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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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ほんたうのさいはひ

 処方された薬を、冷えたミネラルウォーターで胃袋に流し込む。本来は食後に飲む薬のようだが、食欲が全くない。


 多少は胃が荒れるかもしれないが、飲まないよりはマシだろう。


 ペットボトルに半分ほど残ったミネラルウォーターを作業机の端に置き、机の真ん中に原稿用紙の束と万年筆を準備する。


 小説を書く準備を整え、僕はヒタリと静かにまぶたを閉じた。


 処方された薬の効果かプラシーボか、気分は少し落ち着いている。


 小説を書くと決めたはいいものの、何を書けば良いのか、今の僕には全くアイデアが浮かんでいなかった。


 とりあえず原稿用紙の前に向かえば何とかなるかと考えたのだが、そうもうまくはいかないようだ。


 所詮は凡人、次から次へとアイデアが溢れ出るなんて期待する方が間違えている。


 ……凡人。


 そう、靜香は僕のことを凡人と言った(彼女自身のことも含めて、かもしれないが)。そして、その意見に対しては僕も概ね賛成だった。


 僕は花沢のようにはなれない。その人生の全てを小説に捧げる覚悟なんて無いのだから。


 それでも、それでも僕は完全に小説を捨てることができなかった。


 小説を書けなかった10年間。


 何かが欠けたような鈍痛が、常にこころの片隅に重くのしかかっていた。







『……宮沢賢治は、生きている間、自分の作品が認められる事はなかったわ』


『アイザワさんの論理で言うのなら、生前の彼に ”小説家としての才能” は無かった筈……それでも賢治は書き続けた』






 いつかのカナエの言葉を思い出した。


 才能なんて不確かな言葉を免罪符にして、僕はずっと小説から逃げ続けていたのかもしれない。


 僕は花沢のようにはなれない。


 でも、それは当たり前のことじゃないだろうか?


 僕は靜香のようにもなれないし、カナエのようにも、田村のようにもなれないだろう。


 天才か凡才かなんて関係なく(そもそもその区別すらあやふやで)、人は他の誰かになんてなれないのだから。


 ゆっくりとまぶたを開いた。


 目の前には原稿用紙の束と一本の万年筆。


 靜香は僕を凡人と称し、花沢は物書きと僕を呼んだ。


 きっとそれはどちらとも正解で、どちらも間違いだ。


 僕はどこまで行っても、僕にしか慣れない。


 そんな当たり前の事に気がつくのに、長い回り道をしてしまったけれど……。


 万年筆を手に取る。


 凡人も天才も無いのならば、きっと僕は何者にもなれるのだ。 

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