赤い指、偽りの死
初めて刃を握ったとき、命の重さがわかった。
そして、その命が軽々と奪われる世界の重さも。
任務は順調に見えた。
だが――“死んだはずの男”が、笑いながら帰ってきた。
トロイの心に、“最初の血”が滲む第九話。
朽ちた車体の隙間を縫うようにして、トロイとゲルニカは静かに前進していた。
頭上では小型ドローン――ハミングバードが周囲を旋回し、行く先の安全を確認している。今のところ、敵の気配はない。だが、このまま無傷で通り抜けられるほど現実は甘くない。
数メートル先。廃車の影から、一人の男がふらつくように姿を現した。
ゲルニカは手を挙げて制止の合図を送ると、音もなく接近していく。そして、迷いのない手つきで男の背後に回り込むと、その口を塞ぎ、首を締め上げた。
「……ッ、ゲェ……」
カエルが潰れるような濁った声が喉奥から漏れ、男は力なく地面に崩れ落ちた。まだ息がある――殺さず、ただ気絶させただけだ。
ゲルニカはその男の体を物陰へと引きずり込み、外から見えぬように隠すと、無言でナイフを取り出し、トロイへと差し出した。
「……何を?」
「彼の息の根を止めるんだ。後で目を覚まされたら面倒になる」
「いや……えっ……?」
「反撃されることはない。今なら安全に、確実に仕留められる。最初の一人だ。いい経験になるし、箔もつく」
耳を疑った。
目の前で眠るように倒れている男。まだ息はある。その命を、今、自分の手で絶てと……?
「…………」
トロイはナイフを握ったまま、動けずにいた。
その姿を見たゲルニカは、やや呆れたようにため息を吐き、そっとトロイの手に自らの手を重ねた。
「こうやって――」
グッ、と刃が肉に沈む感触が伝わってきた。
ぬるりとした温かさが手の甲に染み込み、ナイフから逃れようとするも、ゲルニカの手が強く握ったまま離してくれない。
「なっ……!」
「この感触、覚えておくといい。これが、人を殺すということさ」
血が溢れ、トロイの手を濡らした。
反射的に「離してください!」と声を上げたが、ゲルニカにすぐ制される。
「声を抑えろ。見つかるぞ」
辺りを警戒するように目を走らせた後、ようやく彼は手を放した。
震える指先からナイフが滑り落ち、トロイは血のついた手を見つめた。冷たいのに、どこか重たく、気持ち悪い。
「……なんのつもりですか……」
「経験させただけさ。人の死をね。これで君も、僕らと同じ立場になった」
それが“仲間入り”だとでも言いたいのか?
理解などできなかった。怒りすら湧いてこない。ただ、圧倒的な現実の重みに心が軋んでいく。
「納得いかないかい? でも、いずれ感謝する日が来ると思うよ」
ゲルニカは、あたかも何事もなかったかのように再び歩き出す。
その背中を見つめながら、トロイは手についた血を壁に、地面に擦りつけて拭った。心臓が嫌な音を立てていた。
数分の沈黙の後、二人は再び歩き出した。誰とも遭遇しないまま目的地の目前までたどり着いたことに、トロイは奇妙な違和感を覚えた。
――あの男を“処理させる”ために、道をわざと空けていたのではないか?
「さてと……問題はこれからだね」
ゲルニカが足を止めた先には、廃車を積み重ねて造られた簡易のバリケード。その奥では兵士たちが検問を行っていた。
他にも入り口があるかもしれないが、どこも同じように厳重に警備されているだろう。
「一つ策がある。でも……君は賛同しないかもね」
「どんな?」
「僕が正面から陽動して、君が一人で中へ入って仲間を救出する」
冗談じゃない。一人で?あの中に?
「そんな……俺には無理ですよ!」
「彼らを倒してから追いつくよ。十分もかからないと思うけどね。それでも不安?」
ゲルニカのその自信はどこから来るのだろう。
トロイは自分の立場を思い出す――戦場ではまだ新米。こんな作戦、無謀としか思えない。
「おれはまだ、ただの新人なんです。そんな責任、背負えるわけが……」
「……悲観的だな。じゃあ別の方法を考えよう。少しだけ時間をくれ。警戒してて」
ゲルニカはデバイスを操作し、再びハミングバードに偵察を指示する。
トロイもデバイスを起動し、自身のハミングバードを連携させた。鳥型に変形したドローンはすぐに大空へ舞い上がり、周囲の映像がトロイの画面に投影される。
「……なかなか手際がいいね」
「機械いじりは、得意なんで」
そう、それだけは誰にも負けないという自負があった。
映像を睨みながら配置を確認していると、ゲルニカが声をかけた。
「見つけたよ」
彼が見つけたのは、屋根の突き出た搬入路だった。そこなら上からの視線は遮れる。
だが、問題は正面に立つ五人の兵士。隠れられる場所はなく、戦闘は避けられそうになかった。
「……安全な道はないんですか?」
「そんなもの、どこにもないよ。あるのは“危険”か“さらに危険”か、それとも“その上をいく危険”だけだ」
頭が痛くなる。なぜこの人は、いつも危険な方へ突き進むのか。
「安心して。僕らが戦う必要はない」
「……えっ?」
ゲルニカは六体のハミングバードを展開し、それぞれに別々の命令を与えた。
五体は視界に入る兵士たちのもとへ飛び、首筋を羽で切り裂いた。
「すご……」
その瞬間、物陰に潜んでいた六人目の兵士が異変に気づき、通信を取ろうとする――が、最後の一体が猛スピードで飛び、喉元を正確に切り裂いた。
バシュッ。血が噴き、辺りは再び静寂に包まれた。
「さて、行こうか」
「そんな……こんなことまでできるんですか……」
「まぁね。でも、六体それぞれに別の命令を出すのは難しいから、君は真似しない方がいい」
「……でしょうね。で、でも、六人目の兵士って……どうやって分かったんです?」
「超能力、って言いたいところだけど……事前の偵察で確認していたんだ。まぁ、知らなくても、対処はできただろうけどね」
それはまさに異次元の技だった。
命令を振り分け、狙いを定め、寸分違わず実行する。しかも、どこに隠れていたのか分からない相手にまで。
――これが、ロイヤルナイツの力か。
「中に入る前に……覚悟だけは決めておくといい」
「なんの……覚悟ですか?」
「死ぬ覚悟さ」
思わず息を呑んだトロイを見て、ゲルニカは肩をすくめて微笑んだ。
「冗談だよ。ハミングバードを飛ばしっぱなしにしてるから、中の様子は手に取るように分かる。心配しなくていい」
ゲルニカのデバイスには建物の立体構造が表示されていた。赤い点で示された兵士たちの位置も――すでに、丸見えだった。
二人は静かに搬入路の扉を開け、建物の中へと足を踏み入れた。
薄暗い廊下。蛍光灯のちらつく光の下、床には血のような赤黒い液体がこびりついている。
鼻腔を突き刺す、鉄と腐臭が混じったような匂い。マスク越しですら、トロイは思わず咳き込んだ。
「鼻から息を吸わない方がいい」
言われたとおり口で呼吸するが、鼻についた臭いが口の中に変な味を広げていく。
耐え難い不快感に眉をしかめながらも、ゲルニカは冷静に周囲を確認していた。
「この建物は五階建て。そして……君の仲間は三階、中央の部屋にいるようだ」
「どうして、そんなことまで?」
そう尋ねるトロイの肩に、ふいに何かが乗った。
「っ……!」
ゆっくりと顔を向けると、そこには手のひらほどのサイズの蜘蛛。
その足が彼の頬を登り、頭の上へと移動していく。
「この子のおかげだよ。アラクナイ。蜘蛛型偵察ドローンさ」
「鳥の次は……蜘蛛ですか」
「他にもあるけど、僕が好んで使うのはこの二つかな」
ゲルニカは少し楽しそうに答える。
「このアラクナイで、仲間の居場所を?」
「そう。事前に潜り込ませておいたんだ。君の仲間は、確かにそこにいる」
事態は驚くほど順調に進んでいた。
このまま戦闘を回避して、カイルを救出できるかもしれない。
「ただ……兵士の数が多い。どんな時でも、絶対にパニックにならないこと。それだけは忘れないで」
簡単に言うが、トロイにとっては現実味がなかった。心臓はすでに喉元までせり上がり、全身が硬直している。
「君にも一つ、アラクナイを渡すよ。偵察しながら進もう」
トロイは受け取ったドローンを素早くデバイスにリンクさせた。
「アラクナイは偵察しかできないんですか?」
「戦闘用じゃない。でも、偵察においてはこの子に勝る者はいない。暗視、サーモグラフィ、その他多機能だよ」
説明を受けている最中、ゲルニカが唐突に眉をひそめた。
「……まずい。誰かが来る」
確かに、足音が廊下に響いていた。
二人は物音を立てず、近くの部屋に滑り込む。
「…………」
やがて現れたのは、身長二メートル近い大柄な兵士。廊下を歩きながら、地面に視線を落としている。
ふと、耳に手を当ててつぶやいた。
「……足跡が二つ……俺たちのものじゃない」
通信か。すでに侵入が察知されたのだ。
兵士は部屋の中へと足を踏み入れる。ナタのような刃を構え、警戒しながら進む――
だが、トロイが次の動きを見ようとした瞬間、兵士の身体が崩れた。
「……何を」
声を上げかけたトロイを、ゲルニカが指先で制した。
「静かに」
兵士は、すでにゲルニカによって沈黙させられていた。
音もなく接近し、支えながら倒れたのだ。手際が違う。
ゲルニカは兵士の通信機を拾い上げ、口元へ当てた。
「……どうやらこちらの間違いだったようだ。足跡は、ただ血が滲んだだけ。異常はない」
その声――まるでさっきの兵士と同じ声だった。
『了解』
通信相手から返答があり、ゲルニカは通信機を自分のコートにしまった。
「今の……どうやったんですか?」
「ただのボイスチェンジャーだよ。君のデバイスにも機能があるだろう?」
慌てて確認すると、確かに“音声模写”と呼ばれる機能が存在していた。
コピーした音声を再生し、相手に成りすます。それだけのことだが、あの短時間で実行に移すのは容易ではない。
「使い方は簡単。録音して、再生。操作はすぐに覚えられるよ。今後、必要になるかもしれないしね」
そのレベルに自分が届く日は、来るのだろうか――
そんな不安を飲み込んで、トロイは頷いた。
二人はアラクナイの先導で建物内を進んでいく。
三階へと続く階段を上がる途中、不意に硬質な金属音が響いた。
ゲルニカが手を挙げ、静止の合図を送る。
「上に二人。階段に腰かけて話してる」
階段の踊り場からは死角となっており、兵士たちの姿は見えない。
このまま突き進めば、確実に見つかる。ゲルニカは冷静にアラクナイを操作し、階段上の右手にある部屋へと滑り込ませた。
やがて、机の上に置かれていた缶を発見。ドローンがそれを落とす。
カランッ。
軽い金属音に、兵士たちの声がざわめく。
「……今の音は?」
「ネズミでもいたんだろ」
「見てくる」
「ったく、放っとけっての」
やがて二人の兵士は、トロイたちの前を横切って部屋の中へと入っていった。
その隙を突いて、二人は音もなく階段を駆け上がる。
廊下には人の気配はない。アラクナイの偵察映像がそれを証明していた。
長い廊下の先、目的の部屋へとたどり着いたトロイは、ドアの前で立ち止まった。
「この中だ」
「……はい」
ゲルニカはドアの隙間からアラクナイを滑り込ませる。
モニターに映る映像を見た瞬間、彼の指がぴたりと止まった。
「どうかしたんですか?」
トロイが声をかけると、ゲルニカは無言のままドアを押し開けた。
その先にあったのは――
「……そんな……っ」
天井から吊るされた肉塊。
鎖で逆さに吊られたその死体は、全身に無数の切り傷と焼け跡が走り、顔の原型さえ判別できなかった。
血が床に滴り、凝固した黒い跡を作っている。
「……カイル……」
トロイは言葉を失い、ただ後ずさった。
呼吸が浅くなり、胸の奥が締めつけられる。自分のせいで、彼は――。
「残念だったね」
ゲルニカの静かな声に、トロイの膝が崩れた。
床に手をつき、涙を堪える。動けなかった。謝罪の言葉すら出てこない。
「……せめて、連れて帰ってあげよう」
トロイは頷くと、震える手で鎖を解き、死体を背負った。
思ったよりも軽かった。それがまた、痛みを増した。
建物の出口へと向かおうとしたそのとき――
足音。
「誰か来るっ」
ゲルニカは即座に警戒態勢に入ったが、トロイはどうすることもできず、その場に立ち尽くす。
暗い廊下の奥から、蛍光灯の明かりに照らされて現れたのは――
「……まさか……」
「ったく、誰かと思えば……なんでお前がここにいやがるんだよ」
姿を現したのは、カイルだった。
「えっ……なんで……生きて……?」
トロイの背中にある死体を見ると、カイルは訝しげに目を細め、ゲルニカに目を向けた。
「……なんでロイヤルナイツがここに?」
「たまたま近くにいてね。彼が救援を要請したんだ。それにしても、生きていたとは……」
ゲルニカは、ほとんど無傷のカイルに驚いた様子を隠さない。
「俺はな、そう簡単にくたばるほどヤワじゃねぇんだよ。それより――」
カイルはトロイが担いでいる死体を指差した。
「まさか、その死体……俺だと思ったわけ? マジで?」
カイルは吹き出しそうになりながら笑い、トロイは困惑したまま死体を床へと降ろした。
――では、この死体は一体誰だったのか。
「……まぁ、探していた仲間が見つかったなら、さっさと脱出でもしようぜ…ってその前に銃を借りてもいいか?武器が取られちまったままでよ。」
「構わないよ」
そう言ってゲルニカが銃を手渡した、次の瞬間。
パンッ。
乾いた銃声が天井を撃ち抜いた。
「……っ!? なんのつもりだっ!?」
「まぁまだ仕事が終わってねぇからな…俺とトロイの任務は、この施設の制圧だ。全員ぶっ殺すまではやっぱ帰らねぇよな。」
階下から、慌てて兵士たちが駆け上がってくる足音が聞こえてくる。
ゲルニカとトロイは急いで武器を構える。
「バカなっ、正気かっ!? あの数を相手にするつもりかっ!」
「アホかよ……正気じゃ、こんな世界に生きちゃいねぇよ」
カイルはにやりと笑った。
「ちょうどいい。最後まで付き合えよ、中央部の精鋭様よ――ロイヤルナイツさんよ!!」
銃声が、再び空気を裂いた。
兵士たちは、餌に群がる蟻のように、三人へと押し寄せてきた。
この世界では、命が紙よりも軽い。
「殺せ」と命じる者がいて、「殺されたふり」をする者がいて、
それでも尚、生きようとする人間がいる。
トロイの心に刻まれた“初殺人”は、
これから先のすべての選択に影を落とすだろう。
次回――暴かれる“本性”と、怒涛の戦場が幕を開ける。