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咬爪症の女  作者: 武田コウ
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昼飯



「よぉ、どうした? 元気ねえじゃん」


 気分が乗らないまま事務所で仕事をしていると、背後から田村が声をかけてきた。


 ちゃらんぽらんに見えて、田村は以外と細かい所に気がつく男である。


「いえ、少し今日は調子が悪くて……」


 いくら相手が田村だとはいえ、社内で仕事をする気が起きないなんて事を言う訳にはいかない。


 僕は適当な言葉でごまかした。


「ふぅん……調子ねえ」


 じろじろと僕を眺めて、田村は面倒くさそうに頭を掻いた。


「まあいいや。ちょうど昼時だ、飯食いにいこうぜ。久しぶりに奢ってやるよ」










「珍しいですね。先輩が人に奢るなんて」


「まあ、たまにはな。高いものじゃねえけどよ、遠慮しねえで食いな」


 職場近くのラーメン屋にやってきた僕と田村。


 一杯700円ほどのラーメンとはいえ、田村が飯を奢ってくれるなんて本当に珍しい事で、学生の時から付き合いがある僕でも、数度しか覚えが無いほどだった。


 彼は僕の意見を聞くでも無く、醤油ラーメンの食券を2枚買い、店員に渡した(そして、僕もその事に文句は無かった。醤油ラーメンは嫌いじゃないし、何より僕の財布から出て行く金では無いのだから)。


 ラーメンを待っている間。田村はスマホのメールを何件かチェックしてから大きなあくびをし、何となくといった風に僕に向き直った。


「で、どうかしたか? 真面目なお前にしちゃあ珍しくボウッとしてたみたいだけど」


「……そう見えましたか?」


「俺が気づくくらいだ。他のやつらも気づいてただろうよ」


 そんな事を言っているが、恐らく僕の不調に気がついているのは目の前のこの男くらいだろう。


 一見ちゃらんぽらんに見える田村は、実のところ周囲の人間を恐ろしいくらいによく観察している事を、付き合いの長い僕は知っている。


「どうにも、今日は仕事をする気が起きなくてですね……昨日の夜更かしが原因だとは思うのですが」


「なんだ、つまらん理由だな」


「ええ、つまらない理由です。すいませんね、こんな事でご飯を奢ってもらって」


 そんな雑談をしていたら、頼んでいたラーメンを持った店員がやってきた。ドンと少し乱暴に置かれたどんぶりの中には、熱々の湯気が上がる醤油ラーメン。


 店の中は少し強めに冷房が効いていたため、少し凍えた体にラーメンの熱気が嬉しい。


 僕と田村は、特に会話をするでも無く無言でラーメンを啜った。醤油ベースのチープなスープが空っぽの胃にしみるようだ。


 無心でラーメンを食べ終え、お冷やを飲んで一息ついていると、同じようにラーメンを食べ終えた田村が、こちらを見ずにポツリと呟いた。


「まぁ、つまらん理由だがな。飯くらい奢ってやるから気軽に声かけろや……長い付き合いだしよ。遠慮すんな」


「ふふ……本当ですか? 長い付き合いですけど、先輩に奢って貰った記憶が数回しか無いですよ?」


「そうだったかね? まあ細かい事は気にすんな。人生、適当に生きてるくらいがちょうど良いんだよ」


 そして僕たちは店を後にした。


 田村が僕にしてくれた事といえば、安いラーメンを奢ってくれた事くらいだ……。なのに、店を出た僕の気持ちは、ほんの少しだけ軽くなっているようだった。






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