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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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星が見えなくても

 食事を終えた僕は、遠山加奈子と別れ一人帰路につく。


 夜の闇はすっぽりと街を覆い、スーツを身に着けた帰宅中のサラリーマンたちが、疲れた顔をして、皆一様に少し俯いてトボトボと歩いている。


 しばらく労働と離れていた僕は、彼らの姿を見ると、少し不思議な気持ちがした。


 皆一様に早起きをして満員電車に乗り、日中はやりたくもない仕事をして、夜は疲れ切ってうつむきながら帰宅をするのだ。


 それが普通なのはわかっている(否、本当はわかっていないのかもしれない)。でも、今の僕には、そんな ”普通” の光景が、どこか歪に歪んで見えた。


 空を見上げる。


 やはり、星は見えない。


 急に、銀河鉄道の夜が読みたくなった。星の無い空を見上げたせいか、それとも疲れ切った顔をしたサラリーマンを見ていたせいかはわからない。


 僕は、カナエからもらった銀河鉄道の夜の文庫本が、自分の部屋に置いてあることを思い出す。


 花沢の部屋に戻ろうと思っていたが、予定を変更して、文庫本を取りに自宅へ戻ることにした。






 電車に乗り、数日ぶりに自宅へと向かう。


 帰宅ラッシュのピーク時間は過ぎていたらしく、車両は結構空いていた。


 ボーっと窓の外を眺める。見知った景色が、右から左へと無機質に流れていく。


 銀河鉄道の夜が読みたいだけなら、花沢の部屋から近い本屋にでも寄って、新しい文庫本を買ってもよかった。


 どうせ数百円の出費だ。


 電車賃を考えると、そちらの方が出費が少ないだろう。


 でも何か違うのだ。


 僕が今読みたいのは、カナエからもらった、あのボロボロの文庫本であると、強く感じていた。







 電車を降り、少し歩いて自宅にたどり着いた僕は、鍵を開けて、しばらくぶりに自室へと足を踏み入れた。


 しばらく換気をしていなかったためか、空気が少し淀んでいるような気がした。


 長い時間誰もいなかった空間特有の停滞感とでもいうべきか、自分の部屋であるはずなのに、他人の部屋に勝手に入ったような違和感が僕に付きまとう。


 窓を開け、外の新鮮な空気を室内に取り入れる。少しのどの渇きを感じた僕は、冷蔵庫を開け、500ミリのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、良く冷えたそれを半分ほどのみほす。


 本棚からボロボロの文庫本、カナエからもらった銀河鉄道の夜を取り出し、鞄にしまい込んでゴロンとベッドに横たわった。


 なんとなく適当にページを開き、目に入った一文を小声で朗読する。




「”月夜でないよ。銀河だから光るんだよ。”」




 ちらりと窓の外を見る。


 ここから星が見えなくとも、確かに星は輝いている。


 ならば星が見えない都会の空でも、きっと銀河鉄道は走っているのだろう。





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