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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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壊れゆく日常

 今僕は、花沢の部屋で、ちゃぶ台を挟んで彼女と向かい合い座っている。


 僕の目の前にはペットボトルの茶が置かれ、花沢は先ほどコンビニから買ってきたであろう弁当を、ガツガツと喰らっていた。


 突然押しかけてきたのは僕なのだが、花沢には客人に対する遠慮とか無いのだろうか?


 まあ、お茶が出てきたということは、彼女なりに客人をもてなしているのかもしれないが……。


 時計は午前の10時過ぎを示している。


 遅めの朝食だろうか? 花沢は実に美味そうに弁当を食べる。


 彼女が弁当を食べている間、手持ち無沙汰になってしまった。


 もともとここに用事など無い。しかし、部屋にあげてもらっておいて(成り行きとはいえ)すぐに帰るというのも失礼だろう。


 やることも無く、ボーッと弁当を食べる花沢を観察する。


 一言も喋らずモクモクと箸を口に運ぶ。気にしたことは無かったが、意外と彼女の箸の持ち方は美しかった。


 花沢は箸の持ち方も汚いのだろうと、勝手なイメージを持っていた僕は少し驚く。


 こんなに小さな事なのに、花沢に小説以外の長所があったことに心がざわついた。


 僕は何故、花沢の箸の持ち方くらいで動揺しているのだろうか?


 きっと睡眠不足のせいだ。そうに違いない。


 そんな事を考えながら、僕の視線は彼女の手元に釘付けになる。


 美しい所作で持たれた割り箸と、彼女のボロボロの親指の爪……。連想するのは彼女の爪を噛む悪癖。出会った頃から変わらずに、彼女の親指はいつもボロボロだ。


「何見てんの?」


 あまりにも彼女の手元を見過ぎたのか、不審げな顔をして花沢は僕に問いかけた。


 何と言われても、なんで彼女の手元を見ているのか、僕自身にも説明が出来ない。


 だから僕は、彼女に向かって軽く肩をすくめて見せた。


「……へんなの」


 僕の行動に、呆れたようにそう呟いた花沢は残りの弁当をかき込むと、空になった弁当箱をコンビニのビニール袋に突っ込んだ。


 その雑な動きに、何故だか少し安心する。


 花沢は水気が欲しくなったのか、僕の前に置かれたペットボトルのお茶を無断で手に取ると、蓋を開けて容赦なく半分ほど飲み干した。


 あまりに自由な行動に苦笑する。


 でも、不思議と不快にはならなかった。


「で、アンタは何しにきたの?」


 一息ついた花沢は、今更ながら僕に問いかける。


 そんなこと、家にあげる前に聞くものじゃないだろうか? そうは思いながらも、僕はその問いに答えた。


「……いや、別に。何となく足がここに向かってて」


「ふぅん? 今日って平日じゃなかったっけ? 仕事は?」


「サボった」


「へぇ……アンタがサボりねぇ」


 何か考えるように遠くを見ながら、花沢はペットボトルに残っていた残りのお茶を飲み干した。


 水滴が口から漏れ、彼女の唇を伝って床に落ちる。しかし、本人はそんな事気にしていない様子で空になったペットボトルを弁当箱と同じようにコンビニの袋に入れた。


「……聞いて欲しいなら話聞くけど?」


 花沢の提案に、僕はゆっくりと首を横に振った。


 つまらない話だ。こんな些事に、彼女のような天才の時間を奪うような事は僕にはできない。


 花沢は「そう……」と呟くと、コンビニの袋を縛って部屋の端に置いていたプラスチック製のゴミ箱にソレを捨てた。


 どこからか原稿用紙の束とボールペンを持ってきた花沢は、そのままそれをちゃぶ台の上に広げると、当たり前のように執筆を始める。


 僕は何も言わず、ただ彼女が執筆をする様子を対面から眺めていた。


 顔が原稿用紙にくっつきそうなほどの前傾姿勢。凄まじい集中力。自らの作品と全身全霊で向き合う天才の姿は、美しかった。


 僕は一言も発さず、息をすることも忘れて花沢の執筆を見守る。


 カリカリとボールペンの先が原稿用紙を擦る音が部屋に響いている。


 これが、花沢式だ。


 これこそが、花沢式という天才のあるべき姿だ。


 やはり、僕ごときが彼女の時間を奪う事はできない。


 彼女の仕事を邪魔しないように、音を立てずに立ち上がると、僕はこの部屋から立ち去ることにした。


 玄関のドアノブに手をかけた時、背後から声をかけられる。


「帰るの?」


「……あぁ、邪魔しちゃ悪いしな」


 花沢には、小説を書いていて欲しかった。


 僕なんかの下らない痴情のもつれに、彼女を巻き込みたくは無かった。


「小説を書きなよ」


 彼女は言った。


「アンタも物書きの端くれなら、小説を書けば良いんだよ。どんな悲劇も喜劇も、小説を書くための材料でしか無いんだからさ」


 彼女の言葉に、僕は何も返答を為ず、ただ無言でドアノブを押し開ける。


 部屋から出ると、ため息を一つして空を見上げた。


 憎たらしいほどに透き通った青色が、雲一つ無い快晴の空が、たまらなく鬱陶しい。





◇ 

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