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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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コンビニ

 きっと、あの時の僕は正気ではなかった。そう思わざるを得ない。


 狭く古いアパートの一室。しばらく押し入れの奥で眠っていた、微かに埃の香りがする布団に横たわりながら、僕はそう思った。


 あれから、僕は流されるように花沢の提案を受け入れ、一度自宅に戻って必要最低限の荷物をまとめてから花沢のアパートにやってきた。


 この同居生活になんの意味があるのかはわからない。


 ただ、あの時は純粋に彼女の厚意がうれしかった。


 一人で部屋にいると、再び思考の迷路に囚われてしまいそうで怖かったんだ。


 今、花沢は僕の隣に布団を敷いて静かに寝息を立てている。


 狭い部屋だ。離れて眠るなんて物理的に不可能に近い。


 ゆえに僕たちは恋人のように、仲のいい兄妹のように、こうして布団を並べて寝ているというわけだ。


 カーテンのスキマから差し込んだ、わずかな月光が花沢の顔を照らし出す。


 目つきの鋭い彼女に、普段はこんな感想をいだくことも無いのだが、目を閉じて静かに眠っている彼女は、まるで無垢な子供のようにも見えた。


 どうにも眠れそうにない。


 というより、この状況は些か現実味が無さ過ぎる。


 小さくため息をついた僕は、布団から起き上がり、寝間着の上から薄手の上着を着ると、財布を小脇に抱え、眼鏡をかけてそっと部屋から出た。


 夜の空気はひんやりと冷え、季節の移り変わりを感じさせる。


 ぶるりと身を震わせて、ボロボロの階段を下りる。


 仕事でよく訪れていた場所とはいえ、住んでいた訳でもないため、この近辺の土地勘は無い。


 故に僕は、ただ気の赴くままに目的もなくぶらぶらと散策をすることにした。


 見上げると、夜空に満月が浮かんでいる。


 雲一つない夜空に、やはり月の他にはまばらに小さな星の輝きが見えるだけだった。


 満点の星空とはいかないが、しかし満月の夜に散歩とは風流なものだ。


 少し気分が軽くなる。


 しばらく歩いていると、道端にコンビニを発見した。


 特に用事は無いが、火に引き寄せられる虫のように、僕はコンビニの強烈な光に引き寄せられた。


 入店すると、夜勤のバイトが覇気のない声であいさつをしてくる。軽く会釈をして入店した僕は、とりあえず店内をぐるりと見て回ることにした。


 わかっていたことだが、特に買いたいものはない。腹はすいていないし、菓子の類にも興味をひかれない……。


 寝れないのなら、酒でも飲んで酔いつぶれてしまおうかと考えた僕は、適当に缶のビールを購入、店からでた。


 右手にぶら下げたコンビニ袋から伝わる缶ビールの冷気。足に当たって少し寒い。


 僕は袋から一本ビールを取り出すと、プルトップを開けた。


 プシュッという炭酸の音とともに開かれる缶ビール。歩きながら中身をチビチビと飲む。


 炭酸の刺激と麦の苦み。


 別段、ビールが好きなわけではない。しかし、こうして夜風に吹かれながら飲むビールは格別にうまかった。

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