるんだ」
ゲルニカが腕のデバイスを操作すると、六つの映像が空中に投影される。
それぞれのハミングバードが、上空から周囲を監視している映像だ。兵士たちが各所で警戒しているのが見える。
「道は……やっぱり厳しそうですね」
トロイが呟いたそのとき、ゲルニカは五番目の映像に視線を固定した。
「……この子の視点なら、使えるね」
「でも……そこにも兵士がいたはずでは?」
「いたよ。一人だけ」
ゲルニカはモニターに映る兵士を指差す。
「単独行動中だ。始末してしまえばいい」
「えっ……始末って……」
トロイは反射的に問い返す。
だが、ゲルニカはさらりと言った。
「気づかれたとしても、もう僕たちはそこにはいない。問題ないよ」
冷静で、揺るぎがない。
しかし、レオとはまるで違う。
彼なら、可能な限り戦闘を避けただろう。
だが、ゲルニカは違う。迷いがない。だからこそ、恐ろしかった。
「……君は、今回で現場入り何回目?」
「二回目です……」
「じゃあ、まだ……人を殺したことはないんだな」
トロイは答えられなかった。
口を開けば肯定してしまいそうで、沈黙しかできなかった。
「V.Pにいる限り、必ずその時は来る。心の準備だけはしておきなさい」
「……はい」
声は出たが、気持ちはついてこなかった。
人を殺すことが“当たり前”になる世界。
それに馴染んでしまうのが、恐ろしかった。
だが――
それでも。
仲間を見捨てて逃げることは、もっと怖かった。
「行きましょう。彼は、きっと待ってます」
言い切るようにそう告げたトロイの目には、迷いはなかった。
ゲルニカは微笑み、首を軽く縦に振った。
「いい顔になったね。なら、行こうか――君の仲間を、取り戻しに」
⸻
廃墟の空に、再びハミングバードが舞う。
音のない羽ばたきが、トロイの決意を静かに見守っていた。
今回の話では、トロイの内面に焦点を当てつつ、新たなキーパーソンであるロイヤルナイツ・ゲルニカの存在を掘り下げました。
彼の冷静さと非情さ、そしてその裏に潜む本心が、読者にどう映ったか……とても気になります。
また、トロイが手にしたのは“力”ではなく“覚悟”。
彼の言葉にあるように、「必要なのは力ではなく、勇気だ」というテーマは、物語全体の芯にもつながっていきます。
この物語は、正義と非情の境界を問い続ける物語でもあります。
次回、いよいよ“クリムゾン・ライオット”との対峙が始まります。どうかお楽しみに。