死神の足音
世界が壊れてから、人は「生きること」に代償を払うようになった。
都市は瓦礫と化し、感染症〈ペイルファイヤ〉の脅威が夜にも潜む。
高い壁の内側で管理される人々と、外で見捨てられた者たち。
エミリアは、父とともに区域外でひっそりと暮らす少女だった。
奪われ、追われ、そして――彼女は出会う。
ひとりの“処理者”に。
世界の秩序を保つために、命を奪うことを命じられた男に。
これは、ある男の心に小さな歪みを生む、始まりの物語。
一話
都市の風景は崩れたビルと瓦礫に覆われ、失われた栄光の残響を静かに物語っていた。
その中心で、ホワイトタワーの白い光だけが、夜の闇を裂くように静かに輝いている。
中央部に聳え立つその塔は政府の象徴であり、すべての命令が、そこから世界へと降り注ぐ。
だが、その塔を囲む街は、すでにかつての繁栄を忘れ去っていた。
複数の検問所と高い壁によって区画化された居住地には、わずかに残された人々が管理されるように暮らしている。
そして、壁の外――そこには、誰もが恐れる“無法地帯”が広がっていた。
そこに住まうのは、「ハイエナ」と呼ばれる略奪者たち、あるいは区域内への移住を許されなかった者たち。
彼らは生きるために、奪い、壊し、殺す。
それは、社会の底辺に押しやられた者たちにとって、唯一残された「生存の手段」だった。
──そんな夜の街に、ひとりの少女がいた。
名前は、エミリア。
痩せこけた体に、擦り切れた服。
汚れた顔には恐怖の影が焼きついている。
この世界に、“安全”という言葉はもう存在しない。
誰かに見つかれば、奪われるか、殺されるか。あるいは、もっと酷い目に遭う。
エミリアは生まれながらにして貧しさの中にあった。
区域内での生活を許されず、父とふたり、壁の外の荒廃した建物でひっそりと暮らしている。
だが、そこはあまりに過酷だった。
ペイルファイヤ――青い花を咲かせる未知の植物に由来する感染症。
感染者の体から放出される花粉は、日中には活性化し、特殊なマスクなしでは数分で命を奪う。
夜になれば活性は下がるが、その時間帯には別の脅威が街に徘徊する。
略奪者、殺人者、狂った者たち。
“夜の街”は、別の意味で死が潜む。
「一番怖いのは、感染者でも化け物でもない。生きた人間だ」
そう父に教えられてきた。
エミリア自身も、それを疑うことはなかった。
物資を奪うために、友人であろうが家族であろうが、平気で裏切り、殺す。
この目で、何度も見た光景だった。
──弱き者は、強き者に抗えず殺される。
だからエミリアは、誰も信じない。
父以外、誰にも心を許さず、決して近づこうとしなかった。
今日も、自作の弓を背に背負い、廃墟の中で使えるものを探していた。
そのときだった。
階下から、誰かの足音が響いた。
――複数だ。二人。
エミリアは即座に息を殺し、机の下へと身を滑り込ませる。
「本当に物音が聞こえたのか?」
「間違いねぇ。ここらで何か動いた音がした。」
声色からして男が二人。
きっとハイエナだ。
エミリアは目を閉じ、ただ見つからないよう祈る。
「…誰もいねぇじゃねぇか。」
「おかしいな……たしかに聞こえたんだけどよ。」
ろくに確認もせず、男たちはその場を離れていった。
エミリアはわずかに息をつく。
……長居しすぎた。
この場所に留まるな。そう教えた父の言葉が脳裏に蘇る。
男たちの足音が遠のいたのを確認し、エミリアは静かに机の下から抜け出した。
手に入れた物資は少ないが、今は生き延びることが最優先だった。
慎重に、足音を殺して、元来た道を戻る。
廃ビルの出口が見え、エミリアは外へと出た。
だが、そこには──
「やっぱり、いたな。」
「だから言ったろ。」
先ほどの男たちが、建物の影から現れた。
しまった。
見張られていた。
エミリアはすぐに身を翻し、闇の中を全力で駆け出した。
重いリュックを揺らしながら、腕と脚を必死に動かす。
足の速さだけには自信があった。
男たちとの距離を一気に引き離し、やがて姿が見えなくなった。
……息が切れる。
膝に手をつき、ようやく足を止める。
何度も経験したことのある逃走劇。
だが、慣れることはない。
手足は震え、心臓は爆発しそうなほどに打ち鳴る。
──父の帰りを待つ間に、自分が動いたのが間違いだった。
そう思いながら、エミリアは早足で路地を歩いた。
暗闇の中、誰にも見つからぬように。
足元には、いつ死んだのかわからない死体が崩れ落ちていた。
腐敗し、骨が見えるその遺体が、彼女の不安をさらに煽る。
やがて、見慣れた建物が視界に入る。
“帰ってきた”という安心感に、エミリアは警戒を緩めた。
──それが、命取りだった。
扉の前に立ち、追っ手から逃げ切った安堵から、エミリアはドアを開け、隠れ家に戻ろうとした。
だが、その瞬間だった。
後ろから誰かが扉を押さえつけ、エミリアはそのまま押し倒される。
「きゃっ!?」
振り返ると、さっき見かけたチンピラ風の男が二人、ニヤリと笑いながら部屋の中へと踏み込んできた。
「なんで…なんでここが…出てって!!」
逃げ切れたと、油断していた自分を悔やむ暇もない。
男たちは土足で隠れ家に入り、使えそうな物を袋に詰め始めた。
「どうせもうすぐ死ぬんだ。もう何もいらねぇだろ?」
「おっ、食いもん見っけ。」
せっかく貯めていた食料まで掻っ攫われていく。
床に倒れたまま、エミリアは必死に叫ぶが、彼らに良心などあるはずもない。
「ったく…うるせぇガキだな。」
男のひとりが苛立ち、エミリアの顔を蹴りつけた。
「だれ…か…たすけて……。」
血を流しながら、エミリアはかすれた声で助けを求める。
けれど、この世界に警察も守ってくれる人もいない。
弱者は強者に貪られ、殺される。それがこの世界の現実だった。
「……こんなもんか?」
「大体は回収したな。」
袋を肩に、男たちは満足げにソファに腰を下ろし、エミリアをいやらしい目で見つめる。
「へっ……この時代じゃなけりゃ、1発かましてたところだ。よかったな。」
そう吐き捨てると、エミリアに唾を吐きかけた。
そして、最後に──男は彼女に銃口を向ける。
「……もういいだろ。」
死を悟ったエミリアの瞳が、静かに銃口を見つめる。
抵抗する力も残っていなかった。ただ、終わりを待つだけ。
だが──その瞬間、扉が蹴破られ、黒いコートの男が中に飛び込んできた。
「……なんだ、テメェ。」
無言で男たちの前に立つ黒コートの男に、チンピラたちは銃を構えた。
パンッ、パンッ──。
引き金よりも早く、男たちの頭が撃ち抜かれる。
倒れる音の中、エミリアはかすかに声を上げた。
「あり…がとう……。」
だが、助けてくれたはずの男は何も言わず、倒れた男たちに何かをかけ始めた。
見えない場所で何をしているのか分からず、不安が募る。
そして気づいてしまった──彼は、正義の味方ではなかった。死を運ぶ、政府の”処理者”だったのだ。
「あ……ああ……。」
這うように逃れようとするエミリア。
コツ、コツ、コツ──
規則正しい足音が、恐怖の中に響く。
──いやだ。
歯を食いしばり、必死に這い進もうとする。だが、それも無駄だった。
影が覆いかぶさり、背後から銃口が押し当てられる。
「痛みは、これ以上感じさせない。」
無機質な声。
「……やめ──っ!!」
少女の体が震えた。
──乾いた銃声が響く。
小さな体が一度跳ね、そして、二度と動かなかった。
硝煙の中、死神は無言で処理を始めた。
銃口から立ち上る煙を払い、遺体を確認する。
感染の兆候──なし。
だが、命令は“疑わしきは排除”。
迷う理由はなかった。
所持品を燃やし、遺体にネクロジェルを散布。
エミリアの体はゆっくりとスライム状へと崩れていく。
オイルライターを取り出し、部屋に火を放つ。
燃え上がる炎を背に、死神は歩き出した──その時だった。
「ねぇ……そんな少女まで手にかけて……胸は痛まないの?」
背筋に寒気が走る。
すぐ後ろに、誰かがいた。
即座に振り返る。銃を構える──
そこにいたのは、敵意のない女だった。
銀髪が揺れ、蒼い瞳が物憂げに笑っていた。
「……この世界のためだ。」
「世界のため、ね。」
皮肉を込めて笑う女。
死神──レオは銃口を下ろしきらず、警戒を保ったまま言った。
「おい……死にたくなければマスクをつけろ。」
「私なら平気。」
「……?」
「ペイルファイヤは空気感染もする。お前も──」
「そういう体質なの。」
女は少女の遺体から目をそらし、ゆっくりと歩み寄る。
「子どもの頃から、病気になったことが一度もないの。」
「……信じられない。」
「別に、信じなくてもいいわ。」
女はレオのマスク越しにじっと目を見つめる。
「私は感染していない。だから、銃を下ろして?」
レオが何かを言いかけた、その時──
「──あそこだ! 銃声がしたぞ!」
遠くから数人の影が走ってくる声がした。
「……ハイエナどもが……。」
振り返ると、女の姿はもうなかった。まるで幻のように。
わずかに残る甘い香りと、耳に残る言葉だけが残されていた。
レオはすべてが燃え尽きたことを確認し、立ち去る。
都市は、腐っていた。
焦げたような臭いと、腐肉の匂いが混じり合う空気。
崩れた建物、ひび割れた道路。白骨化した遺体が瓦礫の中に転がっている。
ここでは、生きることが、罪だった。
──二十年前。
突如現れた伝染病「ペイルファイヤ」が、世界を変えた。
肉体を蝕み、意識を奪い、人を化け物に変えてゆくその病に、政府はワクチンを作れず。
社会は崩壊し、暴力がすべてを支配した。
都市に生きるのは、ただ生き延びるために他者を喰らう者たち。
そして──感染者を狩る者たち。
彼らは「ヴァンガード・プロトコル」。
政府の意志を実行する影の処理者。
感染者。反抗者。そして、不要とされた者を──抹殺する。
その一人が、さきほど少女を撃った男──レオ・ヴァレンティスだった。
命じられるままに不要な命を消し、“世界のため”に銃を構えてきた。
だが──今日、その信念が、わずかに揺らいだ。
冷たい銃の感触が、まだ指に残っている。
あの銀髪の女の言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。
「私なら平気。そういう体質なんだ。」
──もし、彼女の言葉が真実なら。
もし、本当に感染に耐性を持つ者がいるのなら。
俺のしてきたことは、ただの殺しだったのか?
胸が、わずかに痛んだ。
だが、それをかき消すように、レオは歩き出す。
闇に溶けるように。
夜が静かに、都市を覆っていた。
⸻
命じられるままに、ただ引き金を引くだけだった。
それが、レオ・ヴァレンティスの日常だった。
だが、エミリアの死を境に、何かが狂い始める。
本当に“感染の疑い”はあったのか?
彼女は、ただそこにいただけではなかったのか?
そして現れた、感染に耐性を持つという謎の女。
彼女は、レオの信じてきた正義を静かに崩していく。
この物語は、「世界を守る」ことの意味を問い直す旅でもあります。
たった一人の命の重みが、全てを変えることだってある。
どうか、次のページもめくってもらえたら嬉しいです。