オリジン
花沢は澄んだ瞳で、まっすぐに僕の目を見つめてきた。
僕はそっと視線を下ろし、花沢の差し出した冊子を受け取る。
ボロボロのページをめくると、僕の書いた小説が乗っているページには折り目がついてあることがわかった。
きっと、何度も何度も読み返したのだろう。
そのページだけ、他のページよりも一層ボロボロになっていた。
「私は、何も無い人間だった」
花沢は語りだす。
「私は、何も無い人間だった。勉強でも、遊びでも何をやってもうまくいかないし、こんな性格だから友達もいなかった……。将来の夢なんて無かったし、好きなことも特になかった。休みの日は何もすることがなくて、ただボーっと近所を散歩してた」
何事にも興味が持てなかった彼女は、年齢が上がるにつれ、暇なときは目的もなく勉強をしていたのだという。
曰く、ボーっとしていたら周囲の大人に怒られるが、勉強をしていたら何も言われなかったからだということだった。
ゆえに、勉強が苦手だった彼女の成績は、そこまで悪くはなかった。
そして、やりたいことなど無かったが、周囲に流されるまま大学への進学を決めたのだという。
「進学する大学は家から遠い場所を選んだの……両親から早く離れたくて」
花沢の母親は世話焼きだ。
彼女が世間に疎い事を心配していたのだろう。最初、彼女が実家から出る事は反対していたのだという。
「実家にいることが苦痛だった。やりたくもない勉強をする意味がわからなかった。かといって、やりたいことなんて何も無かったけれど……」
花沢は悲しそうにそう言って、手元のビールを一口飲んだ。
十分に喉を潤してから、再び話し出す。(彼女がこんなにも長く話しているところを、僕は初めて見た気がする)
「晴れて一人暮らしの権利を勝ち取った私は、大学の入学式が終わった後、なんとなく大学の敷地内を歩いていたの」
そこで、彼女は見つけたのだ。
新入生を勧誘するために作成された、文芸サークルの作品集。共有スペースの隅にちょこんとおかれた、フリーの冊子を……。
「別に読書が好きなわけじゃない。今まで名作って言われてる本とか、話題の本とかも読んだことがあるけど、好きになれなかった。でも、その時はあまりにも暇で……なんとなく、その冊子を読んでみようと思ったの」
彼女は積まれている冊子を一冊とり、共有スペースに設置されている適当な椅子に腰かけて冊子を読んだ。
「そして、私の人生は変わった」
彼女はずっと、まっすぐ僕を見ている。
「あなたの作品が変えた」
そんなこと、考えたことも無かった。
「私は生まれて初めて、何かを面白いと感じて……焦がれるほど心を動かされたの。そして、自分もこんな作品が作れるようになりたいって……そう思った」
あぁ、そこから先は知っている。
「初めて小説を書いて、そしてアンタに見せた……嬉しかったよ。だって、私の人生を変えた作品を書いた人に、私の最初の作品を読んでもらえたんだから」
「……そして、その後僕は小説が書けなくなった」
僕がそう呟くと、花沢は泣いているような顔で静かに頷いたのだった。




