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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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好きな作品

 夜遅く、僕は花沢の部屋に戻っていた。


 鞄の中には自室からとってきた銀河鉄道の夜の文庫本。


 鍵を開けドアを開くと、真っ暗な部屋の隅で、家主が体育すわりをしている。どうやら花沢はまだ起きていたようだ。


「ただいま」


 僕が小声でつぶやくと、「おかえり」という声が返ってくる。


「今日は遅かったね、何かあった?」


 花沢の問いに、僕は彼女に帰宅が遅れることを伝えていなかったことを思い出す。


 長い間1人暮らしだったためか、家で誰かが待っているという状況に慣れていないのだ。


「ごめん、連絡するの忘れてた」


 そして僕は、今日のことを花沢に話した。遠山加奈子とファミレスに行ったこと、そして書きかけの小説を読ませたこと……。彼女が泣いたこと、今日起こったことのすべてをだ。


 花沢は、余計な口を挟まずに静かに僕の話を聞いていた。


 話を聞き終えた花沢は、静かな声で僕に問いかける。


「それで、その小説はどれくらい進んでいるの?」


「だいたい6~7割ってところかな。ストーリーの構成はもう考え終わっているから、明日か明後日くらいには書き終わると思う」


 僕は速筆なタイプではない。


 どちらかというと一つの文章を考えるのに、何度も立ち止まりながらじっくりと頭を使うタイプだった。


 しかし、今回に限っては筆が止まるという事が一切なかった。


 それが良いことなのかは、わからないけれど。


「そう……。じゃあ、書き終わったら読ませてね」


「ああ、もちろん。約束する」


 花沢は笑顔でうなずいた。


 そして僕はふと思いつく。


 彼女は、大学に入るまであまり本を読むことが無かったという珍しいタイプの作家だ。


 花沢は、銀河鉄道の夜を読んだことがあるのだろうか?


「なあ花沢、お前って銀河鉄道の夜を読んだことある?」


 僕の質問に、花沢はうなずいた。


「あるけど……つまらなかった」


「つまらない?」


「ええ。そもそも私、あんまり昔の文学すきじゃないの……いえ、小説を読むこと自体そんなに好きじゃないのかも」


「おいおい、お前は仮にも人気作家だろう?」


「作家が本を好きである必要なんてない。少し、視野が狭いんじゃない?」


 なんとも変な奴だ。


 僕が呆れていると、花沢はまっすぐに僕の目を見て言った。


「前にも言ったけど、私はアンタが書く小説が好きなの。でもそれは、読書そのものが好きだということと同義じゃない」


「……わからないな。僕の小説の、どこがそんなに好きなんだ?」


「わからないわよ。だから私は自分で小説を書いてるの。自分が納得できる作品が書ければ、きっとその答えがわかると思うから」


 そして、その答えを得たら花沢は小説を書くのをやめてしまうのだろうか?


 僕はその疑問を自分の中に押し込んだ。


 もしその問いを彼女に投げかけて、「そうだ」と言われてしまったら、きっと僕は愕然とするだろう。


 あぁ、そうだ。


 きっと僕は、彼女が作る作品が好きなのだと


 そう……気が付いたのだった。





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