困惑
珍しいことに、花沢はすでに原稿を仕上げていたようだ。
今日も長期戦を覚悟していた僕は、少し肩すかしをくらったような気分で、彼女から手書きの原稿を受け取る。
いつも通り、殴り書きの原稿用紙の束。細かな推敲は後で時間をかけてやるとして、内容に問題が無さそうか確認するために、その場で原稿を読み始める。
作品に妥協しない花沢がすんなりと渡した作品とあって、ストーリーは素晴らしく、パッと見た限りでは、表現も苛烈なものは無さそうだった。
「花沢先生。問題無さそうです。ありがとうございます、いつもこれくらいすんなりいくと助かるのですが……」
軽口を叩きながら、事務所に戻る準備を始める。
貰った原稿を封筒に入れ、鞄に収める。立ち上がり、ふと窓の外の青空を見上げた瞬間、何故か動けなくなった。
憎たらしいほどの快晴。きっと散歩をしたら気分が良いだろう……。
「……ねえ、アンタ泣いてるの?」
不審げに問う花沢の言葉。
自分の頬に手を当てると、暖かな水で湿っていた。
「あれ……?」
なんで僕は泣いているのだろうか?
それどころか、自分が泣いていた事にすら、花沢に指摘されるまで気がつかなかった。
仕事中に泣くなんて馬鹿げている。僕はそんな人間じゃあない……ポケットからハンカチを取りだし目元を拭うが、涙は次から次へとあふれだし、一向に止まる気配を見せなかった。 一人泣き続ける僕を見て、花沢は少し困ったような表情を浮かべながら髪をくしゃくしゃと掻き上げる。
「……よくわかんないけど。そんな調子じゃ事務所戻れないでしょ? 私がまだ原稿書き終わらないって事にしていいから、落ち着くまでここにいたら?」
カリカリと原稿用紙にボールペンが擦れる音が鳴り響く。
あれから花沢は、ずっと机に向かい小説を書いていた。
新作の執筆だろうか? つい先程原稿を僕に渡したばかりだというのに、彼女は執筆を休む様子が無い。
コレが花沢式という小説家の姿だ。
彼女にとって、執筆はいわゆる ”仕事” では無い。
朝起きて、顔を洗い、歯を磨いて朝食を食べる。それくらい当たり前にルーティン化されている生活の一部なのだ。
花沢は ”小説を書く” ために生まれてきた人間だと思う。
彼女の人生は、その全てが小説に集約している。
怒りも、悲しみも、喜びも、嘆きも……そのすべては彼女の小説の糧となるだろう。
なんとも不器用な生き方だった。きっと彼女はプロの小説家になっていないくても、その作品を誰も読まなくても独り孤独に執筆を続けるのだろう。
とても敵わない。
彼女と僕とでは、物書きとしての格が違う。
花沢ならきっと、恋人に振られた次の日も当たり前のように執筆をしていることだろう。
僕には……無理だ。
少しはマシになったと思っていた。
10年ぶりに小説を書くことができて、一歩前進したのだと勝手に勘違いをしていたんだ。
今の僕は、小説を書くどころか、普通の生活すらまともにできる気がしない。
今だって、仕事の手を止めて何をするでもなくボーッと花沢の背中を眺めている。
あぁ、きっと僕は彼女のような物書きにはなれないのだろう。
そう、理解せざるをえなかった。




